言葉が過不足なく自分の意図を伝えてくれるなら、そもそもこんなに困ってないんだよなあということを考えていた。
仕事の「もう嫌!!!」ということもそうだけど、その他諸々、頭の容量を怒りでハックされそうになることが多過ぎる。
そう思うと、幸い、たまたま7年前だかのラジオにハマってるおかげでそれを聴いてる時間だけはこの時間にいずに済むことだけが結構助かってるかもしれない。時事ネタもなく、また、今の彼らをぼんやりながら知っているから尚更「今ではない」と思えることは格好の現実逃避だ。なるほど、そうかもしれない。
なんでだろうなあとずっと考えている。
なんとか伝わりやすくするために例え話を考えたり昔あったことを考えたりしてたけどぜぇーんぜん浮かばなかった。
自分の文だとか自分だとかと延々と向き合ってるからか、それとも好きの過剰摂取かその両方か、「だからだめなんだよなあ」と思う。
まあでも今できる方法はこれだから、一旦そのまま、書く。
例えば目の前の誰かが自分の中にある「誰か」と似ている時。
それは背格好や性格なこともあるし、属性だとかそういう「いる状況」なこともある。そういう時に相手がその「誰か」ではないのだと思うことって実は難しいのかもしれない、と思う。
目の前のひとが「ひと」であることを認識するのは難しい。
例えば数年前まで私は仕事でそこそこ大きな金額のものを取り扱っていたんだけどそれすら私の中では毎日毎週毎月のことになる。
もちろんある程度の達成感はあるけど、誰かにとっての特別、をずっと克明に感じるか、と言われると感じはするけど仕事だよなあという感じがあった。
そういや、仕事に慣れ出した時に猛烈に怖かったから「自分の仕事は誰かにとっての特別なんだって自覚しろよ」と呟いたことがある。じゃないと、何かが麻痺しそうだった。
ルーティン的なこともそうだけど、目の前で通り過ぎる、あるいは特別ではないと認識しているものを「特別」……というか、唯一だと思うのは難しい。スキルがいるとかいらないとかの話ではなくて、体力とか気力の話かもしれない。
少し前に友だちに心底心配されたのも確かそういうくだりで関わる全ての人を「にんげん」と思おうとした結果、あちらを立てればこちらが立たぬと苦しくなって感情を持て余し、結果、だんだん自分を大きく削り始めてしまったことが原因だった。生きるのクソ下手か。
別に本当の意味で相手を「にんげん」と思い続ける必要はなくてでもそっと離れたりとか忘れたりとかすればいいんだけど、にしたって袖がふれあったりもするからうまくいかないんだろうなあ。いってくれ、頼む。
目の前のひとをにんげん、と思えなかったり、もしくは思え過ぎた結果その人ではない誰かの面影を見てしまったり。
言葉だけじゃなくて、「目の前」をそのままに受け取ることがそもそも難しいのかもしれない。頭の中で再構築された世界をそれぞれ生きてて、でも同じ物理空間にいるからそりゃ難しいかぁ、と屁理屈を捏ねてみたりもする。
おんなじは見れなくてもいいけど、どんなの見てるのって聴きたいし、観てる世界の話を聴いてほしいと思う。
それ自体がめちゃくちゃ幼いことは百も承知でそう思ってる。
あとできたら。余裕がある時だけかもだけど。
自分がどこか痛いとかじゃない時は、誰かの痛い、をまず聴きたい。痛いのは事実だろうから痛かったんだって話を聴いて、それから考えたい。治ってからでもいいじゃんか、色んなことは。
でもこれだって「私にだけ見えてる世界」の話なことがずっとずっとさみしい。