なんだか台詞の端々に「よく知っている」と感じる瞬間が多かった。ヴィジャイさんの作品はいつだってそうだ。遠く、インドの物語だけど、私はいつもそこに自分や自分の生活を見る。
それをうまく言葉にできないまま友人と2回目を見て、感想を語り合いながら友人の言葉にハッとした。
「カディルは違ったけど、お金で人の命を奪えるってそういうことなんだね」
それは「カディル」の話だったけど、やっぱり、「ああそうだよな」と思った。
カッティを観て感じた既視感、そしてだからこそ彼が、いや彼らが「解決」を目指す物語を愛おしいと思ったのかもしれなかった。
『カッティ 刃物と水道管』という一見ピンとこないタイトルは、見終わった後、これ以上ないタイトルのように感じた。
詐欺師で泥棒であり、脱獄した男・カディルが出会った自分と同じ顔をした男。実は社会活動家であるジーヴァが襲撃事件で殺されかけたところを助けた彼は、そのままその同じ顔をした男と入れ替わることで自由になろうとするが、そのジーヴァが関わる、戦っている状況を知り、変化し、彼自身がそのジーヴァの敵対する相手と戦うことになる。
それは、農村と多国籍企業との戦いに身を投じることだった。
本当に不思議だ。インドのおかれている状況の話であり、インドのある農村の物語。
そのはずが、なんだか自分の知っている世界の話のような気がした。農村の再開発。搾取や、村が立ちいかなくなること。その地で作られる農作物に食生活はじめ、様々な場面で支えられているはずなのに都会の人々も多国籍企業の人たちも無関心だ。
どころか、「そんなところを選んだのは自分が悪い」「知らない」「だったら出ていけばいい」と素知らぬ顔だ。
メディアを頼ろうとしても、そんなことに興味はないという。
もっとセンセーショナルで、あるいは悲劇的な、エモーショナルな「物語」にならなければ、「私たち」が興味を持つ理由にはならないと恥ずかしげもなく言い放つ。
カディルは、悪党だ。
ヴィジャイさんの作品をいくつか観たが中でも一番……言葉を選ばなければ、小物である。
カッティ劇中でもお金を前に、その背景を知ろうとせず飛びつこうとするし、そもそもが詐欺師で泥棒だ。
だけど、じゃあ、何故彼がそうなのか。
そんなことを物語の端々の描写に考える。そうしていると悪党だ、と思う感情以上にそうだった彼が、一線を越えなかったこと、知ったからとはいえ、また理由があったからとはいえ、あの選択を選んだことになんとも言えない気持ちになる。何よりそこにラヴィがいたことが、どれだけ大きかっただろうと少し、ほっとする。
例えば農村だったように、そしてきっといつかのカディルがそうだったように。誰かがいつか、誰かを見捨てた。そこは自分と同じ地続きにあるのに、関係ない、そいつが悪い、自己責任だ、面白くないと、観なかったことにした。
そのことを、考えてしまう。そうなって、そうなったからこそ、じゃあ、と誰かを見捨てることにした誰かを、どうして責められるんだろう。
こちらの声が届かない、と思うけど、最初に彼の声を無視したのは自分たちじゃなかったか。
そんなことを思いながら2回目、なんだかいろんなシーンで無性に泣けてしまった。
一心に村のために、ジーヴァの心を引き受けて戦うカディルの幸せを祈った。そしてあるシーン、そもそも、カディルにジーヴァの声が届いたからなんだ、と思っていよいよ泣いてしまった。じゃあ、カディルの声が(ジーヴァを演じるカディルの、じゃなくてカディル自身の声が)届くのはいつなんだ、と苦しくなった。
だけど、大丈夫。届く、と信じている。そう信じられる熱量と優しさのある映画だった。
一人二役のワクワク感、普遍的な物語や訴えかける熱量。この映画を語る上で挙げたい好きな点はたくさんある。だけどきっと、何より好きだったのは、そこなのだ。
誰かの声が届くこと、自分の声を受け止めてもらうこと。その心強さをこの映画は書ききったように思う。それは、その声が踏み躙られることの悍ましさや悲しさ、苦しさと表裏一体で。
そうして声を受け止めてもらえる、ということは帰れる、ということでもある。帰る場所がある。それは、立っているためにも必要だ。
だとしたら、きっと大丈夫。
そう思うことができるこの映画は力強く、優しい。そう思う。