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本が読めない33歳が国語の教科書を読む

「本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む」から1年後、「本が読めない33歳が国語の教科書を読む」が発売されると聞いた時は本当に嬉しかった。
そのニュースを支えに数週間、いや、数ヶ月を過ごしたし、実際に出てからは繰り返し繰り返し読んだ。だけど、なんとなく感想をうまく言葉に出来ずに、気がつけば夏が終わろうとしている。

 

 


 


去年はなんだかんだ買って数週間で感想を書いてた。し、なんなら発売直後のラジオごっこで、「すごい本を読んだ!」と興奮気味に喋っていた。
それがなんで今回、こんなに感想がまとまらなかったのか、と言えば、心当たりはいくつかある。

 

一つには、一年前に比べたらどっぷりと「かまみくリスナー」になっていたこと。支えられ過ぎて、かまどさんとみくのしんさん二人の存在は自分の中でかなり大きくなっている。
また、そうしてラジオを聴き、記事を読んでいることで多少なりとも二人の解像度が上がってしまい、ただ本の感想というよりも、個人的かつ勝手なかまみく論みたいになりそうで、さてどうしたものか、と思ったことも理由である。

 


だけど、やっぱり、もう全部ひっくるめて書きたい。

 


好きだと思った理由を書く時、どうしたって評論や作家論、あるいはその他諸々、なんだか専門的な難しい理論を軸に書けたら格好いいけど、私はいつだって「わたし」軸でしか書けない。それをガッカリもするけど、でもそれが自分だ、とも晴れやかに思うので、そのていでもう、書く。

 

 


そしてもう一つの理由。それは、この本が前回の「本を読んだことがない」からまた違った変化があり、その変化を言葉にするにはちょっと歯応えがしっかりあったからである。
前回がある意味では無邪気に、ただただ広がっていく読書の世界をみくのしんさんが楽しみ、それをかまどさんが見守ったものだとすると、今回は、明確に一つの読書が「出来ない」と考えるみくのしんさんが一つ一つ乗り越えながら、「本を読む」と向き合った、そんな話のようにも思える。


なので、私もちょっとこの本の感想を書くならしっかりと考えて心を動かして言葉にしたくなったのだ。
それは、真剣なみくのしんさんの様子に姿勢が正されたから、というのもあるし、かまどさんのこの本の中での思いだとか感情がたまらなく自分にとっては好きで、全部をちゃんと(土台、全部なんて無理に決まってはいるけど)言葉にしきれるだけ、しきりたくなったのである。

 

 

走れメロス」で本を読める!と思ったみくのしんさんが「山月記」に挑戦し、挫折したところからこの本は始まる。

 

 

みくのしんさんの読書を読む度に私は「読める」とはなんだろう、といつも考える。
かまどさんもいつかの記事の中で言っていたように私はみくのしんさんほど「読めた」ことはあるだろうか、と思うし、この人が「読めてない」なら誰も「読めてない」だろ、と思いもする。
だけど、それはそれとして、「山月記」を読んで「自分は本を読めないんだ」という自意識を取り戻してしまう様子を見て、みくのしんさんにとって読書って「お勉強」なんだなあ、と改めて思う。
そしてそれは彼にとって「自分には出来ないもの」なのか。

 


ただ、その中でかまどさんは「勉強じゃない」じゃなくて「じゃあ、もう一度、教科書を読んだらどうだろう」と考える。私はここが、まず、とんでもなく好きだ。

 

「学び直す」なんて大げさなことじゃなくていい。「大人になった今、教科書に載っている作品を読んでみる」ただそれだけで、きっと彼の中で何かが変わるような気がします。

 

 

かまどさんのこういう姿勢にかまどさんにとっての「勉強」を思う。思えば、全ての始まりだったかまみくの「走れメロス」初読回でもそんな話をかまどさんはしていた。

 

【26】睡眠用かまみく「みくのしんが走れメロスを読んで泣く回」 | オモコロ

※大きな声が出るし、走れメロスを読むのは後半です。

 

 

走れメロスを読んで本って、文学って面白いのかも、という話を二人がするところが大好きで、だから古典は残ってるんだ、と話すかまどさんの言葉ひとつひとつが好きで、何度も聴いた。その中で言っていたのだ。


勉強は全部の科目がそうであること、英語も数学も社会も理科も、そういうのがたくさんたくさんある。
そんなかまどさんが隣で伴走しながら、国語の教科書をみくのしんさんが読む。それは、「お勉強」だと壁を作って自分には縁がないものだ、としていたみくのしんさんがもう一度、出会い直しをする物語のようにも私は感じた。

 

国語の教科書の感触に怯んだり、解説の注釈に感動したりしながら、彼らの読書は進む。

 

 

 

やまなし

宮沢賢治とみくのしんさんの相性は良い、と「オツベルと象」やアニメ「銀河鉄道の夜」を観たみくのしんさんの反応を見る度に思ってきた。
なので今回、「やまなし」が入っていると知り、たまらなく嬉しかった。


