以下の内容はhttps://tomzt.hatenablog.com/より取得しました。


横浜周遊(3月13日)

 箱根旅行三日目。

 なぜか箱根を早々に後にして横浜へ向かう。

 ちょっとした野暮用で45年以上前に卒業した大学の卒業証明書が必要になったため。まあ野暮用というのは、4月以降にさる大学の聴講生になるべく、その願書を提出するということ。そのためには大学の卒業証明書が必要になるのだ。

 しかし4年かけて通信制大学を卒業して、今年で70になるというのに今度はリアルに大学の講義を受けてみようかと、また無謀なことを考えている。まあ体が動くうちは、頭が多少とも回るうちはと、適当に思ったりもしている。

 そして野暮用を終わらせてから向かったのは、みなとみらいにある横浜美術館。ここに最後に来たのは、2021年のトライアローグ展以来。たしかこの展覧会のあと改修工事とかでしばらく休館だったということだけど、それにしても5年ぶりというのだから月日の経つのは早い。自分のような年齢になると、例えば次の5年後というと後期高齢者突入だし、その次は80代になる。それを思うと月日の速さイコールで速攻死に至るみたいなことになるんかなと思ったりもしないでもない。

 横浜美術館では企画展「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」が開催されていた。まあこれについては別の機会に書けたら書きたい。

 

 美術館の後は山下公園に移動。マリンタワーの真向かいにある山下公園駐車場に車を止めてから、山下公園を少しだけ歩く。夕暮れ時でけっこう寒いので、今回は大さん橋にも赤レンガの方にもいかず、ただただ山下公園の中をぶらぶらと。

 これもどこかで書いたかもしれないが、山下公園は関東大震災で出た様々な瓦礫を埋め立てて造成された。多分崩壊した建物の破片とかそういうものが沢山埋設されているはずである。そして震災から12年を経過した1935年に山下公園では復興大博覧会が開かれた。公園に面した海の一部を生け簀にして、そこに鯨を泳がせたという記録も残っているとか。開催期間二か月で320万人以上の入場者があったという。まあどうでもいい話だけど。

 周囲の風景はだいぶ変わったけれど、山下公園自体は昔と全然変わらない。海に面した辺りも氷川丸もずっと昔から同じ。

 

 二か所ほど半円状に海に突き出ている部分は、階段を降りると海のすぐ脇まで降りることができる。もちろん階段の前には柵があって階段を下りることはできないけれど、大昔、60数年前には下に降りることができた。

 前に書いたことがあるかもしれないけれど、自分が4~5歳の頃、紙で作った船を父と一緒に何隻分か海に流したことがあった。自分は父にこの船はどこに行くのか聞いた。父は「そうだな、たぶん太平洋を渡ってサンフランシスコへでもたどり着くかな」と答えた。自分はその夜、紙の船がサンフランシスコにたどり着く夢をみた。

 どこまでが本当の記憶か、どこまでが後から父に聞いた記憶か、定かではない。堀江健一がマーメイド号でサンフランシスコに着いたのは1962年で、その頃自分は6歳。ひょっとしたらその頃は横浜から引っ越していたかもしれない。ただ横浜に住んでいて、歩いて山下公園に来ることができたし、父は本牧の米軍キャンプの米軍住宅相手のクリーニング屋を経営していた。海の向こうはアメリカ、サンフランシスコというのは、なんとなく普通の感覚だったのかもしれない。

 山下公園に来るといつでもその紙の船のことを思い出す。たぶん自分の最古の記憶の一つかもしれない。古いアルバムを見ると、一家で山下公園で遊ぶ写真が数枚残っている。父が撮った写真なので、写っているのは自分や兄、そして生き別れた母や祖母。でもそうした家族で遊んだ記憶は自分にはない。ただ父と二人で紙の船を流したことだけが薄ぼんやりと、それでいていつまでも忘れない記憶として残っている。

 

 山下公園を後にして今度は中華街に行ってみる。ニューグランドの脇を通ってまっすぐ行くと中華街の東門にぶち当たる。中華街はもうほとんど観光地と化している。そしてウィークデイの夕暮れ時だというのに人も多い。たぶん春休みなんだろう、若い子たちがたくさんいる。中華街なので当然飲食店が多いのだけど、それより目立つのが占いの店とその客引き。歩いていると、今なら待たないよという声がかかる。

 

 

 

 


 十数年ぶりで訪れた中華街で試しに自分が生まれた場所を探してみる。自分が中学生の頃には、住んでいた家、父のやっていた店は跡形もなく、そこは駐車場になっていたのだが。昔は中華街と元町の間の通り沿いだったと記憶しているのだが、中華街は増殖していて、周辺一帯に広がっている。

 かっては元町から中村川を越えて少し歩くと中華街という感じだった。そしてその少し歩くあたりに生まれた場所があったはずなのだが、今ではすっかり中華街に飲み込まれてしまっている。地理的には中村川を超えるとそこから中華街が始まっているような感じで、ごちゃごちゃと立ち並ぶ建物の中で、もう生まれた場所を特定するのは難しいみたいだ。

 だいぶ歩いてからメインから外れた小さな店で夕食を食べた。大きな店は別にすれば、メインストリートにある店はだいたい均質な味でたいして美味くない。自分が小学生の頃に父がそんなことを言っていたような記憶がある。中華街でそれなりの飯が食えるのは、少し外れた路地にある小汚い店だと、そんなことも言っていたような。父はクリーニング店をやっている頃、そうした店からよく出前をとっていたと、そんなこと聞いた記憶もある。いずれも60年以上前の話だけど。

 とりあえず大きな通りから外れて、テーブルが三つあるだけの店に入った。二階もあるらしいが一階はけっこうせまい。そこで上海混ぜそば、チャーハン、小籠包、海老シュウマイなどを注文した。せっかくなので、妻にはビールの中瓶を進めた。まあ中華街に来て飯食べるのだし。自分はもちろんその後車の運転があるのでパスだけど。

 出てきた料理はそこそこ美味しかった。特に海老シュウマイはかなりイケた。感覚的にはこれまで食べた中でも五指に入るくらいにイケた。最後にごま団子も頼んだが、これも美味かった。そしてなによりも料金が驚くほど安かった。こういうのが観光地ではない中華街だなと、少しだけ思った。

 お店はおかみさんと厨房のだんなさんの二人だけでやっているようだ。もちろん二人とも中国の人のようだ。おかみさんにどこから来たかと聞かれたので、埼玉だと答えると、彼女は昔埼玉にいたと話してくれた。なんでも新座の跡見学園で勉強したとかそんな話だった。自分も実はこのあたり、山下町で生まれた、もっとも60年以上前の話だけどと話したら、目を丸くしていた。

 

 

 

