5月の初めに、富山県富山市八尾町の「越中八尾曳山祭」へ行ってきましたよ。八尾町は以前「おわら風の盆」を見に来たことがありますが、衝撃的なのは「あれがもう9年も前のことだった」という事実です。
前回はいろいろな場所を歩き回りましたが、管理人も9歳も年を取りましたので…今回のテーマは「老体に鞭打つ旅」ですね!(テーマではないだろ…)
なお、例に漏れず長いので目次から気になった部分だけつまんでいってくだされ。
※今回は雨で提灯山は中止だったので、提灯山の画像などはありません。ご了承ください。
- 越中八尾曳山祭とは?
- 老体鞭打ちポイント①前日入り
- 老体鞭打ちポイント②太鼓の音めがけて1.4km走る
- 鏡獅子舞
- 八尾八幡社について
- 富山と曳山
- 鏡獅子、家々をまわる
- 曳山が角を曲がる
- 老体鞭打ちポイント③暑さのなか2.6km先の図書館へ
- 八尾と曳山
- 「曳山祭り」は当日だけではない
- 余談:まだあった「老体鞭打ちポイント」
- 参考図書
越中八尾曳山祭とは?
富山県富山市八尾町で毎年5月3日に行われる春季祭礼「越中八尾曳山祭」は、絢爛豪華な曳山(ひきやま)を町中で曳き回す“曳山神事”が見どころの祭り。
八尾町の産土神(うぶすながみ)である八尾八幡社の春季例祭の神事として始まったとされるこの行事。見事な彫刻で飾られた曳山は、かつて八尾の町が“富山藩の御納戸”として栄え、町人たちが豊かな文化を作り上げた証ともいえる。
詳細や公式のお知らせなどは越中八尾観光協会ホームページ↓などもご確認いただければと思う。
老体鞭打ちポイント①前日入り
今回は神輿と曳山を先導し露払いをする「鏡獅子」をゆっくり見たい!というわけで、富山駅に前日入りして始発あたりで八尾に向かうこととした。
でもほら、ゴールデンウィークですから。週の頭ごろに「そういえば今週末、曳山祭りだっけ」と気づいた奴が泊まる場所なんて残ってないわけです。
そんなわけで、数年ぶりにカラオケに一泊。そしたら、寒いんですよ。群馬にいる時点で雨に降られたから富山は雨なんて降ってないのに服濡れてるし。で、もうカラオケは冷房の季節だから「部屋を暖める」という選択肢はなくて、とりあえず空調を止めて震えている始末。
さらには「陽キャたちって、ほんとにカラオケで深夜までタンバリン振り続けて叫びまくってるんだな……」と遠い目になるほど隣の部屋が盛り上がっていて寝れない。いや、いいんです。そっちの使い方が正解です。カラオケですから……。
そんなわけで、寝心地良くないので翌朝の始発にも余裕で間に合いました。では、さっそく越中八尾へ。
老体鞭打ちポイント②太鼓の音めがけて1.4km走る
富山駅から越中八尾駅へ行くには、1番線と3番線のホームを進んでいくと、その先に越中八尾につながる2番線がある。毎度思うが、なんとなくハリー・ポッターの9と4分の3番線ぽくてイイ。
ちなみに、高山本線はワンマンなのでボタン式なうえに降りるドアと乗るドアがあって、さらに富山駅の改札は交通系ICをピッで入れるけど、結局越中八尾では交通系ICでの支払いはできないので最初から紙の切符を買うのが正解…という初見殺しコンボ。ワンマンに馴染みがない人は気を付けてくだされ。

さて、こうして越中八尾駅に到着。祭りをやっている地域までは1.4kmほどあるが、駅を出るとかすかに、太鼓を感じる。「音としてははっきり聞こえないけど、定期的に空気が震えるこの感じはたぶん太鼓」という我ながらわけのわからない感覚。
実は、曳山神事の当日は夜が明けるか明けないかのうちから「触れ太鼓」が鳴り響くので、地域の方は直接曳山や獅子に関わる人以外も起きている(起こされている?)という話だ。
しかし、もうそんな時間はとうに過ぎている。ならば、これはすでに獅子舞が動き始めている太鼓なのでは!こうして、普段数メートルしか走ることのない管理人は約1.4kmを焦って駆け抜けるのだった…。
