なんか好きじゃないので、深掘りしてみる。
イベントの懇親会で出される食べ物が、どうにも好きじゃない。正方形のサンドイッチ、山盛りの唐揚げ、大皿のラザニア、小さく切られたピザ、取り分けてくれるローストビーフ、寿司。瓶ビール、コップの烏龍茶、缶ビール。みたいなやつ。
昔は気にせず食べていた。でも最近は、お腹が空いていてもなるべく食べないようにしている。昨日もイベントがあり、親切なスタッフが料理を取り分けてくれたけど、失礼だと思いながら断って、そのまま帰った。健康に気を使っているわけではない。そのあと一人で餃子の王将に行った。
嫌なのは味じゃない。あの食べ物には、誰かの顔が見えない。 普段外食するときは、美味しいものを食べたいのか、安く済ませたいのか、健康を優先するのか、何かしら自分で理由を持って選んでいる。でも懇親会の料理は、ただ「懇親会という場」を成立させるために存在しているように感じる。
そこにあるのは善意だと思う。ただしそれは、効率化された善意だ。
誰か一人を本気で喜ばせるための善意ではない。多人数を相手に、無難に、不満が出ないように設計された善意だ。手間と責任を最小化し、「ちゃんと用意しました」と言うための善意。結果として、食べる人の存在は薄まり、形だけが残る。
ローストビーフを切る人や、寿司をその場で握る人がいる懇親会もある。でもそれも、料理そのものより「人が作っている」という演出に価値が置かれていることが多い。味よりも構造、食べ物よりも場づくりが優先されている。最初にローストビーフを切る人を置いておくと華やかになると発見した人はすごいと思う。だけど今は、こうやっておけばいいんでしょという形式だけが残ってる。
映画『プラダを着た悪魔』で、ファッションに興味がないという主人公が、その本人が今着ているブルーの色の流行は過去に私たちが作り、巡り巡ってファッションに興味のないあなたにファストファッションとして届いたのだと編集長に指摘される場面がある。あれに近いかもしれない。何かの形、表面の真似だけを何回もコピーしてできたのがあの料理の形式な気がする。
その形式の元がわからずに口にするのが怖い。 美味しいものを食べさせたいという意思ではなく、場を整えるために配置されたものを、選ばされるのが嫌なのだ。
自分で選べないことだけが嫌なわけではない。給食や、妻が作ってくれる料理に同じ感覚はない。そこには、食べる人のことを考えて作られていると「思える」余地がある。その想像ができるかどうかが、たぶん決定的な違いなのだ。
懇親会は仕事の上では大事な場なので、仕事としては必要なものだと思っている。だけど大事な食べ物が飾りや装置のようになってるのが少し嫌だ。