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『僕の知らない、母の想い出』

朝6時15分起床。早めに職場に行き、少し仕事。それで職場を出て、電車で実家の方へ。

神奈川に住む父方の叔父さんが母の施設に顔を見に行きたいと言ってくれたので、一緒に行くことに。僕もバタバタしていて、全然行けてなかった。なにせ予約が出来ない。直前に休みがわかる仕事では難しい。

面会に行く前に昼ご飯を食べようということになり、北千住で待ち合わせ。叔父夫婦とは5年ぶり。父の葬儀以来。父が亡くなる前、出不精の父と母を、叔父夫婦がイタリア旅行に引っ張り出してくれた。あの時は楽しかったと叔父夫婦が楽しそうに語ってくれた。それから電車で施設のある駅へ移動。徒歩15分くらいの場所にあるが、「歩こう」と言ってくれたので徒歩。日が高く、歩いているとやや暑いくらい。気持ちが良い。

施設に着き、2階フロアへ誘導される。普段は1階のロビーで面会だったのだけど、徐々に規制が緩くなっている様子。エレベーターを降りると、テーブルがいくつも設置されていて、テレビが置いてあり、たくさんの入居者の方が座っている。

母がやってきて、僕のことを見て笑顔になってくれた。その後、叔父を見て、しばらく誰かわからないようだったけれど、僕が説明すると理解をしてくれた。ただ、叔母さんのことは誰か覚えていなかった。イタリア旅行に一緒に行ったでしょ、と伝えても、叔父とは行った記憶があるが、叔母のことは思い出せない。

「わたしはね、お父さんと○○さん(叔父さんの名前)と、二人とも大きくてね、両手に花だったの。でも、そうでしたか、(叔母さんに向かって)ご一緒に行かれたんですね、すいません、わたし、はっきりしてなくて」

母はこの台詞を、1時間半程度の面会の中で、何度も繰り返した。

兄と僕が生まれてすぐのころまで、父と母は神奈川の戸塚の団地に暮らしていた。戸塚というフレーズは聞くが、記憶にはない。昔の写真を見ると、自分が生まれ育った埼玉の家とは別の部屋で映っている写真が少しある。当時、叔父さんも神奈川に住んでいて、時々、戸塚に来ていたのだという。

「○○さんは戸塚にね、遊びに来てて。お父さんは偉そうに、○○って呼び捨てにしてね」

と母は戸塚の頃の話をしきりにする。埼玉の家にも遊びにきたよと、話しても、そもそも埼玉の家のことがあまりはっきりしていない様子。母にとって、過去の記憶の方が鮮明で、叔父とあっあことで、戸塚での時代が一気に思いだされたのかもしれない。

「研祐が生まれてね、母が鹿児島から戸塚に来た時に、お父さんにね、『あんた、子供が2人も生まれたんだからね、しっかりしないとだめよ』って言っててね、わたしは、ほら、ぼんやりしてるから。お父さん、それからね、仕事帰りに子供たちをお風呂にいれてくれて」

不意に、初めて聞く話が出てきた。記憶の中で朧げに存在している母方の祖母。関東にきたことがあるとは知らなかった。僕が生まれたのは父が30歳の時。戸塚の家は、団地だった。祖母からそういう言葉を言われ、当時の父はどうおもったのだろうか。わりと放任で育てられた印象があり、それが父の子供たちとの接し方だと思っていたが、僕の記憶に無い幼少の頃、父は父なりに子供たちと接していたことを、記憶力が曖昧になってきた母から知る。

夕方、施設を出て、駅まで歩く。5年ぶりの再会で、かなり変わってしまった母を見て、叔父夫婦はさすがにショックのようだった。それでもちょっと前よりは回復はしている。いろいろとしゃべるようになったし、声のボリュームも出ている。自分だけレンタル品の衣料で、ちょっと恥ずかしいのだ、と笑いながら僕に言うくらい、周りのことも自分のことも気にすることができるようになっている。

とはいえ、施設を出れるほどではない。一緒に暮らそうというには、自分の日常も忙しすぎる。いまのうちにできることをしっかりしなければと思いつつ、なかなかこうして会うこともできていない。

北千住の駅で叔父夫婦とわかれる。こうやって機会を作ってくれたことに本当に感謝。でも、なんだかいろいろ目まぐるしく、どっと疲れが出る。


少しぼんやりしたり、仕事をしたりして、諸々終了。筋トレもせず、就寝。

 




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