皆さん、なんと4月になってしまいました。風邪をひいて外出できない時こそ下書きに溜まった記事の消化を…。
ということで、諏訪湖畔の寺社について記憶を発掘するインドアな年度始めとなります。(とか言っていたらパソコンの不調でさらに更新遅れた)
*甲立寺(こうりゅうじ)*
岩手やら鹿踊りの記事を挟んだのでちょっと脳みそが諏訪モードから離れてしまったが…。
前々々回(前前前世みたいに言うな)は
八剣神社の祭神や神社名を燃料に だいぶ妄想が捗った。→http://tomanosu.hatenablog.com/entry/2018/02/17/000000
その八剱神社と同じブロック(というか隣)に、八剱山・甲立寺 というお寺さんがある。
どうやら木造の愛染明王坐像が有名らしく、山門に「市指定有形文化財」的な張り紙がある。が、その愛染明王は あくまで「脇侍」という扱いであって現在 ここの御本尊様は十一面観音なのだそうだ。
※後で調べてみたら、さらに昔は本尊:大日如来だったという情報が。当時、愛染&十一面には各々御堂が与えられ本堂には居なかったらしい。
あとで考えてみると十一面観音といえば水難・水害除けの願いを込めて建てられることも多い。
つまり水とはとてもつながりの深い菩薩サマなのだが、訪れている最中は 八剱神社-甲立寺-水が上手くつながらず。
足長神社(山側)から散々歩いて甲立寺に至り、また街中にある寺院で直接湖が見えなかったせいもあり、諏訪湖との位置関係がイマイチつかめていなかったようである。
現地にいる時は極々単純に「鏝(こて)塚」なんてあるんだ~。包丁とか針はよく見るけど日本人は本当に塚が好きだな!左官屋さんたちが作った鏝塚の隣に太子堂!さすが建築(大工)のカミサマ聖徳太子!とか そんなことしか考えていなかった
(´・ω・`)我ながら浅い…。
中でも最も単純だったのが
「この八臂弁財天、造り細かくてスッゲー…!」というまさに小学生並みの感想である。この弁天様が後で妄想の燃料になるとも知らず…。
*八剱神社*
さて 前回あれだけ好き勝手に長々語ったのに、また登場です八剱神社!(八剱神社のせいではない)
ちなみに前回「御渡神事は八剱神社の特殊神事」と言ったが、その神事の度 毎年御神渡りの様子を記録し続けた2つの書物「當社神幸記」と「御渡帳」というものが現存している。
しかも、神社秘伝で宮司以外見られない!とかではなく諏訪市博物館の常設展示で見られるのだ。オモシロイものが色々あって入館料は良心的な300円!是非、諏訪に行ったら入ってみてくだされ。
※月曜・祝日翌日は休館らしいので注意!
余談だが、この御渡帳という名前からも分かるように、湖に氷堤がせり上がる現象自体は「御神渡り(おみわたり)」。諏訪湖の神事に関わる文脈の場合は「御渡(みわたり)」というように似たような言葉だが使い分けがされている。
ちなみになぜ記録が2種類あるかと言うと、「神幸記」は1682年までの記録。その先は「御渡帳」に続く。2つ合わせれば、その記録は429年間にもわたるという。
それを踏まえると、御渡神事の年占いというのは
非科学的な神託のようなものでなく、ビッグデータを参照した統計的予測に近い…のかも知れない。
諏訪の年占いで有名なのは
諏訪大社下社で1月に行われる筒粥神事
そしてこの八剱神社で行われる御渡神事。
片やミクロ、片やマクロな神事であるが、どちらも空気中の温度変化や湿度はもちろん酸素濃度、地中・水中の環境変化etc…目に見えないことを
目に見える形に変換して観察するという超すごい方法だ。と、管理人は感じている。
ちなみに、管理人が一番好きな年占いは、餅や粥を一定期間放置して生えたカビを観察し種類・位置・量などで一年を占うというヤツである。
