朝6時10分起床。朝食を食べて、缶ゴミを捨てに外へ。やや肌寒いものの空気は心地いい。気温があがるという予報を信じ、やや薄着で出かける。
職場の最寄り駅に着いて、まだ余裕があったので、どうしようかと思っていると、近くの学校に通る学生たちが、駅前の新しいビルの中の通り道になっている場所を通り抜けている。立て替えてからこの道は歩いたことが無かった。学生たちについて行くように歩くと、ビルの下を抜けて、一つ先の通りまで出れるようになっている。学校へ向かう学生たちにはちょうどいいショートカットになっている。そのビルの角にブルーボトルコーヒーがあったので、そこに入る。ホットコーヒーを注文すると「お名前でお呼びしますので、お伺いできますか」と聞かれて、あたりまえだとは思いつつ、本名を伝えたけど、なんだか、苗字で呼ばれるのは気恥ずかしい。
窓際の席でパソコンを開きつつ仕事。朝の時間、少しゆっくりと仕事。それから出勤時間に合わせて職場へ。毎日は出来ない贅沢だけど、時々、こういうのも良い。
いくつか仕事をしつつ、とある件で、嫁さんからLINE。それで、どうにも納得いかず、いくつかLINEの応酬。それぞれの立場からの意見もあるだろうが、どうにも双方の主張が着地する点が見いだせず。お金のことである。コロナ前後からだが、嫁とは冷戦のような状態になっており、口をきいてはいない。具体的な理由があったかといえば無いような気がするが、日ごろの積み重ね。おそらくこの先もこのような状態が続くのだろう。自分も大人げないと思うが、多分、双方なので、仕方がない。
室内で仕事をするには、結果、やや肌寒く、夜ご飯にカップラーメンを食べたらようやく少し温まってきた気がする。
仕事を終えて、21時半帰宅。映画「神戸在住」を観ながら筋トレ。原作の漫画は生涯大切にしたい作品で、思い入れがある分、映画を観ながらいろいろと思うところがある。震災のエピソードは、実際、漫画原作でも前半のとても重要なエピソードだけど、それは、主人公たちが震災の当事者として描かれるからで、キャラクターは一緒でも設定を震災から20年後にしてしまった映画版で、その話をいれる理由はあっただろうか。普段能天気な鈴木さんという主人公の友人が地震があった時に、取り乱してしまう描写が原作にあり、だからこそ、当事者には計り知れない出来事であったことが想像されるが、主人公たちにとって過去の出来事になってしまっていることを、丁寧にいれようとしても、どこか付け焼刃のようにも感じる。漫画原作の難しいところは、漫画のキャラクターをそのまま演じようとする場合の違和感だが、この映画では、キャラクターに近づけようとする人がいれば、まったくそうではない人もいて、どちらの方向で着地させたいのかが見えにくかったように思う。また、尊敬し、恋心を抱いたイラストレーターの突然の喪失に戸惑う主人公が、突如として、大学に現れて、仲間たちに介抱されることで救われる場面も、どこか唐突に思われるし、撮影スケジュールの都合、仕方がないと思うが、その前のシーン、地元暮らしの年配の女性(演じるのは竹下景子さん)と主人公のやりとりが、明らかに日の周りから夕方なのだが、その次の大学のシーンが日中の撮影で、日がつながっていないのもももったいない。
何より勿体ないと感じたのは、その年配女性とのやりとりで、「お食べ」とおはぎを差し出されて、主人公が食べる場面があるのだが、そこで食べ始めたのに、そのあと、実景描写をいれて、食べるシーンを端折ったことだ。生理不順に陥るほどの体調不良で、学校も休み、亡き人の幻を観てしまうほどの喪失感の中にいる主人公が、何かを口にする(食欲という現象)を描くなら(果たして物を差し出して食べさす描写が正解だったかはさておき)、もっと丁寧に食べきるまでを描いた方が絶対に良い。食べることは生きることに直結する。その動作をさせたのなら、それをどんなに時間がかかろうが、実景のような中途半端な逃げで時間を飛ばさずに、描くべきだった。それがあれば、まだ、その描写によって、主人公の意志は描かれた気がする。
0時過ぎ、そろそろ眠らねばと布団へ。
