ふと母のポテトサラダを食べたくなった。
残業中になんとなく口の中にじゃがいもの味がした。母のじゃがいもはじゃがいもをごろごろと茹でて潰し、薄切りのきゅうりとを混ぜて塩胡椒とマヨネーズで和える。ゆでた角切りのにんじんも入ってたな。どうやって潰してたんだろう。なんか、絶妙な潰れ具合だった。
そして、マヨネーズも満遍なく和えられた、というよりかは時々じゃがいもの味が濃いとこがあって、それが好きだったのだ。
好きなご飯の作り方を聞いておかねば、と定期的に思う。母はレシピ本で作るのも好きな人なので、そのレシピ本を聞いておいてもいい。だけど、それがいつかの別れの準備過ぎる気がして聞けない。そう思っていたことをこの間、佐久間さんが近いことを言っていてだよなあと思ったりもした。私だけじゃないよな。
でも、聴いた方がいいんだろうな。もっと後悔するだろうから。
祖母が正月に作ってくれるごぼうの胡麻和えの、あれが大好きだったけど、あの作り方も覚えていない。それをつまみ食いしては怒られるのが好きだった。だけどある年「もうしんどいから、作らないよ」と言われて、老いを急激に理解することになって、なんだか辛かったのだ。
もう今は、祖母もあの家もない。家は地震で潰れたし、祖母はそれからしてしばらく、向こう側に行ってしまった。つまみ食いした記憶が消えていないことだけ、安心する。
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嫌われている、ということを考えないぞ、と決めて出勤した。幸い、好きなことはたくさんおるので、それにぐっと目を向ける。
だけど、どうしたってゴリゴリと自分は削られていく。今朝は、朝の挨拶で一人だけどうしたって返してくれない人がいて「挨拶だぞ???」と思ってしまって無理だった。分からない。
例えば、本当に「いじめ」というほどのことかと言われるとそうではない。5.6回に1回、というか「無視できない状況」であれば、無視はされない。「明確に」「これを無視すれば無視にカウントされる」時には絶対に返事をしないのだ。
でも例えば全体の挨拶は返事は返ってこないし、雑談に混じれば絶対に黙るし、個人的な話をふれば低い声で返される。たとえどれだけその前に、明るく楽しそうに話しててそんなことしたら「お前のことが嫌いです」と宣言してることになるけど大丈夫?と思ってしまうような態度でも相手の中で正しい理屈があれば正しいことになる。し、気にしなくて良い、なんだろうな、実際。別に支障をきたすようなことじゃない。いや、全然支障、きたしますけど。
耐えらんないな、と思う。わかんない。確かに「気付かないフリ」できるレベル。ここで書いていることはなんなら、Twitterの騒ぎを見ている人たちからしても「え、あ、それくらいのこと?」なのかも。そうとも思う。だけどあののっぺりとした悪意は、私はどうにもダメなのだ。明確じゃない分、タチが悪いとすら思う。勘違いかもしれない、でも、今、舌打ちが聞こえたかも、みたいなのが一番、息が苦しくなる。対抗もしようがないので。
揉めた私が悪い。誰かに向けた悪意や反撃が返ってきたんだ。そう言い聞かしてはいるけどそんなもんかね。そんな弱音がつい口をつけば「どうしてもっていうなら環境を変えるよ」と言われた。でも、こんなに薄ぼんやりした悪意に、私は負けるのか。負けた、と思われて良いのか。もう既にめちゃくちゃ負けてるかもしれないが「負けたって決めなきゃまだいつだって勝つ途中」なんじゃないのか。
いやなんで身内でこんなアホみたいな争いせなあかんねん、と苛立つ気持ちはある。あるけど、たぶん、私だってアホなのだ。アホなんだよなあ。どうするよ、と考えているけどとりあえず、楽しいことだけ、考えてたいよ。悪意なんかに取り憑かれてる暇はないんだからさ。