こうして見ると、そもそも神託や占いというのは夢に出たとか神がかりの人がこう言ったとか、そういう「超常現象」的なことではないのではないか。
自然をつぶさに見続ければ知ることができる小さな徴を、集団全員が見える形に増幅する装置が神事…なのかも。と考える管理人でしたとさ。
*浜中島弁財天*
さて、突然だがトコロ変わって諏訪湖のほぼ対岸・岡谷。かの(?)洩矢神社がある地域だ。ここに道路を挟んで弁財天と御社宮司社がある。
まずこちらが弁財天。
丸みを帯びた可愛らしい屋根に、葛井神社や先宮などで見られる「注連掛鳥居」。(鳥居の一番上の横棒がないパターン)ここまでは「ちょっと変わった社だなぁ」的な感じ。
そして覗くと 琵琶を持った弁財天がいた。石材店で売ってるような石造りのモノだが、なんだか祀られている感じで奥に居るのではない。御堂の格子戸のすぐむこうにいる。
そしてその横には弁財天の御姿を描いた絵が、少し狭そうに(しかもどことなく雑然と)飾ってある。
なんだかツッコミどころ満載な配置だが、さらに扉には賽銭投入用と思しき穴のほか、向かって右の底辺あたりに前方後円墳形の穴が開いている。
覗いて見ても流木のようなものが見えるだけで謎。何なんだこの穴。何のために開いてるんだ。
あまり年季が入っていない弁天像や扉の謎の穴を見ているうちに、「昔からの社に個人で色々やっちゃった謎のB級社」の仲間では…という失礼な気持ちが湧いてきた。
さらに、運よく合流できた長野の知人が隣で「変だよねぇ。なんか角度が変なんだよねぇ」と独り言(なのだろうか)を言っている。
たしかに、そう言われてみるといろいろ角度がおかしい。いや。おかしいというと失礼だが、めずらしい。
というのも、この弁天様は鳥居が湖と反対側で社は鳥居と90°曲がって…いや、文章で説明できる自信がない。こちら↓を見ていただきたい
(´・ω・`)
このように、次に話す御社宮司神社と弁天様は道を挟んで「鳥居は」相向かい状態だ。では社も相向かいかというと、それは違う。常に見つめ合っていると気まずいからか?
(そんなわけあるかい)
そもそも諏訪湖畔の神社というのは結構諏訪湖のほうを向いている神社が多い。拝殿から鳥居のほうを見ると諏訪湖が見える感じだ。
御社宮司神社は諏訪湖畔グループの例に倣い、諏訪湖の方を向いている。対して弁天様は天竜川に背を向けるような角度で東の方を向いている。
これだけ湖のそばに建っていながら90°そっぽを向いていて違和感がすごい。
しかし、考えてわかることではないので山のような疑問を抱えたまま、道を渡って御社宮司神社へ。
*御社宮司神社(下浜)*
写真を撮り忘れてしまったので、Google mapさんからストリートビュー画像を拝借。
これで御社宮司神社のほうの鳥居と拝殿はまぁ一般的な神社と同じ感じと伝わるだろうか。この向きで神社を見ると、ちょうど背後が諏訪湖。先ほどの弁財天さんも背後に座すことになる。
境内の隅には、石祠と並んで石碑のようなものが。注連縄で囲まれた黒い直方体の石を見て、隣で知人が「墓石か…?」と呟いている。
(たしかに、そう見えなくもないが)
「濱むら 御社宮司神社元宮」と書かれているので、どうやら、御社宮司神社の旧鎮座地らしい。(なぜこんな数mばっかし移動したのかは謎)
平成になってから作られた石碑なので、書いてある文字は問題なく読める状態。この石碑は「開創350年祭記念」として「浦太郎社小まき中」という人たちが作ったというような内容が書いてある。
「まき」というのは、同じカミサマの氏子さんたちを指すこのあたり独特の表現らしい。
つまり「浦太郎社」の氏子さんたちが、この御社宮司神社の元宮碑を奉納したというコトだ。浦太郎社って何だ?浦島太郎的な?桃太郎的な?