 なんとなくだけど、ちょっぴり感傷的な中華街での夕飯になった。もっとも妻には普通の観光地での夕飯でしかないのだが。

 その後は山下公園の駐車場に戻り。駐車代は平日最大の2080円だったか。目の前のマリンタワーを見上げる。大昔、マリンタワーは歩いて登ることができた。上まで登ると記念にマリンタワーの形をした定規がもらえた。み~んな大昔の話だ。

 

 

沼津・三島周遊(3月12日)

 箱根旅行の二日目。

 箱根はたいていのところを訪れているので、ちょっと足を延ばして沼津に行ってみた。といっても沼津も二年前に行ってるので、特に目新しいということもないのだけど。

沼津御用邸記念公園

沼津御用邸記念公園

 まず最初に訪れたのは沼津御用邸記念公園。ここも二年前にあらかた見ているのだけど、なんとなく雰囲気が良いので再訪してみた。

 大正天皇が皇太子時代に静養先として造営されたもの。昭和天皇もたびたび訪れていたが、1945年7月の沼津大空襲で本邸が消失。西付属邸、東付属邸のみが残り、戦後は1969年に沼津市に移管され、翌年に沼津御用邸記念公園として開設された。

 一般市民に公開されている旧御用邸跡ということでいえば、屋敷の内部も見ることができるのはここと日光の田母沢御用邸記念公園がある。いずれも大正天皇が皇太子の時に作られたものとか。大正天皇は幼少の頃から病弱で、即位後も在位期間は15年と短く47歳で没している。皇太子時代、また即位後も夏は日光で、冬は沼津で静養することが多かったという。大正天皇と御用邸という結びつきは、もっぱら健康問題との兼ね合いだったのかもしれない。

 天皇の誕生日は天皇誕生日として休日になっているが、戦前は天長節という名称であった。大正天皇の誕生日は8月31日なのだが、猛暑の時期ということでなぜか10月31日が天長節になっている。ちなみに明治天皇の天長節11月3日は文化の日、昭和天皇のほうはみどりの日でいずれも亡くなった後も名前を変えて祝日になっている。それを思うとなんか大正天皇って、いろいろな意味で影の薄さを思ったりもする。

 

 
 
 

 公園の奥は海になっているのだけど、海側の遊歩道との間には柵があって直接海には出れないみたい。まあ記念公園には入園料を払っているので、海側から自由に入ってくる訳にもいかないのでしょう。

 とはいえ海の景色もなかなかなものではありました。

 

 

 

沼津魚市場・食堂街

 沼津港には魚市場がある。市場に平行して食堂街があり観光地化している。テレビのグルメ番組とかでも紹介されているので、どんなところかと行ってみることにした。
 魚市場はこんな感じ。もっとも行ったのは昼過ぎなので市場の方はセリとかみんな終わっている。

 

 そして道路を挟んで市場の向かい側食堂街。だいたい三ブロックぐらいに食堂がひしめいている。そして平日だというのにけっこう人が出ている。昼時だったこともあり、お店はどこも満員で外に待つ客も多い。

 どこかに入ろうかと行ったり来たりしたけど、なんとなくピンとくるところがない。料金的には、刺身定食やてんこ盛りの海鮮丼の類はだいたい2500~3000円くらいだったか。海鮮天丼やフライ定食系で2000円前後。まあまあの観光地値段だけど、材料がとれたて新鮮なので割高感とまではいえないかも。

 食堂街の中には、他にも沼津港深海魚水族館なる施設もある。いちおう前まで行ったのだが、二階建ての施設で、水族館としては割とこぶりな感じ。なのに入館料は2200円とけっこう割高。江の島水族館や鳥羽水族館があの規模で2800円くらいなので、それを考えるとかなり高い印象。

 行けばそれなりに面白いのかもしれないけれど、たいした内容でなかったとしたら、そのときのガッカリ感はけっこうグサっときそうな感じもする。目玉がシーラカンスの冷凍標本とVRの深海クルーズというのはも微妙。駿河湾生息の深海魚の生態というのにはなんとなく興味を覚えないでもないけど、やっぱり規模感と入館料の乖離は超えられないか。観光地での勢いで入るのもどうか。

 個人的には大昔は海洋生物学者になることに憧れた少年時代みたいなこともある。磯の潮だまりで一日遊んで、足は傷だらけ、身体は日焼けで真っ黒みたいなことをしてた時期もあった。尊敬するのはクストー、憧れるのは海洋生物学者としての昭和天皇みたいな子どもだったから、たぶん行けば行ったで楽しめたのかもしれない。

 もっとも自分が理想とする水族館は、大昔油壷にあった東大の臨海実験所の水族室。あそこの地味な水槽と標本展示が大好きだった。もっとも動員数減少で1971年に閉鎖されているから、自分がよく行ったのは本当に小学生の頃だったんだとは思うけど。

 話が脱線したけど、とりあえず深海水族館はパスした。

 食堂街をうろうろしているうちに1時をだいぶ回った。昼時を過ぎると人手もややまばらになってきた。

 

 昼飯の方はというと、最初に入ろうと思ったお店がすぐに入れるというので入った。妻は海鮮天丼で自分はアジフライ定食を食べた。食材が新鮮ということもあり、そこそこに美味しかった。アジフライもそこそこにフカフカした感じだったし、天丼の方は出汁を入れて味変もできるという。まあなんていうか値段相応ってところだったか。

 

 

 最近は以前ほど刺身とか寿司とかを美味しく感じなくなった。これも歳のせいなのかもしれない。昔だったら、小料理屋で出てくる刺身とかはけっこう好物だったし、寿司は回るとこも回らないとこにもよく行った。でも例えばトロとか大トロとか、新鮮な白身の刺身とかにも心躍らなくなってしまった。刺身大好きな子どもと一緒だと、刺身はほとんど子どもにやってしまう。保養所の料理でも、なんとなく刺身は持て余してしまうような。若いころには考えられないような感じだ。

 まだ肉のほうがけっこう食べるけれど、それでも以前のようにガッツリという訳でもない。なんとなく食への関心が薄れているような気がする。なので今回のような漁港に近い魚市場と海鮮食堂みたいなのは、そもそも行っても楽しめる話ではなかったかなと。まあ一度は行ってみるのはいいけど、たぶん次はなさそうな。

 帰りにこれも二年前に行った水門と展望施設が一緒になった「びゅうお」にも行ってみたのだが、なぜか木曜日は2時で営業が終了になっていた。今回の旅行はあちこちで振られ続けている。

三島スカイウォーク

 沼津からの帰りに寄った。

 多分3~4回は来ている。三島から箱根に国道一号線で上っていく途中にある。なんでもない山と山の間に吊り橋を架けただけなのだが、これが大成功。年間100万人くらいの集客があるのだという。吊り橋の長さは400メートルで、建設当時は日本一の長さだったとか。天気が良ければ吊り橋を渡る途中で絶景の富士山を望むこともできる。

 Wikipediaを見ていたらこの吊り橋の建設及び運営は静岡のパチンコ屋さんがやっているのだとか。なんでも社長さんがこのあたりを散策しているときに、「景観を生かした誘客施設をつくれないかと」思いついたのがきっかけだとか。

