口裂け女は、今の世界なら治療できるかもしれないらしい。
ふと朝目にしたツイートで、ここ数日あった朝のサイテーな気分が和らいだ。おおよそサイテーが流れてくるための専用装置のようになってるTwitterだけど、私にとってはまだ時々、そういう瞬間がある。
例えば、もしも口裂け女の口が裂けてしまったのが口唇口蓋裂の症状なら、今はそれを治療する手立てが症状や発症年齢に応じてある。
だから、きっと口裂け女を助けることができる。概ね、そういう内容のツイートで、だったらいいな、と思ったのだ。
自分の口が裂けてしまったことが悲しくて、それで怖がられることが悔しくて虚しくて傷付いて、それで「私、綺麗?」問いかける。
そんな彼女が、しあわせになれるのか。それって、すごく素敵じゃないか。
いや、そもそも都市伝説なので、その伝説の出現時点でその手立てはあったのかもだけど、でも、時々こうやって「こう考えたら」みたいな光の当たり方が変わっただけで「どうしようもない」と思ってた物語が表情を変えたりする。
私は、そういうのが好きなのかもしれない。
家族と関わるのがつらい、と、思春期の子どものような感情に最近なっている。これはきっといつの間にか血縁者が社会になったんだな、私の中で。
だから社会にぼろぼろになった後、休みの日だとかに「社会」で息をすることに怯えているんだ。ということに今朝、出勤しようとして気づいた。なるほどなー。
いっそ縁を切りたいと強い言葉が浮かんで、思ったよりも自分がやられているらしいことに思い至ったりする。
ただ、私は私の家族や親をいい人間だと思っている。そんないい人の壮年?壮年か?老後?老後は早いか?に、子どもから距離を置きたいと言われる未来は、さすがに、あんまりだろ。
嫌な親、いわゆる毒親だったならともかく。全然そんなことないのに。ただただ、私が社会に向いてなくて、それでも本当の社会と縁を切れないから、なら、と手近なところを八つ当たりのように手放そうとしているだけなのだ。
なら違うかあ、と思いつつ、悩んでいたらぐったりしてしまって、ちょうどきた家族の連絡を開けなかった。自分の「社会との付き合いの下手くそさ」にげんなりして、ああもうおしまいだ、と拗ねていたら家族内では「すわ、つくと連絡がつかない」「なにかあったんじゃないか」とそこそこ騒ぎになってたらしい。まだ半日ですよ?不通になって。
どれだけ目を離すと消えると思われてるのか。それって三十を越した成人への対応として正しいのかともやもやしたりもした。
でもこれも見方によっては愛情の話か。自分を損なわず、かと言って相手も傷付けずの何か妙案があったりするんだろうか。だったらいいなあ、それがいい。手近でわかりやすい、ドラマチックな何かに逃げるのはやっぱり、なんとなく無しな気がする。私綺麗?と聞いて、余計傷つく必要なんて、口裂け女だってなかったはずだ。
妄想する。彼女が自分が納得する姿になって少し恥ずかしそうにマスクを外す。その下は可愛らしい笑顔がある。その彼女に「綺麗?」って聞かれて、力いっぱい「綺麗!」って答える。
こんな妄想は怖いものが苦手な小学生の頃は出来なかったものだ。想像すらしてなかった。でも、絶対、こっちの妄想の方が、私は好みだ。