
近年、「経済安全保障」という言葉を耳にする機会が増えました。かつては主に軍事や外交の文脈で語られていた安全保障ですが、いまや経済そのものが安全保障の一部である、という認識が広がっているように思われます。
一方でだいぶ以前から「グローバリズム」という言葉が叫ばれてきました。しかし私を含め多くの人はほんとうの意味を知らないままこの言葉を使っていたように思います。
あらためて調べてみると「グローバリズム」とは、
国境を越えた経済・文化・情報の自由な流れを推進し、 世界を一つの大きな市場や社会として捉える考え方・政策・動きのことです。
たまに叫ばれる「人類が一つの世界市民として融合する」という意味は本当は含まれていません。
そこで改めて疑問に思うのは「グローバリズムは本当に絶対正義なのか?」という事です。効率を追求するグローバル経済体制は本当に万能なのだろうか。それとも、見落としてきたリスクがあるのでしょうか。
グローバリズムの基本に経済学の「比較優位」という考え方がありますが、「経済安全保障」の観点から考え直すと、必ずしも正義とは言えないように思いました。
比較優位という強力な理論
グローバリズムの理論的な基礎には、19世紀の経済学者 デヴィッド・リカード の「比較優位論」があります。
これは非常にシンプルで説得力のある理論です。各国が得意分野に特化し、不得意分野は他国から輸入する。そうすれば、世界全体の生産量は増え、すべての国が豊かになる、という考え方です。
冷戦後、この理論は事実上の世界標準となりました。世界貿易機関(WTO)の枠組みのもとで関税は引き下げられ、サプライチェーンは国境を越えて再編されました。
日本は自動車や精密機器で強みを発揮し、アジアは製造拠点として発展し、資源国はエネルギー供給で存在感を高めました。全体として世界経済は拡大し、消費者は安価で多様な商品を手に入れられるようになったのです。
この流れを見ると、グローバリズムは確かに成功だったと言えるでしょう。
依存は「効率」か、それとも「弱点」か
しかし、ここで一つの問いが生まれます。
「依存関係は本当に常にプラスなのか?」
平時においては、国際分業は効率的です。ですが、有事においてはどうでしょうか。
たとえばエネルギーです。日本は資源の大半を輸入に頼っています。中東情勢が不安定化すれば、国内経済は直撃を受ける構造です。欧州もまた、ロシア産天然ガスへの依存の大きさを、ロシア のウクライナ侵攻後に痛感しました。
また、先端半導体の製造は台湾企業、とりわけ TSMC に集中しています。台湾海峡の緊張は、そのまま世界経済のリスクとなります。
さらに、コロナ禍では医療用マスクや医薬品原料の供給が滞り、多くの国が「自国生産能力」の重要性を再認識しました。
こうした事例は、依存関係が平時には効率でも、有事には脆弱性になり得ることを示していると思われます。
経済はすでに「武器」になっている
冷戦後の世界では、「経済的相互依存が戦争を抑止する」という楽観的な見方が広がりました。しかし現実は、やや違う方向に進んでいるようです。
米中対立の激化、技術輸出規制、経済制裁の応酬などを見ると、経済はすでに安全保障の主要な手段となっています。資源や技術、金融アクセスが交渉カードとして使われる時代です。
依存は、信頼関係が前提にあって初めて機能する仕組みです。その前提が崩れたとき、依存は圧力手段へと変わります。
この意味で、グローバリズムは「政治的に中立な仕組み」ではないと言えるでしょう。経済と安全保障は、もはや切り離せない関係にあると思われます。
自給自足は現実的か?
では、グローバリズムをやめて全面的な自給自足に戻るべきなのでしょうか。
それもまた現実的ではないでしょう。すべてを国内で賄おうとすれば、コストは上昇し、技術競争力も低下する可能性があります。市場の縮小はイノベーションを鈍らせるかもしれません。
重要なのは「効率」と「冗長性」のバランスだと思われます。
供給の一点集中は効率を最大化する一方で、ショック耐性を弱めますので、適度な分散が安心です。
高市政権になってレアアースの分散調達に動いたり、米国への新たな投資として原油輸出インフラに事業規模約21億ドルの投資を行い、中東に偏重していた原油を米国からも調達できるように動いています。
これはグローバリズムの否定ではなく、修正と再設計と捉えるべきでしょう。
絶対正義ではないが、全面否定でもない
結論として、グローバリズムは絶対正義ではないと思われます。しかし同時に、全面的に否定すべきものでもないでしょう。
グローバリズムという聞き心地の良い言葉に加え「世界市民として融合」などという夢物語が政治家から喧伝されていますが、こういう話には惑わされないようにしなければなりませんね。