箱根西麓・三島大吊橋 - Wikipedia

 パチンコのどちらかというと斜陽産業だし、こういう新たな企画立案というのは、娯楽産業にとっては必要なことなんだなと思ったりもする。

 

 さて今回はというと、行ったのが4時近くで天気は曇りで富士山などまったく見ることはできず。今にも雨が降りそうでなにより寒い。とにかく駆け足で往復するだけだった。

 とはいえ夕日の沈む駿河湾方面の景色はそこそこキレイだったし、いちおう観光した気分にはなれた。

 

 

 5時前には駐車場を後にして宿の仙石原を目指したのだが、箱根峠あたり来ると雪が降り始めた。元箱根から桃源台のあたりではそれこそ吹雪いているような感じ。道には積るということはないけれど、こんな感じで1~2時間続けば道路もけっこう積りそうな感じだった。いちおう車はスタッド履いているけれど、この調子で夜も雪が降り続けると翌日帰るのに難儀するかなとか、そんなことを思いながら運転してた。

 幸いなことに仙石原まで来ると雪はほとんどやんでいた。あとで保養所の支配人と話しをすると、元箱根よりも仙石原のほうが少し標高低いのだとか。そういうこともあるかと思った。ちなみに箱根で大雪になると大渋滞になるので小田原方面へは30分程度の道のりに数時間かかるのだとか。実際、2月には従業員が家に帰るのに4時間近くかかって具合が悪くなったという。夜中に大雪となれば、朝はどのホテルや旅館でも泊り客が一斉に出発するだろうし、これは大渋滞になるだろうなと思った。

湯河原、箱根小旅行(3月11日)

湯河原周遊

 箱根の保養所が取れたので小旅行に行ってきた。

 箱根は1月にも行っている馴染みの場所。とくに行きたいところも思い浮かばないのだが、そういえば湯河原町立美術館で川端龍子の展覧会をやっているいう話があったので行ってみることにした。

 いつものように圏央道、東名、小田原厚木道路を通り、熱海方面に向かって走り、湯河原に入ってから右折して県道75号線に入り、湯河原駅を超えてしばらく走ると右側に湯河原町立美術館が目に入ってくる。通り過ぎて裏の駐車場に向かおうとすると、美術館に本日休館の文字が。とりあえず駐車場は空いていたので車を入れてHPを確認すると、美術館は水曜日が休館日だという。アチャ~である。

 美術館巡りを続けていると、なんとなく美術館の休みは月曜日というのが固定観念みたいになる。特に公立系の美術館はたいていそうだ。それに準じてか私立美術館も月曜が休みになっている。月曜日に都内に出て時間が空いたといっても、いくべき美術館はないというのがもっぱらだ。自分が知ってる限りだと、月曜に空いているのは六本木の国立新美術館くらいだろう。

 湯河原は町立美術館なので、てっきり月曜日が休館日だと思っていたのだが、ここは水曜日なんだね。ちょっとがっかりだけど、これはきちんと調べてこなかった自分が悪いということ。せっかくなので伊豆・箱根方面の美術館の休館日を調べてみるとこんな感じだった。

<原則無休>

 ポーラ美術館(箱根)

 成川美術館(箱根)

 岡田美術館(箱根)※大晦日、元旦のみ休館

 上原美術館(下田)

<水曜休館>

 湯河原町立美術館

 池田20世紀美術館(伊東)

<木曜休館>

 MOA美術館(熱海)

 

 ちなみに湯河原町立美術館でなぜ川端龍子の企画展をやっているのか。この美術館はもともとは文人墨客が利用したという旅館伊藤屋の跡に作られている。その旅館の別館を画室にしていたのが竹内栖鳳で、戦後はその画室に安井曾太郎が移り住んだという。そうした縁もあり竹内栖鳳の作品も多数所蔵している。また県内在住の現代日本画家平松礼二の作品を一室で展示し、平松礼二館としている。平松礼二は名誉館長にもなっている。

 平松礼二はもともと横山操に私淑し、川端龍子の青龍社に作品を出展していた。横山も青龍社を中心に活動していたこともあり、いわば平松礼二は川端龍子の孫弟子みたいな形になる。たぶんそういうことで今回、平松礼二からのつながりで川端龍子の企画展が開かれていたのだと思う。湯河原で川端龍子はちょっと面白いなと思ってもいたので、美術館がお休みだったのは本当に残念。

 今回の企画展は大田区にある川端龍子記念館が協力しているというので、多くの作品が貸し出されているのだと思う。そういえば記念館にもずいぶんと長いこと行っていないので、どこかで訪れてみたいとそんなことを思ったりもした。

 

 湯河原の美術館に振られて、さてさてどうするかとなる。

 たぶんもう見頃はとっくに終わっているだろうけど、幕山公園の梅園に行ってみた。梅祭りは8日の日曜日で終わっている。梅祭りの会場近くの駐車場はいつもだと体の不自由な人向けだけになっていて、一般車はかなり下の駐車場に止めるのだが、祭りも終わっているので一般開放されている。駐車場はほとんどいっぱいだったが、たまたま一台分空いていたので止めることができた。でも、梅はというとほとんど散っている。これってたぶん8日もほとんど終わりだったのかもしれないなと思った。

 遠目から見るとなんとなく全体が白っぽい感じもしないでもないのだが、近くに行くと白梅は本当に疎らにちらほらあるだけで、紅梅のほうはほぼ散っている。まあこんなものだろうなと思いつつも、とりあえず今年春の湯河原はなんとなく振られっ放しな感じ。まあこういうこともあるなと思った。

 そういえば去年は2月の11日くらいにこの公園訪れているのだが、その時はまだ早いみたいで梅は全体的に蕾状態だった。そして今年は3月ということで梅は完全に終了。なかなか見ごろの時期にマッチしないものだが、まあなんていうか、そういうものだ。うまくいかないところは自分の人生そのものかもしれないと、ちょっと納得してみたりもした。

 
 

ガラスの森美術館

 その後は湯河原パークウェイを通って箱根峠へ。そこから元箱根に下る。そういえば箱根湿性花園は冬季は閉園されているのだが、3月からオープンとか聞いていたので行ってみることに。駐車場まで行ってみるとオープンは3月18日からという。なんとここでも振られてしまう。なんか初日的にだけど行く先々で振られてしまう感じ。

 一番近くの見学施設というとラリック美術館があるけど、そこは1月に行ってる。なので次に近場ということでガラスの森美術館に行ってみることにした。こことその近くに以前あった星の王子様ミュージアムは子どもが小さかった頃はよく行った。昔は箱根というと、彫刻の森、星の王子様、ガラスの森、そして芦ノ湖の海賊船みたいなパターンだった。でも子どもが大きくなって、一緒に旅行とかも行かなくなると、そのへんになんとなく足が遠のいた。