宮沢賢治は、言葉で遊ぶように文を綴る。彼だけの言葉を生み出して、でもだからこそ「伝わる」そんな作風にみくのしんさんが全力で楽しむ様子は、読んでいるこちらまで嬉しくなる(言葉の漁業権の話には確かにな〜!とそんな発想なかったな〜!があった)


と同時に、みくのしんさんは「人間関係の天才」だと思う。これは、ラジオを聴いて彼の人となりや友だちとの関わりを少なからず「知った」ような錯覚にあるからかもしれない。
関係ないけど、日々noteを読んでていても読者への距離感がすごくて面白い人だな…といつも思う。

そして、だから、そんなみくのしんさんの宮沢賢治との距離感が、私は嬉しい。自分の中にあった宮沢賢治の印象がほんの少し柔らかくなったのは彼の読書の影響が間違いなく大きいと思う。
いつか、本当にスシローに二人、いやなんならかまどさんも含めて三人で行ってほしい。きっとそれは、賑やかで楽しい会になると思う。
そんなことを彼への言葉を見ていると本気で信じたくなるのだ。

 

 

少年の日の思い出

子どもの物語とみくのしんさんの相性、良過ぎる。
し、「僕」が粉々にしてしまうものについての表現に「ああそうだよなあ」とそこまで思い至れなかった自分について思ってしまう。そうだよなあ。

この物語をこんな臨場感をもって読んだのは初見の何も知らなかった頃以来だし、なんならそれが「僕」と「みくのしんさん」の二人分のドキドキを味わうことになったので、単純に×2だ。
このあたりのかまどさんの相槌は、その臨場感を増させる手助けをしていて、ほんの少し悪いな〜!ときゃらきゃら喜んでしまう。さすがにあそこはかまみく過ぎる。会話のテンポが良いし、「なんで分かるんだよ、って話になるけど大丈夫?」の相槌、良過ぎる。

ボツにしてもよかったのに全部入れた二人が好きだし、同時にこの読書はこのみくのしんさんの行動があったからこそ、余計に魅力的なものになったと思う。本当にこの物語の読書でまさかお腹を抱えて笑う日がくるとは。


そして、国語の「問題」についてもつい考えてしまう。こんなに感情を突き動かせるのに、「どう思ったか考えよ」で思考を変えてしまうの、確かにもったいないしそりゃ「お勉強」になるよなあ、と仕方ないけど思う。もちろん、それだって必要なんだけど。

 

 

 

山月記

WEBでも公開された、また、この本の主軸になった大好きな読書。冗談抜きで、一時期仕事に行くのが辛くてしんどかった頃、毎朝読んでいた。必要だった。自分にとって。
なので、このターンはもう、書けることがない。大切過ぎる。
また、それは今回の特別小冊子の逆転読書でより大切なものになった。出てからしばらく、この小冊子を読むことで通勤路を歩けていた時期がある。支えられすぎだ、山月記とかまみくに。
でも、この読書記事は、あまりにもお守り過ぎる。大切にしたい。


言葉にし出したらキリがないけど、このブログを毎日更新しようと思えたり、本を出すんだ、と思い続け続けられたのも、この読書のおかげなので、大切にしている一文を引用したい。

 

一流になれないなら、せめて楽しめる道に行こう

 

 

文を書くことだけじゃない。仕事も、毎日の生活も、私は山月記の記事で続けられた節がある。人間に戻りたいと思い続けてくれとあの熱量で言い続けてくれる人がいるなら、続けるのは、悪いことじゃないと思うのだ。

 


WEBでも読めるしWEBと本版は結構違うので、どちらもおすすめ。すごい。

 


そこから、ニシダさんとの鼎談があり、改めてみくのしんさんにとっての読書って人間関係なのだ、と思う。
度々、作中の登場人物たちに対して「どう言葉をかけていいか分からない」ということがあるし、何より、それを書いた作者への心の寄せ方が、こんなのきっと作者冥利に尽きるだろうな、と思う。
もちろん、読書には正解がないので、それはあくまで自分が好ましく、羨ましく思うという話ではあるんだけど。あと、やっぱりその辺りも含めて、みくのしんさんの天性の人たらしというか、愛される人柄をしみじみと思ってしまう。

 

 

そして、彼らの読書が面白いのは、そういう人間と人間が関わる、人間が一番前に出てきている、そういうところなのかもしれない、と思う。
私が人間に興味があるから、というのはある。
だけど、本当に彼らの読書を見守っていると、人間って悪くない、面白くて愛おしいんだな、と何度も気付かされるのだ。

 

 

枕草子

そうして、最後。枕草子。これが、ある意味で、私にとってこの本を「歯応えがある」と感じさせた一番の要因かもしれない。

もちろんすこぶるに面白く、確かにエンドロールが流れたな、と思うくらいに魅力的で、なんなら感動してしまう展開がそこにはあった。
だけど何より、私はこの章で、かまどさんの話がしたいのだ。

