自分の負けず嫌いなところが直せれば仕事のしんどさが大袈裟じゃなくかなり減ると思うんですが、どうですか。なんなら仕事どころか、その他諸々の生活も好転しそう。自分自身が楽になりそう。
でもそれくらいインパクトがあるから簡単には変えれない、から、インパクトがある、なんだろうなあ。
昨日は文フリで大興奮していたのに普通に日常を送ってるから不思議だ。さらにはイレギュラー業務もごんごんに入り、追われていたら1日が終わった。とりあえず今はひたすらなんとか今週の平日にお休みを取らせてくれないか、と祈ってる。無理か、無理なのか。映画が観たいのです。
ラジオについての本を2年前(もう2年!)に出してありがたいことに増版(元々そんなに多く刷ってないから、というのもある)して今年の京都文学フリマで頒布した。
やっていて思うのは、ラジオリスナーってこんなにいるんだ、ということである。日常生活で出会うことは早々ないのに、「推しラジオが終わったので本を作ることにした」を頒布してると「私もラジオ好きで」と声をかけてもらう。
好きなラジオが一緒だったり、ちょっと違うけど同じようにラジオが生活にある人たちとたくさん出会う。なんだかそのことを今日1日は反芻していた。
私のラジオリスナー歴は短い。2020年から細々と聞き出してようやく5年だ。
なんだけど、本を出したこともそうだし、「ラジオごっこ」と銘打って音声配信をしたり、そもそも色んな瞬間「ラジオを聞いていたから」乗り越えられたことがたくさんある。
大なり小なりなんらかの不調で伏せってる時は大体ラジオを聴いていたし、唐突に思い出して笑いを噛み殺したこともたくさんある。
そうなんだよなあ、生活なんだよなあ。
昨日、色んな人とラジオって良いですよね、と話しながら思った。
今、だいたい7年くらい前からやってるというラジオを1からちょっとずつ聞いてる。なんならそのさらに前からやってるらしいので本当に聴き終わる日はいつになるやら、という気持ちだ。
なのだけど、ともかく今それが楽しい。それを聞いてると私が何故こんなにラジオが好きなのか、わかる気がするのだ。
パーソナリティが確かにリスナーの存在を知っていること。パーソナリティの多くもかつて、リスナーだったこと。
ラジオリスナーではなかったパーソナリティがだんだんとあのラジオの空気感に夢中になって「やめたくない」と駄々をこねた夜もあったこと。
終われば消える時間だけど、2時間ないし、そのラジオの放送時間、「ラジオが存在」することに救われるひとがいること、それをラジオを作る人も知っていること。
音声だけだからこそ、丁寧に説明される、そのことで置いていかれないのだということ。だけど顔が見えないから決定的に「分かりあう」ことはないこと。でもその距離があるから、救われること。
去年の初夏、好きなラジオをたくさん手掛けてきた石井玄さんにラジオごっこを聴いてもらってアドバイスをしていただく依頼をしたことがあった。今、思う。あの時の話はこうだったのかも、とかあの時私が知りたかったこと、石井さんが話したことってこういうことじゃないか、とか。
なんか、ラジオって面白いな、と好きになってから毎年毎年、さらに広がって感動する。
嬉しい。きっと、ラジオはずっと自分の生活にある。そんな気がしている。
そしてそんな人がたくさんいる、ということも、本当はめちゃくちゃに嬉しい。それを実感したからずっと確認している。手の中で。