今年も残すところあと1日。
予報通りに雪となった。
ジプシーキングスの “Inspiration” をかけながら読書。
私も含めて教師というものは高校生や大学受験生相手に、
- 英語の勉強法や学習法の本だけをいくら読んでも、英語ができるようにはならない。英語そのものをきちんと学び、きちんと使うことでしか英語は身に付かないのだ。
などとよく言いますよね。
この生徒のところを英語教師に置き換えてみると、
- 英語の指導法の本だけをいくら読んでも、英語教育ができるようにはならない。英語そのものをきちんと教え、きちんと使わせることでしか、生徒に英語を身に着けさせるようにはならないのだ。
とでも言えるのだろうか、などということを反芻しながら、今日の英語教育再入門は、次の本から。
- 吉沢美穂 『絵を使った文型練習』、『同 Workbook I, II & III』 (大修館書店、1965年)
指導要領から「文型」という用語が姿を消すことになった。指導要領の作成者はみな博覧強記で、現場経験豊富なのだろうから、このGDMで周到に準備された「文型練習」レベルのpracticeは全て授業で取り入れ済みで、使いこなしていて、その上で、それが最早効果的ではない、と判断したのだろうか?そこのところを英語教育界の誰か切り込んでも良かったものを。
- 従来教室で行われている生徒のproductionの面の活動は、本当の意味の意志の発表ということからは、およそ縁の遠いものである。たとえば、教師のいったことをそのまま口まねする、教師の問いに答える、日本語で与えられたことを英語になおす、文の転換、おきかえ、というようなものが大部分をしめていることが多い。また、作文とは、和文英訳の同義語に使われていて、生徒が場に応じて、いうことの内容も自分で考えて発言したり、自由に書く機会はほとんどない。これでは発表の練習にはならない。/ 生徒が自分の意志で自分から発表する習慣は、英語の授業の第一歩から始めれば、むずかしいことではない。進んで発表するといっても、もちろん、既習の文の範囲内で、与えられたsituation によるものであるから、完全に自由な作文ではない。したがって結果に置いては、従来の活動で生徒が発表するものと同じものであるかもしれないが、「何々といいなさい」といわれてはじめて口を開くのでなく、自分から進んでということに大きな意義があり、これが将来のほんとうの自由作文、自由な発表の基礎をつくることになるのである。(上掲書、p. xvii)
GDMやBEは今日でもその存在価値、教育的価値が薄れてはいない。
昨年、語研の夏の講習で、BEについての講座を担当された相沢佳子先生のブログを読むと、その思いは強くなる。不定期更新ではあるが、先日読んだのQuirk博士とのエピソードを記したエントリーは感動的であった。
ここで、告知です。↓
長州英語指導研究会新規会員募集はこちら→ http://cho-shu-forum09.g.hatena.ne.jp/tmrowing/20091124
語研の講習の準備中に考えていたことの一つに、「精読」の見直しがある。これは、書くことと表裏一体なのだ、ということが今風の英語教育の世界ではよく理解されていない。
過去ログで精読を扱った記事は近いところで、
を参照のこと。コメント欄も是非に。この記事で扱っているのは「問題集」ではなく「参考書」であることに注意されたし。さらには、
での英文のバラエティにも注目して頂きたい。Read to learn vs. Learn to read という振り出しからどう、今へと駆け戻ってくるか、そこが問われているのでしょう。
その観点で、
の指導例を見て頂ければと思います。こういうところで「フィンランド式」だの「ドイツ式」だのを持ち出しても意味はないというのが持論です。読むこと、そのものを掘り下げて考えるしかないのだから。
随分前のエントリーですが、
の行方昭夫氏の言葉に耳を傾けて欲しいと思います。ということで、
- 英語を、古文の品詞分解よろしくああでもないこうでもないといじり回していくら一文を正確に訳すことができても、それはリーディングではない。英語の力もつかない。リーディングとは文章の内容を理解し、筆者・作者のメッセージと対話することである。
などという人は、翻って英作文・ライティングではいったいどのような「指導」をしているのだろうか?
