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スロウトレイン

分かんない、と思う。冷静に自分から離したら分かる。めちゃくちゃ分かるし、もっともらしい理屈だってつけて、なんなら説得すらできると思う。だけど、分かんない。自分と引っ付いてる部分だと認識するといつもぺらぺら動く口がぴたりと動きを止めるし、頭の中は否定しか出来ない。


そんな自分にとって、この「スロウトレイン」というドラマは必要だった。なんでか、はやっぱり引っ付いてる部分に近いからだろうか、なかなか言葉にはしづらいけど、それでもやっぱり大切で、だから手探り、言葉にしていきたい。


作中、作家である百目鬼が自分にとって大切な人である潮の思い出を「書けなかった」と言う。そこにある感情、そこに紐付く知識。そういうものを「書けなかった」「勿体無くて」という。
その柔らかな愛について、最近考える。柔らかいけどどっか切なくてきゅっと痛くて、でも確かにそれが存在することで、百目鬼の人生は苦くでも確実に豊かであるように感じる。そんな愛と感情のこと。

ふと、私はすぐ言葉にしてしまうな、と思った。このドラマが大切だと言葉を尽くしたいと思ってしまうこともそうだ。言葉にできないものをできないままにする、ということが少ない。
言い当てられた、言い尽くせた、と思うこともそうないけれど、でもだから「書かない」とは判断できない。なんとか端っこでも書きたい、と思う。なんだかな、とも思うけど、ふと今日散歩をしながら思ったのだ。
書けないも愛のように書きたい、も愛だ。たぶん。

 

そういうことがたくさんあった。

2025年1月21日放送の星野源オールナイトニッポンで『スロウトレイン』の話題になった際。寄せられた感想に対して源さんが口にした「そこに在る」というドラマだ、という言葉が印象的だった。


 

世間や社会とのズレを「気にしなくていい」「気にしているから傷付くしそれこそ偏見じゃないか」と思うこともある。気にし過ぎている、と言われることも多いし仰る通りだ、と思うし自分の嫌いなところの一つだ。
だけど、このラジオを聴いて、なんとなく、ああそうかも、と思った。私がスロウトレインが好きな理由はその「そこに在る」だったかもしれない。
気にしすぎも気にしなくていいも、かと言って「気にすることが正しい」でもなく。ただ、そこに「気にする私」もいる。


結婚するしない、ひとりである、人といる孤独や、家族、恋人、愛の形がさまざまなこと。
繰り返し見たのはきっとその物語の中にも私も「在る」ような気がしたからじゃないか。

 


『スロウトレイン』の中にも、不安や悲しさ、過去の傷や逆に傷付けたことも描かれる。だけどそれは「物語的な装置」ではない。だから全てが解決されるわけではない。
ただそこに「在り続ける」まま、生活は続く。
そのことが、無性に嬉しかった。

 

人と一緒にいる時の孤独が、苦しく悲しいこと。耐えられないこと。
そしてパートナーはいなくても孤独ではないこと。

 

誰かと寄り添えば救われる、ではないけれど、生活を続ける中で確かに立ってられるあたたかさが色んな形である。それもまたさまざまだった。人によっては仕事であり自己表現であり、子どもであり、恋人でもある。
そのそれぞれの「在る」をひとは確認しながら生活を続ける。
線路は続き、次の駅へと向かう。その次の駅を知っていることもあれば、知らないこともある。だけど、きっと、その線路を整備してくれるひとはいるのだと、あるいは自分はその整備ができるのだ、と信じる。信じて、生活する。


そういう生活や日々をあんなに柔らかく愛おしく、だけど淡々と描いてくれたからその線路を自分も信じられるように思う。

 

 


日々が完全に楽になる特効薬はないように、明確なメッセージがあるわけではない。
ただ、そこに在るのだ、ということ。
心の中、ハコ姉たちが生きている。日々にうんざりして、時々は喧嘩をして、ご飯を食べて生きている。その事実は、確かに自分の生活の中の存在を少しだけ濃くして、進んでいく燃料になるような、そんな気がしている。




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