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つづける

物語を書くのが好きだった。
のが、単にすぐに空想して現実逃避したがる子どもだったからなのか、それとも絵は姉のように描けないが、物語でなら祖母にすごいね、と褒められるからなのか、あるいはその両方なのかは分からない。ともかく、私は幼稚園の頃から覚えたての文字で好き勝手に物語を書き、もしくはお喋りでありもしない世界の話を延々と語っていた。

 


学生時代には、ともかくすきあらば物語を書き、また書いてもいい環境に身を置いて、締め切りに追われて書くことや完成して誰かに見てもらえることの楽しさにずぶずぶハマっていった。小さな手帳を常に持ち歩き、思いつくたびに書き殴っていたのでしょっちゅう売店に手のひらサイズのノートを買いに行くことになった。

 


それがいつしか忙しさに追われ、気持ちがすり減って物語が書けなくなった。ちっとも浮かばないしあんなに頭の中で止まらなかった物語に代わって不満や怒りや悲しみだったりが溢れ出したのにはさすがにうんざりした。
1回全てがいっぱいいっぱいになって頭がパンクしたとき、少し回復して、また物語が浮かぶようになったとき、ものすごく嬉しかったのを覚えてる。

 

 

 

そうして今、私の頭にはほぼほぼ、物語が浮かばない。
とは言いつつ数年に1回は短いお話を運良く(あるいは執念深く)書く機会を見つけて書いてはいるけれど、とはいえ、やっぱりあの頃の自分の創作衝動には敵わないし、一生ああいう人間にはもうなれないだろうなあ、と思う。
書かずにはいれない人を天才と呼ぶなら、私は絶対にそうではなかった、ということを最近よくぼんやりと考える。

 

 

 

そのくせ、自分は「作る人間」ではある、と思いたい、浅ましくて格好悪い自分はいる。今やってることなんてせいぜいエッセイもどきの好きについて延々と書き殴った文章とラジオと名乗るには気恥ずかしいラジオごっこだけなのに。
でも、やっぱり、私にとっては作る、なのだと思う。

 

 

 


感想なんて、誰でも書ける。読みたいのはレポであってお前の考えではない。
そう思うのに、私は誰の役にも立たないだろう、自分の思想思考を盛り込んだ「これが好き」の文を書く。
パーソナリティとしての愛嬌も、聴いていて楽しいトークスキルも、日常を切り取る着眼点も持ってないくせに私はラジオごっこ、と銘打って喋る。

 

 

 

だせえな、とも思う。誰でもできることを「表現」と呼ぶのは驕りでは、とずっと考えていた。いたし、現在進行形でいるんだけど、でもだって、私はこれをやりたいし、やって、面白い、にしたい。

 

 


それはたぶん、私の中で、なんとか「やっていく」ために必要だからだ。誰でもできることかもしれない。だけど私はこの「好きなものを好きという」ことで、なんとか毎日をやっていこうとしてて、だからこの表現、方法が大切なのだ。

 

 

 

大したことでもないくせにという嘲笑が聞こえるのはたぶん、自信がないからだ。じゃあどうやったらその嘲笑を失くせるかは自信をつけるしかなく、そのためには続けるしかない。
私は書き続ける天才ではなかった。
だけど、好きなものの話はし続けられるんじゃないか、何かを好きだと思って考えて、それをひたすら言葉に変える。それだけなら、できるんじゃないか。
だってじゃないと、私のなかにまた嫌な言葉ばかりが詰まる。そうしないためにも、私にはこれが必要なんだ。

 

 

 

 

何の話でもなく、1000字以上もかけて、私はこれがしたい、を確認したかった。たぶん、ちょっと色々へこたれているんだろう。
でも大丈夫、こっから。




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