
カレンダーが「3月11日」を指すたびに、胸の奥にそっと手を当てるような、独特の静けさを感じます。 あの未曾有の震災から、今日でちょうど15年。早いものですね。時の流れは残酷なほどにスムーズで、気づけば私たちは随分と遠いところまで歩いてきたようです。
5年前の今日、私はこのブログに震災について書きました。
今日は、あの15年前の「日本」という国がどんな景色の中にいたのか、そして今私たちが立っている場所について、とりとめなく書き留めておこうと思います。
1. 鼻のムズムズと、あの日の空気感
今の私は、この時期になると花粉症に悩まされています。今日もティッシュが手放せません。 ふと思い返してみると、15年前のあの震災の時、私はまだ花粉症ではありませんでした。あの冷たくて、どこか埃っぽい風が吹き抜けた午後、鼻水や目のかゆみを気にすることなく、職場で訓練の通りに行動し、そして仕事終わりの街の呑み屋で呆然とテレビに映し出される信じられない光景を眺めていたのです(冒頭写真)。
2. 15年前、日本はどんな「顔」をしていたか
2011年当時の日本を、数字で振り返ってみると今では信じられないような光景が広がっています。 当時はようやくリーマンショックのどん底から這い上がり、回復の兆しが見え始めた局面でした。しかし、街の空気は今の「インフレ」への懸念とは真逆で、しぶといデフレの真っ只中。
失業率は4.7%から5.0%程度と高く、若者の就職難も深刻でした。それでいて、実質GDP成長率は+4.1%という驚異的な伸びを見せていたのです。今の低成長に慣れた目で見ると「そんなに景気が良かったのか」と思ってしまいますが、その実態は非常に危ういものでした。
国内の需要は冷え切っており、成長を支えていたのは、実は「中国向け輸出」の急回復だったのです。 今では米中対立やサプライチェーンの再編が叫ばれていますが、当時はまだ中国が「世界の工場」として、そして「日本の商品の輸出先」として絶対的な存在感を放ち始めていた時期でした。あの震災は、そんな外需頼みの回復に冷や水を浴びせ、サプライチェーンの脆弱さを私たちに突きつけた出来事でもありました。
3. 「日経平均1万円」と「1ドル80円」の世界
投資をされている方なら、当時の相場環境を思い出すと目眩がするかもしれません。 今や日経平均株価は6万円を伺うような水準にありますが、2011年当時は、なんと1万円前後をうろうろしていました。
さらに驚くべきは為替です。当時は超円高の時代で、1ドル=80円前後。 今の1ドル160円に迫る円安とは正反対の世界です。海外旅行に行けば何でも安く感じられましたが、国内の輸出企業は悲鳴を上げ、産業の空洞化が本気で心配されていた時代でした。
あの震災の混乱の中で、日本経済はこの超円高と電力不足、そしてサプライチェーンの寸断という「三重苦」に立ち向かわなければならなかったのです。今のインフレや円安の悩みとはまた違う、重苦しい閉塞感が当時の日本を包んでいたように思われます。
4. 石碑が教えてくれる「忘却」という残酷さ
5年前のブログにも書いたことですが、どうしてももう一度ここに残しておきたいエピソードがあります。
震災後、被災した地域の周辺で、いくつか古い石碑が再発見されました。それらには先人たちの叫びのような言葉が刻まれていました。 「津波が来たら、この場所より上まで逃げなさい」
しかし、その石碑の多くは、近年の長い年月の間に藪の中に埋もれ、人々の記憶から忘れ去られていたといいます。 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、人が忘却してしまうというのは、ある面では辛い記憶を乗り越えて生きるための「自然な防衛本能」なのかもしれません。しかし、その一方で、それはあまりにも残酷なことだと思いませんか。
先人が命をかけて残した警鐘が、ただの「石」に戻ってしまう。その忘却が、再び悲劇を招くきっかけになってしまう。15年という月日は、こうした「教訓の風化」が本格的に始まる危険な時期なのかもしれない。
5. 15年目の今日、私たちができること
15年前、私たちは中国への輸出に頼り、80円の円高に震え、デフレの中で未来を模索していました。そして、花粉症ですらなかった私が、今はこうして鼻をすすりながら過去を振り返っています。
忘却は自然なことですが、抗うこともできます。 先人が遺した石碑を藪から救い出すように、あの日感じたことや、当時の社会のありようを時々思い出すこと。それが、この過酷な15年を生き抜いてきた私たちにできる、せめてもの供養であり、未来への備えなのかもしれません。