 ガラスの森美術館に最後に行ったのはいつ頃だろう。この雑記の記録を検索してみると、2006年、2007年と続けて行っているようだ。とするとかれこれ20年くらい行ってない。星の王子様ミュージアムは2023年に閉園になったのだが、ガラスの森はずっと健在なのだが、なんでこんなに行かないのだろう。ヴェネチアン・グラスに興味がないとか。いや別にそういう訳でもないはず。ここは健保の宿から一番近いところで、それこそ歩いてでも行けそうなところ。多分、そういうのでちょっとパスというか、なんとなくいつでも行けそうな気がして行かなくなったのかなと、そんなことを思った。

箱根ガラスの森美術館 | ヴェネチアン・グラス専門の美術館

  いざ行ってみると、ヴェネチアン・グラスってけっこう見ごたえがある。なにか20年前の記憶だと屋外のガラスでできた木とかそういう記憶しかなかったのだが、屋内の美術館の施設がなかなか凝っている。

 

 

 ヴォールト(穹窿)と天井画がなかなか見事。

 その下で馬頭琴によるミニ・コンサートなんかをやっていた。

 

 

 

 そして、そして展示してあるヴェネチアングラスはなかなかに見事。特に16~18世紀のものなども多くとても見応えがあった。

 《獅子装飾乳白瓶》 1760年頃

 

《レース・グラス大皿》 17世紀

 

《レース・グラス蓋付容器》 16世紀

 

《レース・グラス白鳥形脚コンポート》 19世紀

 

《マーブル・グラス・コンポート》 15世紀末

 

《ドルフィン形脚双耳花器》 サルヴィアーティ工房 1885年

 

《クリスタッロ花装飾杯》 リノ・タリアピエトラ作 
1973年

 

《Autunno(秋)》 リノ・タリアピエトラ作 1996年

 

 ヴェネチアングラスなんて、これまであまり興味はなかったけれど、きちんと見ると、工芸の美みたいなものにはけっこう見とれるような感じがある。

 ヴェネチアングラスが小道具として効果的に使われている映画があったことを思い出した。デヴィッド・リーン監督の『旅情』だったか。オールド・ミス*1のアメリカ人女性が、ヨーロッパ旅行に出る。たしかロンドン、パリと旅を続けて最後に訪れたのがヴェニス。そこで小さな骨董屋に入って、彼女が目を奪われるのがヴェネチアングラスの赤いゴブレット。

 

 

 そして骨董屋の主人が中年の二枚目。二人は恋に落ちて.............。

 アメリカ人女性を演じるのはキャサリン・ヘップバーン、骨董屋の主人はロッサノ・ブラッティ。三十代後半のハイミスのヘップバーンは、最初は本当にあか抜けない感じだったのが、恋することでどんどんキレイになっていく。そういう演出かつそういう演技なんだけど、そのへんの心理をきちんと演じ分けられるところは、アカデミー賞主演女優賞を4度取ったレジェンド女優ならでは。

 そしてロッサノ・ブラッティはどっちかというと大根というか、演技力的に微妙なんだが、そのへんがただのペラペラの色事師的ではないような感じ。*2

 この映画から白髪交じりの中年の二枚目をロマンス・グレイと呼ぶようになったとか、そんな話だったか。

 ガラスの森美術館のヴェネチアングラスの工芸品を身ながら、古い映画のことをちょっとだけ思い出してみた。この映画の公開は1955年で、当時はアメリカは戦後の大好況にあり、強いドルを背景にみんなヨーロッパに観光旅行に訪れていた。なのでアメリカ地方都市で秘書を務める女性が、長期休暇でヨーロッパ旅行ができるということだったんだろう。リラもフランもポンドも、ドルに比べてえらく安かった時代ということ。

 当時はこういうヨーロッパの名所を舞台にした観光映画がたくさん作られていたという話。オードリ・ヘップバーンの『ローマの休日』も実はその手の観光映画だった訳である。

 当時のアメリカ人は『旅情』や『ローマの休日』を観て、大挙イタリアを訪れて、ヴェネツィアングラスの買ったり、スペイン広場でジェラートを食べたりしたということでした。

 今なら安い円で日本を訪れて、伊万里焼とか買うとか、オーバーツーリズムの現状でも、まあそういうことはないようだ。

*1:21世紀にあってはもはや死語だな

*2:実際ちょっとシャイな男やもめを演じている

ときがわ、越生で春に親しむ(3月5日)

 昼過ぎから妻とお出かけ。

古民家カフェ枇杏

 まずは都幾川の古民家カフェ枇杏でランチ。

 ここは去年も2月の終わりに来ている。ランチは去年はデザートをいれて1900円くらいだったが、今回は2千円超えになったか。やっぱり値上がりしているんだろうな。メニューもチーズハンバーグのトマトソースみたいなもので、なんだか去年も同じものを食べたような。おそらく妻がデイが休みの木曜日ということでいえば、いつも同じメニューなのかもしれない。前回も思ったが、ごはんがとても美味しい。炊き方、米の種類とかいろいろあるのだろう。トマトソースのハンバーグや小鉢類も妻の大好物なので、妻は素直に喜んでいた。

 病気で身体が不自由になり失ったものは大きいけれど、たまにこうやってドライブしたり、好きなものが食べられる。それで失ったものを埋めることにはならないのだけれど。

古民家カフェ枇杏

桃木農村公園

 一週間前にも来ている。ときがわ町が河津桜の名所的になんとなく観光資源的にPRしているところ。規模は小さい。まあときがわだし、ディープ埼玉だし、ということで期待値をミニマムに振って出かけると、程よい感じに花を楽しむことができる。前週は三分から五分というところだったけれど、今回はほぼ満開。

 駐車場には高齢のオジさんたちが数名いて誘導もしてくれる。多分地域のボランティアなんだろう。一週間前にも来ていると話したら、ちょっと驚いていた。まあ近くならともなく、リピーターとかあまり期待していないのかもしれない。

 ちなみにナビに「桃木農村公園」と入れても絶対にヒットしない。前回、今回ともに近くの「都幾川中学校」と入れて、その中学校の先を左折して狭い道路を右に右にと行くと、適度に看板とかの案内があって、なんとか行き着くことができる。駐車場は10台分くらい。たぶん土日はそこそこに訪れる人も多いようなので、少し離れた三波渓谷の駐車場を案内されるようだ。

 

 
 

 

越生梅林

 

 家から車で30分くらいのところにある。一応「関東三大梅林」の一つなのだそうだ。

 「関東三大梅林」は水戸の偕楽園、熱海梅園(小田原の曽我梅林説もある)ということらしい。偕楽園は納得だけど、あとの二つはどうも自称っぽい。そしてわざわざ「関東三大梅林」と言っているところは越生だけのようだったり。これはまああの「関東の三大師」と自称して定着させた佐野厄除け大師みたいなものだろうか。