鏡獅子舞
到着したころには不整脈が出そうなレベルでくたびれたものの、ちょうど産土神・八幡社の境内に獅子が入っていくところだった。
この軽やかな曲に乗せたステップを踏むような動きは「乗り込み」といって、演目というより神社などに入っていくときだけ行う動きだそうだ。
公式サイトでは行事の流れの一番最初に「聞名寺前での獅子舞奉納は7:55」と書かれていたので油断していたが、その1時間ほど前に八幡社に立ち寄ってから聞名寺へ行くということらしい。
うん、まぁそうだよね。八幡社の祭礼として始まったというのだから、最初に八幡社で何かしら無いとおかしいのではとは思っていたが、ちゃんとあった。一安心。
拝殿前に着いた獅子たち(雄雌の2匹)は、そろって拝殿前で舞うのでなく一頭は社殿の向かって左にある神輿庫(の中にある神輿)、もう一頭が拝殿に向かって演目を披露しているようだった。
そして拝殿の中にほとんどの人が入っていくが…ア゛ッ!朝日が神々しすぎて、拝殿内で何をしているのか全然見えない…!

おそらく、お祓いなどを受けたり神前で奉納しているものと思われる…。ちょっと時間がありそうなので、境内にある神社の由来などを見てみようと思う。
八尾八幡社について
手水鉢の後ろに八幡社の由来が書いてあったが、読んでみると…
当八幡社は誉田別尊(応神天皇)を祭神とし、葛城宮司の祖ト丸正位が天平年間(約1250年前)に金剛蔵王権現を勧請したのが始まりといわれる。
天正四年(1576)八尾町発祥の地といわれる現在地に社殿を建て天保2年(1645)八尾産土神瀧谷神社(祭神聖徳太子)及び瀬戸山蓮勝院を合併し八尾総社として尊崇され、大正13年郷社に列せられた。
現社殿は、天明元年(1781)に再建されたものである。
昭和57年には、旧小谷部落の牛獄社(祭神大国主命)をも合併した。
最初から混乱してしまいそうな話だが、おそらく、一番最初に書かれている「祭神は誉田別尊(応神天皇)」という話は“現在の話”と思われる。
そこに至るまでの経緯として、まず金剛蔵王権現の勧請がこの八幡社の始まり。ただ、この時は現在地にはなくて、そのあと現在地に来て、合祀などがいろいろあり今に至る。ということらしい。
しかし、この話ではいつから八幡社なのかよくわからないので『富山県神社誌』読んでみた。すると、事の始まりは金剛堂山に勧請した金剛蔵王権現と聖徳太子像を尊崇したことだという。
(金剛堂山とは、八尾の町から北へ30kmほど行ったところにあり、修験道が盛んだったといわれる山だ)
そして、永禄6年(1563)領主・斎藤長門守が瀬戸山の現社地を寄進したことで現在地に移動することになったようだ。そこから、聖徳太子は八尾の産土神としてあがめられているらしい。
もちろん、詳しく書いてあるほうが史実に近いとは言い切れないが、少なくとも「どう伝わっているか」に関しては解像度が上がった気がする。
個人的には聖徳太子が産土神というのは珍しい気がするが、北陸もしくは修験道と関わり深い土地では結構あるのだろうか。
富山と曳山
そうこうしているうちに獅子が聞名寺へ向かう。先にお寺のほうへ行って、少し境内の様子を見てこようと思う。
聞名寺といえば、おわら風の盆で「自分の背が低くて、道で踊っているのはなかなか見えない!」と彷徨っていたら聞名寺さんの本堂向拝を舞台のようにしておわらを踊っていて管理人はゆっくり美しい踊りを見ることができたのだった。
その時はとても広く感じた参道だが、到着してみると所狭しと曳山が並んで出店ギリギリまで迫っている。

「曳山(ひきやま)」とは華やかに飾り付けた出し物で、人が担いだり曳いたりするもの。祭りでは神をかたどる人形や造りものを最上部に飾って祭礼に関わる神社の氏子地域などを曳きまわすことが多い。
地域によって「曳山」のほか山車(だし)、鉾、屋台または単に「山」と呼ぶこともある(地域だけでなく「これが付いていたら山、こういうのは鉾」と同じ地域内でも区別されていることもある)