 

 

この「かまど」というひとはかなり面白い、と思う。そもそも「かまどとみくのしん」は特に読書記事の中では「ドラえもんのび太」的に進んでいくことがある。

 

かまどさんは不思議な道具は使わないけど、その持ってる知識や知性をもってみくのしんさんの読書に付き合う。そうしてみくのしんさんだけにたどり着ける読書で「うんうん」と嬉しそうに一緒に冒険をする姿はかなり「ドラえもんのび太」だ。映画版の。

 


しかし、今回この2冊目である「本が読めない33歳が国語の教科書を読む」を読みなら、もしかしたら逆だったのかも、とすら、思う。


のび太が独り立ちしようとする時のドラえもん、とも思うけど、いやでも、もしかしたら、のび太はかまどさんで、みくのしんさんのあのわくわくするような読書体験こそ、未来の道具だったのかもしれない。そんな無茶苦茶な比喩表現が頭によぎるくらいに、彼らの読書の中、「かまどさんが歩き出す」印象を受けた。


いや、もちろん、前作と変わらず、なんならパワーアップしてみくのしんさんは身を捩り、あり得ないくらいのパワーで読書する。まさか宮沢賢治と途中張り合おうとするとは思ってなくてお腹を抱えて笑ったし、「少年の日の思い出」の読書中にあんなことになると思わなかった。
(余談ではあるけど、全ての始まりだった二人のラジオで初めて「走れメロス」を読んだ回にその伏線とも言えてしまえるような会話があると知った時は爆笑と感動が湧き上がってきた。普通に生きててその『伏線回収』のされ方、あるかい?)

 

「俺の読書は誰かに劣等感を覚えさせるようなものだったの?」

 

これは前作で出てきた言葉だったけど、かなりドキッとした。そんなことが起こるのか、と思う。
みくのしんさんの読書は魅力的だ。かなり。
そしてその読書の様子に自分の読書を省みるきっかけになったのが、この本の魅力の一つだと思う。そしてそれは確かに「劣等感」と言えるかもしれない。実際、読書記事の大ファンではあるけど、逆立ちしてもこんな読書は出来ない、とは思っている。


だからこそ、そう問い掛けた前作で出した結論、それから枕草子で「これは読書であって、国語じゃないから」と正しく読もうとするみくのしんさんに戸惑いつつも付き合うかまどさんにすげえ、と思うのだ。

 

 

彼らの読書は、人間過ぎる。真っ直ぐに本の中にあるいはその向こうの作者に向き合って、それが周り回って彼ら自身に向き合うことに繋がる。

そしてそれを、逃げずに真正面から描き切る。そんな胆力のいることをやってのけるものだから、私は結構慄いてしまっていて、それで、この感想を書くのに時間がかかったのだ。
だって、そんな作品においそれと「良い本だった」というシンプルな言葉だけで、片付けたくない。向き合って向き合いきって、言葉にしたいじゃないか。

 

 


「お勉強」だと読書を遠ざけてしまったみくのしんさんがもう一度「本」や「国語」に出会い直す物語でもあると同時にかまどさんが、「国語」に出会う話でもあった。

大好きな羅生門の読書記事でのかまどさんの言葉を借りれば色んな人が勝手に彼の読書に貼ってしまった修正テープをみくのしんさんと、それから誰よりかまどさん自身で、一枚一枚剥がして、その下にあった絵を確認していく。勝手に、そんなことを思った。

 


ラジオもそうだけど、読書記事やこの本を読む度に思ってしまう。かまみくの二人は、すごい。
生きていくことが、うまいと思う。それは、器用だということではない。全く器用ではない。愛情を込めて、とつければなんでも許されるわけでもないけど、それでもやっぱり愛情を込めて彼らの生き方は不器用だな、と自身を棚上げして思うこともある。
ただ、それも全部全部ひっくるめて、生きていくことをこんなに魅力的に熱量と誠実さを持ってやっていく人たちは早々いないのだ、と思う。
だからこそ、私は、私たちは彼らにこんなに夢中なのだ。

 


まだもっと、私はこの本を何度も何度も読み返したい。それは、もしかしたら私自身の国語の経験と照らし合わせながら(少なからず、私も国語の身勝手さにムッとした経験はありはする。得意ではあったけど、好きではない、というのはあるのだ、本当に)自分の国語をもう一度積み上げたくなっているからかもしれない。
国語って、こんなに人間を楽しめる教科だったのか。お勉強と随分疎遠になった今、そんなことを教えて、気付かせてもらえて嬉しい。

 


何より、そこに誰かが「届けたい」と思ってきたからだ、という事実に深く頷いてしまう。本当にそうだ。そして、この本もまた、そんな「届けたい」のバトンの一つなんだと抱き締めながら思うのだ。




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