 越生梅林 | 越生町観光サイト -梅を向いて歩こう-

 梅祭りは2月14日~3月15日までの一か月間。この期間は駐車代500円、入園料500円となります。駐車場も第1から第3くらいまであるみたいで、土日はけっこう盛況になるようなのだろうが、ウィークデイ木曜日の午後ともなると人もまばら。うちのような高齢夫婦が数組、あとはおそらく春休みなんだろうか、学生さんの数人みたいな感じでしたか。まあゆったりとした時間を過ごせます。

 梅の木はだいたい1000本くらいあるのだとか。越生町全体が梅で町おこしみたいな感じもあるのだろうか、周辺の農家でもけっこう梅の木を植えているところが多く、町全体では2万本くらいになるのだとか。車で町内を走らせていると、なんとなく梅の香がするような気がしてくる。まああくまで気がするだけです。

 開花状況はというと、さすがに早咲きの梅はかなり散っているけど、遅咲きのものを含めてほぼ満開状態。たぶんこの感じだと梅祭りの最終の15日近くまで楽しめそうな感じ。

 園内を車いすを押してゆったり回って、だいたい1時間くらいいただろうか。まあ近場だし、車運転できる間はなんとなく毎年来るんだろうなとそんなことを思ったりもした。

 ときがわ桃木農村公園の河津桜、越生の梅林、そうやってご近所で春に親しむ。スローライフって、こんな感じなんだろうか。

 

 

 

 

 梅の枝がぐるっと曲がってややいびつな輪を描いている。こういうの確か広重にあったような。たしか《亀戸梅屋敷》とかだったか。

 

 

 

 
 

 

とりあえず卒業できそうだ

 友人と一緒に浜離宮へ行く。

 通信制の大学の卒業判定が今日発表される。これまで芸術教養演習1*1で「浜離宮」をテーマにして、次の演習2は「芝離宮」、そして卒業研究も「浜離宮」にした。ということでちょっとばかり狙った感じでやってきた。友人はとりあえず道連れにした。「卒業可」なら卒業祝い、「不可」なら残念会、とりあえず奢ってくれるという。

 最初にカレッタ汐留(電通ビル)の最上階に上る。自分も友人も、高いところに上るの好きというアレだ。その間にも持ってきたノートパソコンで、大学のウェブサイトをチェックするが卒業判定は出ていない。

 浜離宮にやって来ると、もう梅の時期は終わりかけで、菜の花が満開。半分くらい回ったところで、友人は腹が減ったというので大手門出口に向かう。友人はあまり日本庭園には興味はないみたい。ちょうどその頃にメールがきて、「卒業判定/卒業可」となった。

 まあ大丈夫だろうとは思っていたけど、とりあえずホッした。ただそれだけの感慨。

 思えば2022年4月、3年次編入で通信制の大学に入学した。京都芸術大学という「手のひら芸大」という広告を出しているところ。もともと自分は法学部出身だったし、仕事は営業だの管理業務だの経営だのと芸術とは畑違いだった。たまたま50代半ばになってから美術館巡りが趣味になった。たぶんそのへんがモチベーションになったのだろうか。

 64歳の年の秋にリタイアして隠居生活になった。1年ふらふらしていて何もしないのもなんかなあと思ったりもしていた。仕事はほとほと嫌になっていた。そりゃ40年も働いていればほとほと嫌気がさすというものだ。かなり切り詰めていけば、年金だけでもなんとか凌げると、そんな試算も適当に何度かしてみた。

 そのうえで通信制の大学というものをとりあえずやってみるか、2年で卒業できれば御の字、悪くてももう1年くらいかければと。何事も飽きっぽい性格なので、途中で投げ出してもいいくらいの、軽い気持ちだった。

 「リタイアして、今は大学生やってます。一応学割がききます」

 そういう軽口が叩ければいいか。つまりはリタイアした高齢者のアイデンティティ的避難場所みたいな感じだっただろうか。

 いざ学習をやってみると、自分の脳みそがかなり錆びついていることがわかる。記憶力なし、集中力なし。そして大学の勉強というのにも慣れないし、ある意味追いついていかない。しかもやろうとしているのが、ある意味畑違いの芸術教養だ。

 なんとなく漠然と芸術史や美学を学びたいと思っていたのだが、デザイン思考とか日本文化や民俗芸能など、あまり関心のないものまで。ビデオ講義はWS科目といって、1科目に平均で短いビデオ講義を約60本観てから1200字程度のレポートを書く。これ以外にテキストを読み、レポート提出後に試験を受けるというTR科目もある。

 2年間に62単位習得となるが、卒業研究2単位を修得するために必要な科目の取得条件があり、3年次には卒業研究着手に至らず、4年目は卒業研究1科目取得のためだけに、泣く泣く年間授業料を払う羽目に。これでもし提出した卒業研究が不可だったら、なにか泣くに泣けないところだ。そして取得単位は4年間で80単位。

 ここにも何度か書いたかもしれないけれど、卒業できる、できないに関わらず、今年で大学はやめるつもりだったので、とりあえず卒業できることになって、まずは素直にホッとしているというところ。

 通信教育での学習経験、科目レポート、もろもろの記憶、記録については、またおいおい思いついたら書いてみたい。リタイアした高齢者の学習体験みたいなことで、記録に残していてもいいかもしれないと思ったりもする。

 通信制大学の卒業率は平均で10~15%だという。スクリーングとかがないと、本当にテキスト読むとかビデオ講義とかだけ。本当に孤独な学習生活を続けていくことになる。それを思うと本当に卒業までこぎつけたことには、達成感とまでは大仰に思わないけれど、まあなんていうか嬉しい。

 ただし、これからは唯のプータローになってしまう訳で、まさに隠居老人そのものというところ。これからなにかしようかというとまったくの未定。ずっと三日坊主の英語にまた取り組むか、どこか都内で受講可能な大学の聴講生でもやろうか、なんとなく漠然と考えていたりして。

*1:通信教育でのゼミみたいな科目

アメリカ・イスラエル、イラン戦争

 アメリカ・イスラエルによるイランへの攻撃が始まった。またしても宣戦布告なき戦争の開始だ。トランプのアメリカになって1年、世界で一強の超大国のに「なんでもありの男」がトップについて以来、まさにアメリカは「なんでもありの国」になってしまった。

 大規模攻撃、軍事作戦など巧妙な言い回しが使われ、「戦争」という言葉は回避し続けている。アメリカ憲法では国家の戦争行為には、議会の承認が必要だ。でも大規模攻撃や軍事作戦には大統領の権限を制約するものがない。もっとも今のアメリカ議会は圧倒的に共和党が多数派を占めているので、大統領が承認を求めれば可決されるかもしれない。でもそうなれば様々な責任問題が生じる。

 そういえばロシアによるウクライナ侵攻も「特別軍事作戦」という言葉によって、明らかな侵略行為、ロシアによる宣戦布告なき「戦争」が言葉的には回避されている。

 