『とやまの曳山 富山県の築山・曳山・行燈行事』によると、富山県は全国的にも曳山行事が多く残っている地域のひとつだという。
始まりは、江戸時代の前期に始まった「高岡車山祭」の影響。江戸時代中期には地域の産業や北前船交易などで潤った地域で曳山行事が行われるようになり、それから明治時代初期にかけて周辺地域にも曳山行事が広まったと考えられている。
ちなみに、同資料によると富山県内の山は、下記の図のように大きく「花山型」と「屋台型」に分けられるらしい。

花山型とは上部構造には長さを立てて人形を飾るもの(高岡御車山祭など)で、屋台型は上部構造が破風屋根で同じく人形を飾ったもの(城端神明宮祭の曳山行事など)。八尾の曳山は、この分類でいうと屋台型だろうか。
図には曳山以外に築山・行燈も入れてみたが、築山とは設置したらその場から動かさないもの(二上射水神社・放生津八幡宮など)で曳山の原初的な形態ともいわれているそうだ。
また、見た目にもインパクトがあるためテレビで見たことがある人もいるかもしれないが行燈とは基台に行燈を設置して動かすもの。
行燈は南砺を中心に行われ、基台に色とりどりの大きな行灯を付けて練り歩く「夜高型」と、筏状の基台に提灯をたくさんつける魚津周辺の「タテモン型」がある。
どうやら、大まかにだが曳山は春・秋の祭り、行燈は夏にみられることが多いらしい。また、夜高型は田祭り、タテモン型は海の神を迎える行事を軸に広まったという。
鏡獅子、家々をまわる

聞名寺に曳山が集まったのち、聞名寺前でさきほどの鏡獅子が舞う。もっと境内まで入ってくるのかと予想していたが、敷地には入らず門前で舞ったらあっさりと次の場所へという感じだった。
そのあとも、鏡獅子は個人宅や公民館をまわり演目を披露していく。現在もそうなのかはわからないが『鏡町のあゆみ』を読んでみると演目の種類はお花(その家の人から渡されたお金)の金額によって変わるらしい。
こちらは、おそらく「本神楽」という演目。寝獅子とも呼ばれ、御幣を持った子どもが眠っている獅子を叩いて起こす様子を演じたものだ。
同書には、現在演じられているのは「曲」「神楽」「本神楽」「蛇」の4つだが昔はもう一つ「オロロ」という演目があったと書かれていた。
ちなみに、周辺の地域を見てみると今も「オロロ」という演目が残っている地域は複数あるので、おそらく内容は似ているのではないかと想像する。
なお、八尾にはいくつかの獅子頭が残っていて、開発の過程で室牧ダムに沈むことになった集落から譲り受けたり買い取ったりしたものもあるそうだ。
(『八尾の獅子』によると仁歩地区にあった小谷集落で守護獅子として購入されたものが東町へ、土玉生の獅子舞道具一式が下新町へ渡ったとのこと)
獅子舞について回りながら町を歩いていると、各家の戸口などに飾りを付けた松があった。下の画像は提灯のほうが目立ってしまっているが、この覆いの天井(?)にも松がついている。

後で調べたら、これは「祭りの松」などと呼ばれるもので、曳山祭りの神様を迎えるための神籬(ひもろぎ)ということらしい。
曳山が角を曲がる
今回は主に獅子を見に来たとはいえ、管理人は鉾や山車・曳山というものがとても好きなので、近くで見たい。特に見たいのは、曳山が町のあちこちで「角を曲がる」ときの動き。
祭りによっては自動車のように車輪に操舵機構が付いていて、車軸に対して車輪が自在に動くものもあるが…多くの鉾や曳山には、そうした機能がない。車軸が車輪の中央部を貫き、基本的には直進しかできない感じの造りになっていることが多い。
しかし、巡行するからには直進だけというわけにはいかないので曲がる。曲がる方法には、路面と車輪のあいだに竹などを挟んで摩擦を減らす・揺らして小刻みに車輪を路面から浮かす・梃子で持ち上げるなど地域ごとにいろいろな方法がある。
そして、越中八尾の曳山はというと…こんな感じで曲がる!
