あと十。
あと十記事をあげたら今年、100記事をブログにあげることになるらしい。すご。気付かなかった。おそらく、3月に「誕生日月なのでたくさん書いても大目に見てもらえるのでは?」と思ったのが効いている。
数年前に、1年で100本ブログ書こうと決めて書いたことがあった。最終ちょっと疲れてしまったし、本数を書きたいわけじゃないな、とやめた。
ただ、こうして気が付いたら100本が見えるとちょっとそわそわするし、何よりまだここから書きたいブログがあるので、本当に100本はいける気がする。
ここで難しいのが「だから100書くためにブログ書くぞ!」と思うとたぶん、調子を崩す。でも書きたいから書いて、10書けたらすごく嬉しいだろうな。
もともとは、感想以外の文は書いてなかった。
ただ感想も「わたし」の感想だったから細々と自分の話は織り交ぜていた。
少し前「感想に自分の話を入れるな、ただの感想が読みたい」という話をSNSで見かけた。なるほど、そういう考えもあるのか。
それがなんでだったかを覚えてないのはちょっと良くないけどでも「なるほど」と思った。それでも「わたし」の感想を止めるつもりもなかったのもあるかも。
わたしのない感想がイメージしきれてないのはある。私はずっと何かを思った時点で主観は切り離せないと思っていた。
私が書く感想は私の価値観が覗く。見たもの聞いたものは全部、私の目、耳を通している。だからこそ、じゃあ私はどんな人間で、とか、そもそもなんでこの作品に対して「感想を書きたいと思ったのか」をこねるのが好きなのだ。だし、たぶん、私はそういうのが聴きたいのだと思う。
どこが好きか、はただ作品の魅力が知りたくてというとほんの少しズレて、どちらかといえば、「それを好きになったあなた」がどんなひとか知りたい。ああでもそう書くとちょっとキモくなるな。
ところが、4年前自分の話だけしかしてないブログを書くことが増えて、それを読んでもらうことが増えて「え、まじで?」と思った。
なんというか、感想以上に「誰に需要あんだよ」すぎると思っていた。ひとの日記を読むのは好きだけど、それは日常を切り取るのが上手い人だからこそだろうし感性が柔らかなひとの特権だとでも思ってたのかもしれない。
ともあれ、同じことを考え続けてるような自分はどこか鬱々とした「同じようなこと」しか書かないし、と思っていた。それがどうしたことか、今、そういうのを書くのも楽しくなってる。ちょっと感想あげてなさすぎてまずいんじゃないかなって思うくらいに。
多分、今年あげた文は割合でいくときっと半々くらいだろう。いい塩梅な気もしてきた。
ここ最近、ことあるごとに話題にしている推しは毎日ブログを書いている。100でひーひー言ってる私からしたらすごいことである。
それこそ、あの感覚があるからこそだな、とも思う。実際、私はその文を毎日読むことでちょっと生活を大切にしたくなってる。なんせ好きなものに影響を受けやすいので。
すごいな、とだから自分に出来ないな、は隣り合わせだ。だけど、自分に出来ないな、と思っていた自分の話を、私は友だちや日本語ラップのおかげでできるようになった。自分の話をする文化に触れて、憧れて影響を受けて、今こうだ。
だとしたら。
もしかしたら、絶対、とは言わないけど365日、文を書くことも出来たりするんだろうか。やってみたいかも、と思ってる。やるかどうかはわからない。だけど、そう思えたことが嬉しいのだ。