 なにかこう日々、「なんでもあり」というものに感覚が麻痺していくような気がしてならない。ロシアによるウクライナへの侵攻、明らかな国際法違反であるがすでに4年も続いている。それまでロシアという大国に立ち向かう小国ウクライナと、その力強いリーダーともてはやされてきたゼレンスキーは、トランプが大統領になって以来、妥協できない、和平交渉の障害者みたいな扱いになってしまった。

 欧州の平和は、プーチンとトランプという二大なんでもありのリーダーによって収斂されるのかもしれない。

 

 しかしトランプのアメリカの「なんでもあり」は止まるところを知らない。1月にベネズエラに奇襲をかけ、国家元首を拉致し、アメリカで裁判にかけるという暴挙があったばかり。

 そして今回はイランの核開発についての外交交渉を行っている最中に、またしてもイスラエルと共同での大規模な攻撃である。そしてイスラエルのミサイル攻撃によって、イランの最高指導者ハメネイ師は殺害された。

 これらがどれだけとんでもない暴挙かといえば、例えば中国や北朝鮮が日本に奇襲をかけて、女性総理大臣を拉致して自国に連れ去り逮捕監禁する。あるいは同じく、皇居にミサイル攻撃をして天皇を殺害する。やっていることは、そういうことなんだ。

 中国がやったら国際的な暴挙となるが、世界一の超大国アメリカが行えば、憂慮すべき事態かもしれないが、詳細が不明なので論評を差し控えるみたいな言い回しになる。日本の総理大臣は、アメリカの行為が国際法に違反にするかどうかについて、コメントを求められてもそれに答えることはない。そりゃまあ同盟国にして唯一の宗主国であるアメリカの「なんでもあり」は、是認せざるを得ない。属国なのだからいたしかたないか。

 

 今、いったい何が起きているのか。ネットをググるとBBCの記事「【解説】 なぜアメリカはイランを攻撃したのか、地上部隊を送るのか、米本土への反撃はあるのか――今わかっていること」という記事を見つけた。

 でも読んでみると、「今わかっていること」は「何もわかっていない」ということだった。それくらいどうでもいい記事だ。

 

 今はほとんど見ないXだが、情報収集のためにやむなくたまに見ることはある。戦争の理由について民主党の上院院内総務シューマーがこんなコメントをしている。

“Regime change, nuclear weapons, missiles, defense. Preemptive. Which is it? When the justification keeps shifting, a strategy is missing. There is no strategy.”

 

戦争の根拠となる理由が、その都度変わっている。

「政権交代、核兵器、ミサイル、防衛。先制攻撃。」、戦争を正当化する根拠が変わるのは、結局戦略が欠如しているということだ

 そりゃそうだよな。戦争の理由なんて特にないのかもしれない。よく言われるエプスタイン文書からの目逸らし?、インフレによる物価高騰による国民の不満を逸らせるため?

 おそらく秋の中間選挙までは、サーカスのごとくに毎月、なんかしら世界中のどこかで戦争行為を続けるかもしれない。グリーンランドへの侵攻だって、けっしてあり得ないことではない。繰り返しになるが、「なんでもありの男」が率いる超大国なのだから。

 

 しかしイランの核開発は断固として阻止するのだという。それが国際秩序、中東の平和のため、ひいては世界平和のために必要だと。

 その言葉の白々しさとともに、よく北朝鮮は核開発に成功して9番目の核保有国になることに成功したものだと思う。北朝鮮の核開発が武力で阻止されなかったのは、あまり好きな言葉ではないが、ひとえに地政学的な関連性かもしれない。北朝鮮はアメリカに次ぐ超大国である中国、ロシアと地続きである。アメリカがもし北朝鮮に攻撃、侵攻をかけるのであれば、なによりも中国やロシアにナシを通す必要がある。

 そして極東にはイスラエルのような超武力国家が存在しなかった。イスラエルは自国の存続にとって脅威となるものに対して過剰な反応をすることが、アメリカによって認められた唯一の国である。中東において自国以外が核をもつことは、自国の存続に直結する。だから即座に動く。それだけのことだ。

 そしてアメリカにはたぶん朝鮮戦争の苦い記憶がトラウマのように残っている。人民解放軍の参戦によって釜山まで追いやられた記憶だ。もっとも再上陸作戦により戦線を引き戻し、それが今の38度線になったのだろう。

 今、中国にナシを通さずに北朝鮮に侵攻すれば、間違いなく第三次世界大戦の危機に直面せざるを得ない。朝鮮半島や日本列島は、中国からすれば自分の庭なのだから。それが極東アジアの現実である。

 

 繰り返しになるが、国際政治はプーチンのロシア、トランプのアメリカによって、まさに「なんでもありの世界」になってしまった。

 今朝の朝日朝刊に「仏、核弾頭増へ転換」という記事載っていた。

仏、核弾頭増へ転換 マクロン氏「今後は核兵器の時代」:朝日新聞

 マクロン大統領は「今後は核兵器の時代」と述べたという。そりゃそうだよな。「なんでもありの世界」においては、核を保有する、保有数を増やす、それが自国の存続のための必要条件になるということだ。

 もっともイランのように超大国の脅威となるようなかたちでの核開発は認められないので、せいぜいこそこそと見つからないように開発を行うか。まあ今の各国のインテリジェンス能力からそれは無理だろうから、大国の傘下でそれを続けるかだ。

 ひょっとしたら、したたかな北朝鮮は核やミサイルの輸出大国に変貌するかもしれない。日本は「なんでもあり」の宗主国アメリカに媚びを売り続けて、絶対忠誠を誓うことで核保有を認めてもらうか。もっとも極東アジアにおいて、日本が核保有するなんてことは、中国、ロシアが認める訳もなく、やっぱり宗主国の核の傘に守られるしかないかもしれない。

 

 超大国の「なんでもあり」が横行する国際政治において、現在のところでは中国だけが理性的かつ節度を保っている。中国は現代史というスパンに限定すれば他国への侵攻を行っていない。今回のアメリカ・イスラエルのイランへの侵攻も、国際法を根拠に批判を行っているだけだ。今のところ、正面からアメリカと対峙するということはないのだろう。

 今の中国のGNPや軍事力という点では、まだまだアメリカとは大きな差がある。この差を縮めることを不断に続けていくのだろう。そういえばかってのソ連の軍事力はアメリカとほとんど同じくらいだった時期もあったと記憶している。過度な軍事予算は、民生を圧迫し、それが崩壊を一要因になったことは間違いない。アメリカもまた当時は大きな財政赤字を負っていた。

 しかし「なんでもあり」の世界が現出してしまった現在、実は冷戦時代を懐かしく思ったりもしている。二大超大国が均衡し、互いに世界のあちこちで小規模の代理戦争を行うことで緊張関係を保つ。少なくともその時代には、現在のような「なんでもあり」はなかった。

