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受け手としてコンテンツを楽しむ能力が低いと感じるのは何故か

9/3(水) から 9/5(金) にかけて北海道科学大学にて開催されている,情報科学フォーラム2025(FIT2025) に来ています.
www.ipsj.or.jp  
情報処理学会の会誌編集委員を受けているので,こういった全国大会的なイベントに足を運ぶようにしています.自分自身も技術系の勉強会やカンファレンスを開くので,イベントする側や知見の流通を設計する側として勉強になることもたくさんあります.
 
ただ,どうしてもうまいこと会の設計に乗り切れていない気がしています.自分自身の振る舞いも込みでどうにかならんかなぁと...... これは,学会に関連するイベントすべてで思っていることで,技術カンファレンスではあまり感じない感情です.
 
きちんと書いておきますが,興味のある講演を聞きにいくとそのときは楽しいです.ですから,何か自分の方に小さな問題があって,しゃきっとしていないだけ説が濃厚です.
 

ひっかかりのない会はどういう会か

技術系のカンファレンスであれば,あまり湧き出てこない感情だとは書きましたが,度合いの問題でないわけではありません.セッションを聞いて帰るだけの会や,懇親会まで行き切ったとしても運営や登壇をしていないときに,中途半端な気持ちになります.

 
つまりは運営か登壇かをやれば満足できるんだろうと感じます.振り返ってみると,ただ参加者として行く会は軒並み,もう一歩満喫できたんじゃないかな?の気持ちで帰ることが多いです.
 
その点においては,各地の PHP カンファレンスで突然の人で不足で駆り出されるのは,ぼくにとっては救いの一手にほかならないのでは......? という気付きがあります(薄々そんな気はしていましたが).
 

なぜ参加者だと楽しめないのか

勉強会も研究会もどちらもある知見を聞いて帰ってくるのがねらいです.セッションに満足すればそれでいいだろうという気持ちですが,何が足りないんでしょうか.
 

中心たる当事者であることを感じにくい?

簡単にいうと "お客さん" になってしまっている感覚です.特に学会系は,自分が研究者ではないため,会誌編集委員のお仕事がない限り,本当にただ聴きに来ただけの人になりがちです.
 
運営であれば良い場に対するコミットメント,登壇であれば良い学びに対するコミットメントを明確に打ち出せます.一方で,いち参加者ではどうしても前述の二者より,学びの場に対するコミットメントが薄くなりがちです.なんなら当日のコミットメントがゼロもありえます.
 
これが満喫できなかった...... の根本にありそうです.
 
ふりかえると,お祭り,コンサート,ライブ,最近だと懇親会で DJ イベントとかありますが,この類に行くのがとにかく苦手です.この苦手意識は先の感情と同じ括りにいるように感じています(単純にデカい音がずっと鳴ってると体調が悪くなるのもありますが......).
 
もっと雑に書くと「楽しんでるか―――い!!??!?!?」のコールがふさわしいとされている場に,いち参加者として存在するのは難しいです.
 

サービス享受能力が低い?

一方的に受け取る能力が低いがために,発信する側じゃないと落ち着かない性も影響していそうです.
 
勉強会やカンファレンスの運営は息をするようにできても,参加するだけなら行きたくないかも...... みたいな気持ちが湧いてきます.どう考えても主催か運営か登壇がいいです.
 
ただ思い返すと,YouTubePodcast のようなコンテンツやサービスは人間を介さず,ひとりで享受できるため,割とストレスフリーです.人間がいなければ満喫できる......!?
 
もしかすると,チームプレーが苦手なだけなのかも......? ライブなんかは "みんなが" 楽しめているかの問いかけが発生する関係で,自分も楽しめてないといけない......! みたいな圧があるように感じています.「楽しかった!?」には「楽しかった!!」以外の回答なくないですか?
 
その点,技術カンファレンスや学会の全国大会はセッション数がそれなりにあり,ずっと聞いていればどこかの話がハマります.それをもって "この会を満喫した" とできるから,マシと感じているのかもしれません.
 

贈与と地位の競争についての研究を思い出した

www.c.u-tokyo.ac.jp  
だいぶ前に「贈与論」を知った際に,技術系コミュニティと何らか関係する要素はないかなとちょこちょこ調べていました.上記の研究報告はそのときに目にしたものです.
 
