荷解きするように受け取ったものを確認している。一刻も早く感想を書きたかったけど、同時にそれをするのが勿体なくすら思う。
ピノキオのシンキロウの、妖精たちの、シンデレラと王子の、大佐とビビアンの、町工場とサーカスの、お父さんの、全ての色が頭の中、ずっとぐるぐると回っている。
それを確認していると、たまらなくなって「大好きだった」「面白かった」しか出てこなくなるような気持ちにすらなるけど、それでもやっぱり大好きで大切なので、この時間に受け取ったものをいっこいっこ、確認して、言葉にしていきたい。
『最終兵器ピノキオ〜蜃気楼の向こう側〜』は、ピノキオとシンキロウの冒険譚である。
ピノキオとその親友、シンキロウの時空を超えた冒険譚。しかもその物語は、人生が「詰んだ」ところから始まる。
なにもかもが上手くいかなかったシンキロウと、ひとりぼっちになっていたピノキオの再会。そこから、ふたりはピノキオが人間になるための旅をする。そうして旅は色んな時空を越えて、やがて、真実へと辿り着く。
途中、シンデレラの時空へと旅をして、「ドラえもんとのび太的な存在」として、ふたりの恋を助けるシーンがある。ふと、昨日、エンディングにかけて、なんで「シンデレラ」だったんだろう、と思った。主軸のふたりの物語と関係はあるけどない、物語。
逆にビビアンと大佐の物語は「人間とは何か」と考える中でそうだよな、と思うからこそ、なんでシンデレラだったんだろう、と考えていた。
なんとなく。なんとなく、それは、あの物語が「自分で選ぶ」物語だったからかも、と思う。
魔法の力はあるけど、王子は自力でシンデレラを見つけ出す。シンデレラも、王子に見つけてもらうことをただ待っていたわけじゃない(いや原作は「待っていた」だけかもしれないけど、少なくともこのシンデレラはただ「待つ」ことはなく、ひたすらにただただ、たくましい)
自分で選んだから、だから自分は選ばれた人間だ。
なんだか、その台詞が「ああそうだよな、そうなんだよな」と妙にブッ刺さっているから、だから余計にそんなことを考えたのかもしれない。
とはいえ、クエストさんは「合理的に、説明的に理解する」はなんとなく合わない舞台だ。抽象的な台詞や、ダンス、殺陣で半ば「本能的に」理解する、楽しむ、がしっくりくる。
観劇する、というよりも浴びる、がしっくりくるし、事実、マチソワを立て続けに観て、なんだか妙に体力を持っていかれていて「観てただけなのに?」と自分でもびっくりしてしまった。だけどきっと、あの熱量に当てられて、勝手に気が付けばエネルギーを使っていた、そんな気はする。
ずっと考えていた。ピノキオの「友だちだと思ったことが罪」だと思いたくなくて、ずっとずっと、考えていた。
あと、気が付けば(これは改めて「私って淳さんのお芝居めちゃくちゃ好きなんだな」と感じたことでもあるけど)目がピノキオを追っていて、時々見せる何を考えているのか分からないピノキオの表情に思ったことでもある。無表情にすら思える、静かな顔や少し苦しそうな表情。その後、シンキロウといる時の笑顔が魅力的だからこそ余計にその顔が心の中に残ってる。
記憶に蓋をして、自分の都合のいいファンタジーを守ろうと時空を旅していたピノキオ。ねえピノキオ。もしかして君は、本当は覚えていたんじゃないか。もしかしたら、無意識下でかもしれないけど。
シンキロウを失ったこと、その原因を自分のせいだと思いながら、ずっとずっと、旅をしていたんじゃないか。
それは今回の「最終ピノ」で初めて考えた「もしかしたら」で、なんだかそのことをずーーーっと考えている。だとしたら。だとしたらそんなの、あまりにも悲し過ぎる。悲しくて、苦しい。
シンキロウが嬉しそうに笑う度にピノキオは、本当に嬉しそうな顔をするのだ。
シンキロウのために作った世界のことをシンキロウが「どうしてこうなっちゃったのかな?なんだこの世界?」と言った時の表情が忘れられない。シンキロウのために、作ったはずなのに。