 ベルリンの壁崩壊とともに、社会主義陣営もまた崩れ去った。結果として資本主義の一強、超大国アメリカの一人勝ちという21世紀の時代が出現した。資本主義が理性的、合理的な形で運営され、古い言葉ではあるが「神の見えざる手」によって運営されるなんていうことはなく、強者はさらに強者となり、弱者はさらに奈落の底へと落ちていく。社会主義というカウンターパートをぶっ潰した資本主義社会では、格差は際限なく極まっていく。

 資本主義社会のチャンピオンである一強超大国アメリカは、理性的かつ節度ある世界のリーダーたることを放棄し、自国中心主義を邁進しようとする。結果出現したのは誰も止めることができない「なんでもあり」な超大国だ。

 そして21世紀を生きる我々は、そうした「なんでもあり」な世界にじょじょに馴致されている。

東京都美術館「スウェーデン絵画」展(2月25日)

 雨の中、友人と待ち合わせて上野、東京都美術館で開かれている「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」を観てきた。

 スウェーデンの絵画というと、なにかピンとくるものがないな。同じ北欧ということでいえば、例えばノルウェーにはムンクがいる。フィンランドはカッレラとかがなんとなく思い浮かぶ。デンマークはハンマースホイとか。そういえば2017年とか2018年に西洋美術館で、デンマークのスケーエンという海沿いの村に集まった画家たちの企画展とか、フィンランドの女流画家のミニ企画展とかもあったような気がする。アンカーとかクロイヤーとかそんな名前の画家がいたような。バルビゾン的自然主義や印象派的な筆触分割とかそのへんを受容した画風だったような気がする。

 でも、スウェーデンの画家というとどうにもピンとこない。そういえば去年、東近美で話題になった女性の抽象画家ヒルマ・アフ・クリントはスウェーデンの人だったが、彼女はどちらかというと忘れられた先駆的抽象絵画の画家ということだった。

 そんなこんなでなんとなく思い出したのはこの一枚の絵だ。

 

《北欧の夏の宵》 リッカード・ベリ 1899-1900年 イェーテボリ美術館

 これは徳島の大塚国際美術館で観た陶板複製画だ。湖をみつめるカップル。でもなんとなく思っていることは同じで相手への愛情。互いを見つめあわなくても気持ちは通じ合っている、そんな雰囲気を感じさせる。北欧の絵画の一室で、ハンマースホイやムンクなどが展示してあるなかで、この一枚もある。いつも行くと必ずこの絵の前で立ち止まる。なかなか良い雰囲気の絵だ。

 この絵は大塚国際の中でもけっこう人気があるようで、カレンダーなどにも取り上げられる。あまり知られていない画家の人気の絵という点では、ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエールの《エデンの園》と双璧かもしれない。そうかリッカード・ベリはスウェーデンの画家だったな。

 この二人のモデルは実在の人物で、右の男性はエウシェン王子というスウェーデンの王族の一人で風景画家としても有名。実は今回の展覧会でも出品されている。女性は当時人気のあった歌手のカリン・パイク。二人が恋愛関係にあったかというと、そういうことはなく友情でつながっていたという記述をみかけたりする。エウシェン王子は生涯独身で、一説ではゲイだったという話もある。なのでこの二人は歌手、画家という芸術家同士のつながりでしかなかったようだ。

 さらにいうとこの絵は、実際に二人が一緒にポーズをとっていたのではなく、それぞれが別の場所でポーズをとり、それを基にリッカード・ベリがこの絵画に仕上げたものだという。画家の構想力、想像力の勝利というところだろうか。

 今回の企画展で出品された作品はスウェーデン国立美術館所蔵のもので、この《北欧の夏の宵》はイェーテボリ美術館所蔵品。ということで今回の企画展で観ることはできません。これは残念なことで、いつかいつか観てたいものだと思っている。

 

 そして今回の企画展、「100%スウェーデン」というスウェーデン絵画に特化した展覧会でスウェーデン国立美術館所収の約80点の絵画が集結している。

 展覧会の構成は以下の5章に分かれている。

Ⅰ スウェーデン近代絵画の夜明け

Ⅱ パリをめざして——フランス近代絵画との出会い

Ⅲ グレ=シュル=ロワンの芸術家村

Ⅳ 日常のかがやき——”スウェーデンらしい”暮らしのなかで

Ⅴ 現実のかなたへ——見えない世界を描く

 基本的にスウェーデンの近代絵画を俯瞰するような構成だ。一通り観た感想をいえば、多くの画家がフランスで学び多くをフランス絵画から学んだ。ロマン主義、クールベ的自然主義、バルビゾン派的風景画、印象主義、そして象徴主義など。それらの受容がある意味一貫したスウェーデン近代絵画の潮流のようだ。

 このへんはデンマーク、フィンランド、ノルウェーなど北欧の絵画思潮とも共通している。いわばヨーロッパでも辺境地である北欧では、メインストリームであるフランス絵画思潮の影響を強く受け、その受容とそこに民族的、土着的文化をじょじょに込めつつ展開していくみたいなことのようにもみえた。

 それは極東アジアの辺境地である日本が、明治以降の近代化の中で、西洋絵画を主にフランスの近代絵画を受容するなかで洋画として発展させていったのと似ている。中心と周縁という意味でいえば、同じ欧州、欧州と極東アジアという地理的距離に大きな差があるかもしれないけれど、ある種に通ったところがあるのかもしれない。

 要はみんなフランスに、パリに憧れ、そこで学んだ画風を自国に帰って展開させていったみたいなことだったのだろう。今回のスウェーデン絵画を観て強く思ったのは、まあいつもの思いつきとか思い込みの類ではあるけれど、北欧がヨーロッパの辺境地域であること、そこで展開された辺境絵画だということだったかも。

スウェーデンを代表するABC

 展示作品は出品リスト上では84点。その中で注目されるのは、スウェーデン近代絵画のABCとされる3人の画家。ABCは頭文字からとられている。

A:アンデシュ・ソーン(Anders Zoom,1860-1920)

 肖像画を得意とするほか、故郷ダーラナ地方の風景や民俗を題材にした作品を多数描いた。

《故郷の調べ》 アンデシュ・ソーン 1920年(年記) 油彩・カンヴァス

 今回出品されている作品は民族衣装のこの作品を含め、地方の風俗画的なものが多い印象だが、Wikipediaなどで確認するとけっこう多種な技法を取り入れている。それこそマネ風だったり、ドガ的だったりと。とにかく画力があり、観る者を引き付ける魅力を感じる。

アンデシュ・ソーン - Wikipedia

B:ブリューノ・リリエンフォッシュ(Bruno Liljefors,1860-1939)

 野生動物、自然環境を写実的に描いた動物画家。

《カケス》 ブリューノ・リリエフォッシュ 1886年(年紀) 油彩・カンヴァス

 この絵を観たファースト・インプレッションはというと、どこか浮世絵に通じるような奇抜な構図だなと思ったこと。手前に大きく低木とそこに止まるカケス、さらに一羽が翔びたっていくという構図は広重や北斎が得意とした近像型構図そのものだ。この画家はフランスやドイツに遊学した時期もあるというが、どこかで浮世絵版画に接したこととかあるのだろうか。