この研究のベースになる「競覇的贈与」が非常に興味深い概念で,そして,今回の "受け手としてコンテンツを楽しむ能力が低いと感じる" 要因の一部をかすっているように思えてならず,改めて軽く調べ直しました.
 

与えることによる地位の誇示

自分なりの理解で先の研究で触れられている概念について,再度書き表します.
 
めちゃくちゃ極端に書くと「モノに執着しておらず,また他者を気遣うだけのおおらかさがあることを,贈与の行為を通じて誰の目にも明らかな状態を作り,人としての器の大きさを誇示する.」ことだと読み取りました.
 
特に過去の事例で有名な文化は「ポトラッチ」という儀式で,慶事等をトリガーに贈り物を行い,受け取った側はより豪華な返礼品を用意して贈り返す,これを繰り返していき,お互いの "強さ" を示す儀式だったようです.
 
この儀式は行き過ぎた結果,与えるモノの豪勢さには限界があるため,より豪華なものを破壊することで,相手側からみた自身の資産価値を下げて,人としての器の大きさを示すようになったようです.当然このシステムは破綻しました.
 

贈与の義務

Wikipedia - 贈与論 に書かれている文章を一旦そのまま持ってきます.
 

  1. 与える義務:与えるのを拒んだり、招待をしないのは、戦いを宣するに等しい。ヨーロッパの伝承にもあるように、招待を忘れると致命的な結果となる。
  2. 受け取る義務:贈り物を受け取らなかったり、結婚によって連盟関係を取り結ばない、といったことはできない。受け取りを拒むのは、返礼を恐れているのを表明することにもつながる。
  3. 返礼の義務:この義務を果たさないと、権威や社会的な地位を失う。権威や社会的地位が財や富に直結する社会では、返礼が激しい競争をもたらす場合がある。

 
地位と贈与が結びついた結果,ひとたび何かを受け取ったら,終わりのない戦いに身を投じることになり,一生自分の持っている価値を相対的に下げ続け,いずれは絶対的に下げなければいけない日が来るのかも...... おそろしい.
 

実は受け取りたくない説が浮上

自分はてっきりコンテンツを満喫する,受け手としての技能に問題があり,そこを探っていけばこの感情は解消すると思っていたものの,なんと実は "そもそも受け取りたくない" なんなら "受け取ったことをバレたくない" とまで考えている可能性がでてきました.
 
初手の "与える側" だとめちゃくちゃ楽だと理解しているのでしょう.勝負を挑むにしてもゼロから自分のペースで仕掛けるわけだし,勝負のつもりがなかったとしてもお返しを固辞することで,恩贈りの逃げ切りが可能になる.非常に都合のいい立場であることを理解しているのだと気づかされました.
 
物理,非物理に関わらず,人を介したモノのやりとりに "借り" を感じていて,それを返さないといけない "圧" を回避するために,そもそも受け取らない選択をしたい...... そう思うと合点がいくような気がします.
 
加えて,チームプレーが苦手とか,感情を表に出すのが苦手とか,そういうスキルや特性の面が組み合わさった結果「集団あるいは対面で享受するコンテンツを苦手と感じ,運営等の与える側に回ることで競覇的贈与の先制攻撃側に立てるため安心する」みたいなからくりがありそうです.
 
とか言いながら,単純に自分がいろんなことに手を出したいだけで,自分が作る側に関われていないことにジェラシーを感じているだけなのかもしれませんがね👀
 

いろいろ書きましたが

こんな理屈を後から付けていますが,大体の人には「苦手なんですよね,そういうの」以外の説明は必要ないようにと思います.別にぼくに興味もないだろうし.ただ,好きだと感じているものを共有できないと,ほんのり傷つく人がいることも理解はしています.
 
だからこそ,どういうメカニズムで苦手と感じているのかを知る必要がありました.コンテンツ自体に問題があるわけではなくて,単純に相性の問題であったり,興味の方向性の違いだったりと,コンテンツに矢が刺さることを回避できたらと思い,考えていました.
 
また,カンファレンス作る側としては,こういう頭の体操をしておくと,アンケートを読み解く際の解像感を高めることもできそうです.よくない方向に伸びちゃうと,邪推とか楽観につながるのでそういった誤謬に陥らないようにしつつ,参加者の背景についても知っていきたいですね.
 




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