天守閣のような豪奢な曳山が、柱を揺らして動き、切り返すように後退してくると見事な彫刻が目の前に迫る。
なお、曳き始めるときなどに聞こえる変わった掛け声は「ほーりきの、みっつの、よーかんぼー!」と言っているとのことだが意味は伝わっていないという。
老体鞭打ちポイント③暑さのなか2.6km先の図書館へ
このブログを以前から読んでいる人であれば「なんだ、2.6kmくらい管理人は普段から歩いてるじゃない」と思うかもしれないが、最初に書き始めてからもはや10年ほどは経っているのだ。管理人の体力も落ちている。しかも、昨日の雨が嘘のように太陽が照り付けて非常に暑かったのである。
そうして到着してみると、「富山市立八尾図書館ほんの森」は非常によい場所だった。学校と隣り合い、ホールも一体化していて、その2階に図書館がある。しかも、郷土資料と子どもの本が近くに並んでいる感じの配置も好き。
そんなわけで、涼しい場所で椅子に座り、資料を読みつつ身体を休ませるという贅沢な過ごし方をしてきた。今回、参考にしている本はすべてここで読ませてもらったものだ。
八尾と曳山
先ほどは富山全体の曳山について触れたが、八尾の町と曳山が歩んできた歴史についても知っておきたい。ということで『越中八尾歴史物語』『八尾曳山史[前編]』を手に取る。
これによると、そもそも八尾の町そのものが町建てされたのは寛永13年(1636年)。
このとき町建てを行った人物が1690年に外山藩主から業平人形を賜り、これを1741年から上新町が花車に乗せて曳行。これが越中八尾曳山祭りの原型ということらしい。
なお、当時の八尾は特産品である和紙が「富山の薬売り」の薬袋の材料として指定されたことなどもあり経済的にも潤っていたようだ。
さらにそのあと、1770年からは諏訪町が余興として獅子舞をはじめ、1795年ごろから井波彫刻を使用した装飾が始まるなど現在の状態に徐々に近づいてきた。
各町が曳山を持つようになると、天保年間や明治時代などには「曳山改良競争」ともいえる様相を呈し、各町の曳山はどんどん豪華なものになっていったらしい。
当時から昼は絢爛な彫刻を付け、夜は彫刻を外して提灯で飾る「提灯山」も行われていた記録はあるらしいが、戦時中となる1942年(昭和17年)には灯火管制により提灯山が一時禁止となるなど時代により提灯山は行ったり行わなかったりしたと思われる。
1963(昭和38年)には提灯を豆電球にする試みなども始まったが、ろうそくに火を灯せば光る提灯に比べるとバッテリーの分だけ曳山が重くなるため多くの試行錯誤があったらしい。さらに現在では豆電球からLEDになっていたりと伝統行事も時代に合わせて変化していっているのがわかる。
ちなみに、「提灯山の様子が載っているのでは」と期待して読んでいる人がいたら申し訳ないので言っておくと、今回は夕方から雨の予報が出たため彫刻から提灯への付け替えは急遽中止。
彫刻を外すところまでは見られたが、提灯が付いている様子は見られなかったのである。最近、日常生活では「お。私も雨女を脱したか」と思っていたが、祭りともなると本領が発揮されるようだ(涙)
新久婦須橋付近で、付け替え用に準備された提灯だけ見られたので画像を載せておく。

いや、これが付いた姿も見たかった…これは、リベンジするしかないですな。前橋から意外と近かったし。※管理人の感覚です
「曳山祭り」は当日だけではない
ほかの地域の多くの祭礼もそうであるように、観光客が来て曳山が町をめぐる当日だけが祭りというわけではない。