 リリエフォッシュは動物画を得意としていて、自らたくさんの鳥を飼育して観察したという話もあるという。たくさんの鳥を飼育して観察というと上村松篁にもそんなエピソードがあるなと思ったりもした。リリエフォッシュの鳥のスケッチに、どこか上村松篁を想起させるものがあったような。

ブルーノ・リリエフォッシュ - Wikipedia

C:カール・ラーション(Carl Larsson,1853-1919)

《キッチン(『ある住まい』より)》 カール・ラーション 1894-1899 水彩・紙

 美しい水彩画だ。これはラーションが自分の家庭の日常を題材にした「私の家」シリーズの一つ。このシリーズは画集として出版され評判になったという。ほのぼのとしていて何か日本でも人気が出そうな感じがする。調べるとこの画集から19点を選び絵本として講談社から出ていたらしいのだが、残念ながら品切未定か絶版になっているようで、現在は入手不可能なようだ。

カール・ラーション - Wikipedia

 

 この三人がスウェーデンの代表的な画家、国民画家ということで、アンデシュ・ゾーンが4点、ブリューノ・リリエフォッシュが5点、カール・ラーソンが5点出品されている。その他では冒頭で紹介したリッカード・ベリ*1が4点。あとはカール・ノードシュトルムが5点、日本では小説家、戯曲家、スウェーデンの文豪として紹介されることも多いアウグスト・ストリンドベリ*2が4点出品されている。おそらくABCとこの3人がスウェーデンの近代絵画を代表する画家ということになるのかもしれない。

 

ストリンドベリ

 そういえばストリンドベリは西洋美術館が2022年に《インフェルノ/地獄》を購入していて、初出品された時に観た記憶がある。そのときには文豪ストリンドベリは絵も描いていたのかと思った。まあなんていうかイメージ的には夏目漱石が絵をそれも象徴主義風の風景画を描いているみたいな感じがした。あとで調べるとその絵の購入金額は6億5千万だという。同時期にスペインのホアキン・ソローリャの《水飲み壺》も購入していて、そっちは4億3千万だったか。ソローリヤのほうがインパクトあるし、ストリンドベリのほうが市場価値が高いのになんとなく納得がいかない部分を感じた。

西洋美術館企画展 (9月1日) - トムジィの日常雑記

 ストリンドベリは今入手可能な小説とか戯曲とかあるのだろうか。『令嬢ユリイ』が岩波文庫で定期的に復刊されていたような記憶があるが、なにかあまり刊行されていない。でも戦前はそれこそ岩波書店で『ストリンドベリ全集』が刊行されていた。岩波は日本人の作家だと、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、泉鏡花など著名なところはけっこう全集を出しているのだけど、海外の作家はほとんど出していない。以前に岩波の社史とかの刊行リストを眺めていて、戦前はトルストイとこのストリンドベリだけが全集として出ていて、けっこう意外だなと思ったりもした。

 そんなこともありストリンドベリが余技ではなく、プロの画家でもあったのはちょっとした驚きだったりもした。

《ワンダーランド》 アウグスト・ストリンドバリ 1894年(年記) 油彩・厚紙

 

その他の気になった作品

《陽光》 ファンニ・ブラーテ 1898年(年記) 油彩・カンヴァス

 

《カードゲームの支度》 カール・ラーション 1901年(年記) 油彩・カンヴァス

 

《エウシェーン王子》 オスカル・ビュルク 1895年 油彩・カンヴァス

 冒頭に紹介したエウシェン王子である。彼はプロの風景画家だったが、リッカード・ベリだけでなく、このオスカル・ビュルクやその他の幾人もの画家のモデルとなっている。ここでは王室のVIPというよりも、創作に向き合う同僚画家の一人として描かれている。

 

《静かな湖面》 エウシェーン王子 1901年 油彩・カンヴァス

 この企画展の最後に展示されているのが、このエウシェン王子の作品。単なる風景画の域を超えた象徴主義的な雰囲気を持つ作品だ。

 

《夜の訪れ》 ニルス・クルーゲル 1904年(年記) 油彩・カンヴァス

 この絵が今回の企画展の中でもある種、一番のお気に入りかもしれない。夕暮れ時、三頭の馬を描く。どこかゴッホ的な筆触。惜しむらくは、右の馬の描き方、なぜかこの横向きの構図は平板な感じがする。中央の馬の正面鑑賞性からすれば、右の馬はやや後ろ向きにした方が動きが出るような気がするのだが、どうだろうか。

 

《編み物をするダーラナの少女コール=マルギット》 アンデシュ・ソーン
 1901年(年記) 油彩・カンヴァス

 

《騎士と乙女》のための習作 リッカード・ベリ 1894年 
油彩・カンヴァス(メゾナイトに貼り付け)

 冒頭に紹介したリッカード・ベリである。《北欧の夏の宵》とは画風がまったく異なる感じで、これはゴッホ的な筆触。補色の使い方もゴッホそのものだ。リッカード・ベリはゴッホやゴーギャンの画風に影響を受けているという。おそらくそのへんを強く意識した習作だろうか。

リッカルド・ベリ - Wikipedia

 

《ウップランド地方、ウースビホルム夏の夜、月の出》 リッカード・ベリ 1891年
油彩・カンヴァス

 

《スカンセンから見たストックホルムの眺め》 カール・ノードシュトゥルム 1889年
 油彩・カンヴァス

 シスレーを思わせる印象派そのものという絵。ノードシュトゥルムはフランスで印象派の洗礼を受け、帰国後その技法を試みた作品。前景の自然な風景、後景の近代化の途上にあるストックホルムの市街地という対比もまた、印象派の画家が得意としたもの。スウェーデンという欧州の辺境地の画家による印象派の受容作品とでもいうべきだろうか。

 

《チルケスンド》 カール・ノードシュトゥルム 1911年(年記) 油彩・カンヴァス

 印象派的画風からなんとなくゴーギャンの総合主義的な画風に変化したみたいなところだろうか。

 

《冬の月明り》 グスタヴ・フィエースード 1895年(年記) 油彩・カンヴァス

 どこか浮世絵版画を思わせる。そして雪を点描で描くというのはどうなんだろう。自分的にはあまり成功しているとは思えないのだけど。

 

《ヴェストマンランド地方、エンゲルスバリの湖畔の眺め》 オーロフ・アルボレーリウス 1893年(年記) 油彩・カンヴァス

 

《ゴースウー小岩島》 カール・ヴィルヘルムソン 制作年不詳 油彩・カンヴァス

*1:この展覧会ではバリと表記されている

*2:この企画展ではストリンドバリと表記




以上の内容はhttps://tomzt.hatenablog.com/より取得しました。
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