箱根旅行三日目。
なぜか箱根を早々に後にして横浜へ向かう。
ちょっとした野暮用で45年以上前に卒業した大学の卒業証明書が必要になったため。まあ野暮用というのは、4月以降にさる大学の聴講生になるべく、その願書を提出するということ。そのためには大学の卒業証明書が必要になるのだ。
しかし4年かけて通信制大学を卒業して、今年で70になるというのに今度はリアルに大学の講義を受けてみようかと、また無謀なことを考えている。まあ体が動くうちは、頭が多少とも回るうちはと、適当に思ったりもしている。
そして野暮用を終わらせてから向かったのは、みなとみらいにある横浜美術館。ここに最後に来たのは、2021年のトライアローグ展以来。たしかこの展覧会のあと改修工事とかでしばらく休館だったということだけど、それにしても5年ぶりというのだから月日の経つのは早い。自分のような年齢になると、例えば次の5年後というと後期高齢者突入だし、その次は80代になる。それを思うと月日の速さイコールで速攻死に至るみたいなことになるんかなと思ったりもしないでもない。
横浜美術館では企画展「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」が開催されていた。まあこれについては別の機会に書けたら書きたい。
美術館の後は山下公園に移動。マリンタワーの真向かいにある山下公園駐車場に車を止めてから、山下公園を少しだけ歩く。夕暮れ時でけっこう寒いので、今回は大さん橋にも赤レンガの方にもいかず、ただただ山下公園の中をぶらぶらと。
これもどこかで書いたかもしれないが、山下公園は関東大震災で出た様々な瓦礫を埋め立てて造成された。多分崩壊した建物の破片とかそういうものが沢山埋設されているはずである。そして震災から12年を経過した1935年に山下公園では復興大博覧会が開かれた。公園に面した海の一部を生け簀にして、そこに鯨を泳がせたという記録も残っているとか。開催期間二か月で320万人以上の入場者があったという。まあどうでもいい話だけど。
周囲の風景はだいぶ変わったけれど、山下公園自体は昔と全然変わらない。海に面した辺りも氷川丸もずっと昔から同じ。

二か所ほど半円状に海に突き出ている部分は、階段を降りると海のすぐ脇まで降りることができる。もちろん階段の前には柵があって階段を下りることはできないけれど、大昔、60数年前には下に降りることができた。
前に書いたことがあるかもしれないけれど、自分が4~5歳の頃、紙で作った船を父と一緒に何隻分か海に流したことがあった。自分は父にこの船はどこに行くのか聞いた。父は「そうだな、たぶん太平洋を渡ってサンフランシスコへでもたどり着くかな」と答えた。自分はその夜、紙の船がサンフランシスコにたどり着く夢をみた。
どこまでが本当の記憶か、どこまでが後から父に聞いた記憶か、定かではない。堀江健一がマーメイド号でサンフランシスコに着いたのは1962年で、その頃自分は6歳。ひょっとしたらその頃は横浜から引っ越していたかもしれない。ただ横浜に住んでいて、歩いて山下公園に来ることができたし、父は本牧の米軍キャンプの米軍住宅相手のクリーニング屋を経営していた。海の向こうはアメリカ、サンフランシスコというのは、なんとなく普通の感覚だったのかもしれない。
山下公園に来るといつでもその紙の船のことを思い出す。たぶん自分の最古の記憶の一つかもしれない。古いアルバムを見ると、一家で山下公園で遊ぶ写真が数枚残っている。父が撮った写真なので、写っているのは自分や兄、そして生き別れた母や祖母。でもそうした家族で遊んだ記憶は自分にはない。ただ父と二人で紙の船を流したことだけが薄ぼんやりと、それでいていつまでも忘れない記憶として残っている。
山下公園を後にして今度は中華街に行ってみる。ニューグランドの脇を通ってまっすぐ行くと中華街の東門にぶち当たる。中華街はもうほとんど観光地と化している。そしてウィークデイの夕暮れ時だというのに人も多い。たぶん春休みなんだろう、若い子たちがたくさんいる。中華街なので当然飲食店が多いのだけど、それより目立つのが占いの店とその客引き。歩いていると、今なら待たないよという声がかかる。



十数年ぶりで訪れた中華街で試しに自分が生まれた場所を探してみる。自分が中学生の頃には、住んでいた家、父のやっていた店は跡形もなく、そこは駐車場になっていたのだが。昔は中華街と元町の間の通り沿いだったと記憶しているのだが、中華街は増殖していて、周辺一帯に広がっている。
かっては元町から中村川を越えて少し歩くと中華街という感じだった。そしてその少し歩くあたりに生まれた場所があったはずなのだが、今ではすっかり中華街に飲み込まれてしまっている。地理的には中村川を超えるとそこから中華街が始まっているような感じで、ごちゃごちゃと立ち並ぶ建物の中で、もう生まれた場所を特定するのは難しいみたいだ。
だいぶ歩いてからメインから外れた小さな店で夕食を食べた。大きな店は別にすれば、メインストリートにある店はだいたい均質な味でたいして美味くない。自分が小学生の頃に父がそんなことを言っていたような記憶がある。中華街でそれなりの飯が食えるのは、少し外れた路地にある小汚い店だと、そんなことも言っていたような。父はクリーニング店をやっている頃、そうした店からよく出前をとっていたと、そんなこと聞いた記憶もある。いずれも60年以上前の話だけど。
とりあえず大きな通りから外れて、テーブルが三つあるだけの店に入った。二階もあるらしいが一階はけっこうせまい。そこで上海混ぜそば、チャーハン、小籠包、海老シュウマイなどを注文した。せっかくなので、妻にはビールの中瓶を進めた。まあ中華街に来て飯食べるのだし。自分はもちろんその後車の運転があるのでパスだけど。
出てきた料理はそこそこ美味しかった。特に海老シュウマイはかなりイケた。感覚的にはこれまで食べた中でも五指に入るくらいにイケた。最後にごま団子も頼んだが、これも美味かった。そしてなによりも料金が驚くほど安かった。こういうのが観光地ではない中華街だなと、少しだけ思った。
お店はおかみさんと厨房のだんなさんの二人だけでやっているようだ。もちろん二人とも中国の人のようだ。おかみさんにどこから来たかと聞かれたので、埼玉だと答えると、彼女は昔埼玉にいたと話してくれた。なんでも新座の跡見学園で勉強したとかそんな話だった。自分も実はこのあたり、山下町で生まれた、もっとも60年以上前の話だけどと話したら、目を丸くしていた。


なんとなくだけど、ちょっぴり感傷的な中華街での夕飯になった。もっとも妻には普通の観光地での夕飯でしかないのだが。
その後は山下公園の駐車場に戻り。駐車代は平日最大の2080円だったか。目の前のマリンタワーを見上げる。大昔、マリンタワーは歩いて登ることができた。上まで登ると記念にマリンタワーの形をした定規がもらえた。み~んな大昔の話だ。






























