病的に稲荷神社ばかりを巡っていた頃の話だが、市民球場周辺と湖北にある火葬場のあたりに「浦野太郎」と名のつく稲荷神社があった。が、浦太郎と浦野太郎が同じかどうか確信が持てない。
しかし 調べども調べども、「浦太郎」で調べれば神社に関する記事はほぼ無く記者を経て弁護士となった矢島浦太郎ばかりがヒット。
(管理人にとって大学の大先輩らしいので文句は言うまい)
そして「浦野太郎」では誰かのSNSアカウントがヒット。有力な情報は得られぬまま浦太郎事件は迷宮入りとなった。
仮に浦野太郎と浦太郎が同じであるとしたら、浦太郎社の小まきで管理していたらしい御社宮司神社もまた浦太郎社自体と同じく稲荷神社なのだろうか?
ミシャクジといえば縄文的な自然の神。強いては狩猟に関連深い神様かと考えていただけに、農耕神的な面を持つ稲荷神社との関連は意外だ。
いや、もしくは 狐といえど稲のみの神にあらず。岡谷市役所のそばには「蚕糸公園」があるではないか!
蚕の天敵・ネズミを食すキツネは養蚕の守り神でもある。ヤサカトメも人々に養蚕を教えたというし、この社は養蚕の守り稲荷だった可能性も…?
浦太郎については今後要調査ですな。
*諏訪湖と2つの島*
浦太郎に気を取られすぎて「90°の謎」がどうでも良くなりかけていたが、八剱神社と甲立寺・弁財天と御社宮司神社はそれぞれなぜ90°違う方を向いているのか。
住職さんや宮司さんに聞けば一発で真実がわかるのかもしれないが、プロのコミュ障と言われて久しい管理人がそんな難易度の高いことをできるはずがなかった。
そこで、「これか?」と思ったのが諏訪湖の歴史の中で消えた「2つの島」である。昔、中洲や三角州だった場所を見てみると現在でも「島」という地名が残っている場合が多い。
1つは、諏訪市役所付近の「高島」だ。高島城が かつて水上の城とされていたことからも、この辺りは昔 水に囲まれた島だったとわかる。
今は小和田にある八剣神社だが、高島城築城以前は この高島にあったとされている。それが築城に伴い島から立ち退きを余儀なくされ、神社周囲の漁村ごと小和田に移ったという形だろうか。
正確な移築の経緯はわからないが、この辺りは大雨のたびに浸水を繰り返す土地。
甲立寺の観音様は、無数の川に囲まれた地で水害の原因とも言える川の上流見据えていたのでは…。という気がしてきた。
そう考えると、さらにその水害に関連深いのが浜中島弁財天である。弁財天さんと御社宮司神社はこんなに近いのに別の地名を冠していることに違和感が無いだろうか?
しかも、弁天さんのほうは浜中「島」である!そう。元々は、この弁財天さんは島の上にあったのだ。
ではなぜ現在、湖岸にあるのか。高島城のように、水位減少や埋め立てで陸続きに?というと、それは違うらしい。
度重なる水害を防ぐため、諏訪の人々は「湖から流出する量」を増やすことを考えたのだ。つまり、天竜川の流量を増やすということ。
そのために、天竜川の入り口を広げる必要があった。まず一気には無理なので、①の水路を作ったらしい。(そうして浜中島ができた)
それでも大きな改善は見られなかったため、さらに大きな浜中島を分割する形で②の水路を。こうして島は2つに分かれ、浜中島から弁天島ができた。
やがて浜中島自体を取り除き、①と②は1つの水路に。(その際に浜中島弁財天が下浜村へ移ったのだろう)そして最終的には弁天島もなくなり、天竜川の川幅は昔の2倍近くになったのだという。
当時から弁財天さんが今の方向を向いていたとすれば、増水のたび島へと押し寄せる大水に対して
真っ向から向かい合うように立っていたことになる。
湖畔の2人の弁天様(甲立寺/浜中島)は、
事あるごとに荒れる川の抑えだった…かもしれない。
今回もまた妄想に満ちた記事ではあるが、神社ばかりでなく甲立寺さんや弁天様のおかげで、神域としての諏訪湖だけでなくその災害との戦いの歴史を知る資料にたくさん出会えた。
ともかく、足長神社のことがまだ書けていないがやたら長くなってしまったのでとりあえず一旦〆るとする。
*追記*
後半の方は国会図書館にある「土木史研究 22号」(土木学会土木史研究会 編)と「諏訪市史 中巻」(諏訪市史編纂委員会 編)
を参考にさせて頂きましたー。