最初の印象は「静か不穏」。
不穏というとちょっと言葉は強過ぎるかもしれないけど、もっというなら見過ごせる違和感、かもしれない。
もののように取引されること、金品の話が優先されること、呼べない名前やなかったことにされる不満たち。
その片鱗にぐっと口を押さえながら観ていた。やがてそれが大きな違和感へと繋がることに心の底からああ、良かった、と思う。
誰かが閉ざしていた口をそれぞれ、少しずつ開きだす。
好きな映画だった「きっと、うまくいく」
あの彼がこの映画を製作したことが嬉しかった。私にとっては、そんな映画だった。
光に背を背けないこと、自分一人で幸せになるのは難しいけど、身につけたら苦しくなくなること、才能を使わないことは失礼だということ。世の中は見えているのとは全然違って面白い。
果たして私はそう思えているだろうかとふと考えた。面白い、と思えるか。私はすぐにそれを悲観して分かったよう顔をしてしまっていないか。それこそ、「受け入れて諦めた場面」が、何度もなかったか。
まるで宝物のようなお守りのような台詞たちを振り返りながら、ずっとあの映画のことを考えている。
「女性へのエンパワメント」と簡単に片付けてしまうこともできないような気がする。
もちろん「女性だから」の描写もあった。あったけど、そうじゃなくて、それだけじゃなくて、女性とか男性とか老いとか若いとかでもなくて全ての人への「自分の人生を生きているか」の問いかけだった。そんな風に思う。
そしてそう生きて良い、むしろそう生きなきゃいけないと背中を押された。そんな気がしているから今、ぽかぽかとあたたかい。
例えば私は駅の彼らがたまらなく好きで、それはたぶん彼らが誰よりも「自分の人生を生きていた」からじゃないか。
自分の人生を生きることは難しい。
邪魔されることもあるし、自分が自分のことを邪魔してしまうこともある。
そういうものだと諦めて受け入れる。
考えない方が楽なことがある。そもそもそれだって頑張ってないわけでもない。
むしろめちゃくちゃ頑張ってる。
頑張って諦めて、それで生きていることを否定されたくない。されたくない、と思いながら生きる。だけど、でも、そうなんだよな。
諦めて良かったの?と問い掛けられたら全然、全然全く、良くないよなあ、と思う。
だってそれじゃダメだ。どんどん不幸になる。
なにを不幸と呼ぶかはわからない。これはだから私が「そうであれ」と思う幸せの話なのだけど、だってあのおばさんはじめ、ジャヤやそういう「自分の人生を生きている」ひとは格好良いじゃないか。
少しずつ彼女たちが自分の人生を生きる。それがなんか、嬉しかった。嬉しいと思うことを大事にしておきたい。
自分の人生を生きていく、それで表情が綻んで、その様子が周りに伝染していく。そうだよな、こういうのが、良いよなあ。
何より。
そうして「自分の人生を生きる」ことは引きこもることじゃない。自分だけ良ければそれでいい、と思うことでもない。
手を伸ばす。誰かが幸せになるように手助けをする。自分の出来ることをする。
それが、私はより嬉しかった。
自分の人生を生きるには実はいろんな人の優しさと助けがあるんだよな。そういう助けで自分は在れるかな。そうして、その助けとか優しさにちゃんと気付いてありがとうと思いたいし返せるようにいたい。
どう生きたら良い、とかじゃないんだよな。どう生きたいか自分で考えて自分ができる最大限の優しさと良く生きる、を繰り返して、そうやっていけたらいいなあ、と思う。
そうやっていけるはずだ、と思う、思えるそんな映画だった。