4月27日には「修祓式(しゅばつしき)」と、各町のお囃子が一堂に会して互いに鑑賞する「囃子鑑賞会」が行われ、安全を祈願する。曳行の安全を祈願する行事はもともと各町で独自に行われていたようだが、1994年に祭礼日が5/3に変更されるとともに各町が合同で行うようになったそうだ。
本番が近づくと山蔵に収納されていた曳山が組み立てられ、5月1日には調曳(チョウビキ)という試し曳きをする。なお、昭和ごろの記録では「町曳き」や「試曳き」といった呼称もみられるので時期によって(もしくは町によって?)違うらしい。
そして曳山祭の前日には、曳山に乗せる人形(御神体)に神様を迎える「神迎え」として各町の公民館などで神前囃子などを行う。逆に、曳山祭が終わった後は人形の顔に幕をかけたり神社で「神送り」をしてからしまう。
また「山行き」と呼ばれるものがあり、これは直会(なおらい)のような感じらしい。実際に城ヶ山(町の南東にある山で、戦後からは公園にもなっている)に上がる町もあれば公民館で行う町もあると書かれていたが、この記録自体が20年近く昔のものなので現在どうなのかは不明。
神事としてはここで一区切りというところではあるが夏には囃子練習を行い、曳山に乗せる神様に対しても秋の例祭(お神酒やふくらぎを供える)や年末年始(山蔵掃除・しめ縄飾りをする)など節目節目で町ごとに行事をするそうだ。
こうしてみると、5月3日の曳山祭というものが最も華やかではあるけれど、これが核心部というよりは、いつも地域の中で大切にされているものを外から来た私たちが拝める機会なのだなとあらためて思うのだった。
余談:まだあった「老体鞭打ちポイント」
管理人は提灯山をある程度見てから(八尾はあまり泊れるところがないので)富山駅のほうまで帰ってもう一泊するつもりだったが、提灯山が中止になったことで「この時間ならまだ群馬に帰れるのでは?帰って休みたい」という欲が出た。
しかし、歩いたら間に合わなそうなので朝方にダッシュした1.4kmを再びダッシュすることに。1日中歩き続けた脚は朝より弱っており、ガタガタなバンビモードで越中八尾駅にたどり着いた管理人は無事、駅の階段で派手にコケたのだった。
オチも付いたところで、今回はこの辺で(・ω・)ノシ
「もはや季刊なのか」というレベルで更新頻度が低いですが、よろしければまたお付き合いください。
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参考図書
今回、お世話になった本たちです。
「越中八尾歴史物語」成瀬 昌示/出版:婦南新聞社, 1960
「越中八尾曳山」八尾町曳山保存会・曳山史編纂委員会/著作・製作, 2008.8
「行事に見る八尾の曳山 」八尾町曳山保存会・曳山史編纂委員, 2016.3
「越中八尾の獅子舞」八尾町婦人ボランティア講座 1994.3
「八尾曳山史 [前編] 」橋爪 辰男, 1965
「八尾の曳山祭」富山大学人文学部文化人類学研究室/編 , 1981.7
「八尾曳山について」八尾中学校/編 ほか, 1985.12
「修繕に見る八尾の曳山 」越中八尾曳山保存会/編, 2017.3
「提灯山の考察」宮田耕平, 2015.10
「曳山車輪の話あれこれ」宮田耕平, 2016.12
「とやまの曳山 富山県の築山・曳山・行燈行事」とやまの文化遺産魅力発信事業実行委員会
「鏡町のあゆみ」鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会/編, 2005.3
「八尾の獅子」嘉藤稔, 2015.1