思えば、シンキロウの「もし生きて成長したら」のルートの話だってそうだ。サニー、ムーニーに言われた通り「もっとなんか別のルート」があっても良いはずだけど、でも、ピノキオには無理なんだ。だって、ピノキオが知っているのは、シンキロウとジュンキロウの人生だけだ。だから、「ピノキオが助けに行く必要がある」悲惨な人生のルートはジュンキロウに基づいたルートしか想像できない。
一緒にいたかったんだよな。ただただ、それだけだったんだよな。なんだか、ずっとそんなことを考えている。
だって、あまりにも嬉しそうだったから。一緒にいれること。何より、シンキロウが、笑顔でいてくれること。
シンキロウとピノキオの大殺陣の時に、最初こそ表情が読めなかったピノキオが、嬉しそうに殺陣をするシンキロウの姿に笑顔になって自分もその中に飛び込む、そのことをずっとずっと思い出している。
ピノキオの罪がなんだったのか、いまだに私は分からない。分かりたくないのだと思う。
なんなら、本当にピノキオが外に行こうと誘ったのかすら、本当は分からない。分からないけど、でも一生、ピノキオにとってはそうなんだ。助けられずに終わってしまった、終わらせてしまった彼にとって。
だから、ピノキオはファンタジーを選ぶ。シンキロウと一緒にいたいと願ってファンタジーの続きが少しでも長くあることを祈る。
そう思うと、ラストシーン。死んで、一つのネジに一緒になってという彼の空想がなんなら少し、美しいとすら思う。その一生変わらない、終わらない後悔が、唯一救われる道なのかもしれない。
誰かの不在にそんな風に夢想することは、作中の台詞の通り、冒涜ではあるけど、でも、でもさあ、だってさあ、とも思う。
でも、だからこそ、そんな風にその夢想を美しく思うからこそ「死んでお詫び」を、「死の末にある美」をハッキリと否定した、この物語が私は大好きだ。
いなくなった人のことも抱きしめて、覚えていること。覚えて、記憶の中で一緒に冒険をする、物語を紡ぐこと。
それは根本の解決なのか、冒涜じゃないのか、と問われたら分からない。そんなの、生きていくひとが救われるための逃げじゃないのか、と言われたらそうかもしれない。だけど、それでも良いじゃないか。生きて、覚えている。物語を紡ぎ続ける。そのことを、私は好きだと思う。
物語、ファンタジーすら、生きてきた現実が下地にあるのかも、と思った。思いながら、そうだよな、だから私は、こうして「演劇」を観ているのかも、と一晩経って思う。
生身の人間の限界を越えようとする無茶な現実も地続きなファンタジー。
生身という作り手と観客が時間と空間を共有する、ある意味イマジネーションの爆発を阻害するものがたくさん発生しかねないそこで、生身の人間が空を飛ぶ。魔法を想像させ、世界を創造する。無茶苦茶だ。だけど、だから私は、好きなんだ。
これは、気持ち悪い感傷だとは百も承知だけど、それでも大切なことなので、言う。
生きてて良かったんだ、と思う。これ、もしかしたら前回の観劇の時も書いたかもしれない。毎回かよと思われるかもしれない。だけど、そうじゃないんだ。毎回思ってるかもしれないけどそれって当たり前でも「毎回絶対にそう感じられる」でもない。
だからこそ、強く強く思うし、絶対に書き残しておきたい。生きてて良かったんだ、私は。
これは、パンフレットを開く前に書き残していた。それから、パンフレットを開いてトクさんのご挨拶を読んで、なんだか受け止めることにオロオロして数時間経って、いま、思ってる。
よかった。
私は、クエストさんのお芝居が大好きだ。彼らの作るお芝居が、トクさんの書く台詞が、物語が大好きだ。
それこそ「落ちないために」張られたあの網のように感じることもある。そっちじゃないよ、と何度も受け止めてもらってきたように思う。
もし、私がブルーフェアリーに問われたら、私も「ファンタジー側につく」と言う。それは、現実を否定したいからじゃない。疎かにしたい、逃げ出したいからじゃない。
現実を愛して、抱き締めるために必要だと知っているからだ。そうだよ、と教えてもらったと、私は思ってる。
私は、この物語が、演劇が、大好きだ。