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「東スポ理論」が他人事でなくなった日 [No.2026-014]

 

――主要紙に広がる“信頼低下という静かな病”―― 


東スポ理論とは何だったのか

東スポ理論」という言葉があります(もう”ありました”になっているかも?)。


東京スポーツ新聞の記事は、事実性よりも話題性を優先しており、読者もそれを理解した上で読んでいる。したがって、多少の誇張や飛躍があっても、東スポだからまあいいか」で済まされる、という考え方です。

実際に東京地裁でそのような判決(平成4年9月24日)があったくらいですからね(その後東京高裁で逆転判決)。

 

この理屈が成立していた理由は、実にシンプルでしょう。
東スポは最初から「そういう新聞」だったからです。UFO、超能力、陰謀論が紙面を飾っても、誰も本気で抗議しません。むしろ、そこまで含めて娯楽として成立していました。記者と読者の間には暗黙の”共犯関係”があったわけです。

 

問題は、この「東スポ理論」が、いつの間にか別の場所で使われ始めていることです。

 


主要紙も「結論ありき」になっていないか

最近の朝日新聞毎日新聞など、いわゆる主要紙の記事を読んでいると、どこか既視感を覚えることがあります。

 

記事を読み進めるうちに、「あ、もう結論は決まっているな」と感じる瞬間が増えたのではないでしょうか。

 

政治、安全保障、エネルギー政策などの分野では特に顕著です。
「懸念」「危険」「批判が高まっている」「関係者によると」という表現が並び、その一方で、反対側のデータや専門家の意見は控えめ、もしくは申し訳程度に添えられる。事実そのものが嘘とは言えませんが、全体としては非常に“親切な誘導”が施されている印象です。

これを読んだ読者がどう感じるかと言えば、「なるほど」ではなく、「ああ、またこのパターンか」という反応ではないでしょうか。

 


「朝日だから仕方ないね」という新しい読まれ方

かつて主要紙は、「信用できるかどうか」を議論される存在でした。
しかし今ではネットニュースやSNSから情報を得ている人が普通で、主要紙に対して「まあ、朝日だからそう書くでしょう」「毎日ならこの角度になりますよね」という、ある種の達観した受け止め方が広がっているように思われます。

 

これは怒りでも批判でもありません。もっと静かで、もっと深刻な反応です。
要するに、真剣に相手をしなくなった、ということです。

 

東スポの記事を読んで本気で怒る人がいないのと同じ構図でしょう。
「どうせそういう新聞だし」という前提が共有された瞬間、そこには信頼も期待も存在しません。ただの“そういう読み物”になるだけです。

主要紙がこの領域に足を踏み入れているとすれば、それはなかなか危険な兆候ではないでしょうか。

 

と書いていたらちょうどいい記事が、SNSで燃えていました。

dot.asahi.com

この記事の2ページには以下のように書かれています。

一方で、公明党参院議員A氏はこう言ってほくそ笑む。

「正直、うちはうまくやった。小選挙区は擁立しないが、組織票がある比例で優遇してくれという交渉をうまくやった。それでなきゃ4議席も増えない。小が大を飲み込んで、利を得た」

しかし公明党が同党参議院議員21人全員に聞き込みをした結果、朝日(AERA)から取材を受けた人はいなかったとの事です。

 

ここでおもしろいのは、今までであれば新聞社と政治家のどちらが疑わしいか?に対して国民は「政治家のほうが疑わしい」と考える事のほうが多かったのに、今回は「やっぱ朝日だからなぁ」という感じのポストがXに溢れているのです。

 

この記事の事件では、主要新聞が東スポ化している事を証明したようになってしまいました。

 

もちろん、どちらが嘘をついているのか?真実はわかりません。

 


東スポは自覚的、主要紙は無自覚

ここで少し意地の悪い比較をしてみます。


東スポは、自分たちが東スポであることをよく理解しています。だから、真顔で社会の指針を示そうとはしません。

 

一方、主要紙はどうでしょうか。

実際の紙面はかなり主張的でありながら、建前としては「中立・公正・事実重視」を掲げ続けています。このズレが、読者に妙な違和感を与えているように思われます。

結果として、「あの記事は事実なのか、それとも思想なのか」という疑念が生まれます。そして疑念が一度生まれたメディアは、もう以前のようには読まれません。

 

皮肉なことに、東スポ理論は本来、東スポを守るための理屈でした。
しかし今、それは主要紙の存在価値を静かに削る刃になりつつあるようです。

 


信頼を失うのは、一瞬ではない

新聞の発行部数が減り続けている理由は、紙媒体の衰退だけではないでしょう。
「信じなくてもいいもの」に、なぜお金を払うのか。この問いに、主要紙は十分に答えられていないように見えます。

 

読者はもう騒ぎません。抗議もしません。ただ距離を取るだけです。

そして気づいた時には、「主要紙だから」という前提そのものが消えている。これはかなり取り返しのつかない状態ではないでしょうか。

 

私自身、もう随分前に主要紙の購読はやめました。今は地元の長野日報だけにして、見る(ほとんど読まない)のは地元の事件事故、山岳遭難、おくやみ欄とテレビ番組だけですもん。

総合病院がすぐ近くなので、
”昨日のあのヘリの音はやはり西駒の遭難だったかぁ”という感じ。

 

東スポ理論が必要とされる新聞が増えているとすれば、それは新聞が東スポ化しているのではなく、東スポだけが最後まで自分の役割を理解していた、という話なのかもしれませんね。


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