- 日本語をああでもないこうでもないといじり回して、いくら文法的に誤りのない英文に訳すことができても、それはライティングではない。英語の力もつかない。
と言ってくれているのだろうか?
困った時は先達に聞いてみるのが一番。
- 言葉の発達は、すなわち、思想内容の発展であって、思想内容から離れた、言葉だけの問題などはあり得ない。それじゃ、作文がうまくなるためには、英語とか日本語とか、言葉に拘泥しないで、思想内容だけを深く大きくするように心がければ、日英両方で、作文の名人になるではないか、ということも考えられる。そういうことも確かにある。英語はまずいが、言おうとしていることは興味深い、という批評を与える作文がそれである。しかし、言おうとしていることが興味深いと言えるのはどうしてであるか。それは言葉づかいが興味深いからである。言いかえれば、言葉の用い方が独特の興味深い用い方であるから、内容が興味深いことになるのである。作文の中の思想感情は言葉によって発表しているのである。言葉の裏にかくれた思想といっても、表面上の言葉によって、その裏の思想がわかるのである。 (小沢準作「英語の作文と修辞」、『現代英語教育講座 8 』、研究社、1964年、 pp. 6-7)
和文英訳は「精書」としてその形式・指導形態を役立てるのであれば、高校の教室でも大いに意義がある、というのが私のスタンスである。大学入試にしたところで、例えば、近年お茶の水女子大で出題されている、日本語をキューとして、英語の解答を求めるものは、テクストタイプの特徴、自己表現の排除という観点で、expositoryな英語のライティング力向上に充分資するものとなっている。(これは、このブログの過去ログ (例えば→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20070727) や、『英語青年』 2006年4月号の特集でも示してあるので、お読み頂きたい。ファイルはこちらから→英語青年200604松井
)
小沢氏は、次のように言う。
- 文法作文の教科書といっても、作文の方は、99%までが和文英訳が課してあるもので、その和文英訳を先生も生徒も英作はニガテだと逃げたがっているのが実情のようである。ニガテかどうかは第二の問題であって、和文英訳を課するわけは、集団的訓練をするのに、自由作文では手に負えないからである。和文英訳ならば、何を書こうとするか書く内容がだいたい明瞭に与えてあって、それに向かって多数のものが一斉に書くのである。一人の添削をすれば、50人の添削をしたのと、だいたい同じ効果があって、非常に能率がよい。(「和文英訳から出発する方法」、上掲書、p.25)
- 解釈の試験のときには、英語と無関係に日本語だけ記憶するが、和文英訳 (英作文) のときには、日本語と無関係に英語だけ記憶するのが試験準備である。英文解釈の試験準備よりも和文英訳の試験準備の方が英語そのものの勉強になっている。がしかし、重大なことが二つある。一つは、平素は、どっちの講義も、何もしていないこと。第二は、和文英訳の模範訳文というものが和臭の甚だしい悪文であって、学生は、そのとんでもない悪文を暗誦するのである。/ 悪文でも何でも、英文を暗誦する方が、しないよりはずっとよい。そこで、日本語と無関係に暗誦するとするならば、もっとりっぱな、もっと英語らしい英語を暗誦するように指導する方がよくはないか。(同書、pp.25-26)
いい英語でいい教材。いい英語で、いい授業。それが基本でしょう。
次の言葉は肝に銘じて実作に励みます。
- 作文は、自分が書く場合はもちろん、指導する場合も、技能を磨くことであるから、本を読んで偉くなるという筋のものではない。理論は、実はあとから出来たものである。感嘆すべき名文を読んだとき、うまいなあと感嘆して、さて、この技巧はどうなっているかなと分解研究して考える結果 rhetoric が生じるのである。一応は心得ておかねばならないが、rhetoricの本を読めば、作文がうまくなるというものではない。 Rhetoricの本を読むと、rhetoricについて議論することがうまくなるだけである。 (「参考書」、同書、p. 39)
さて、
講習会で「短文の方が長文より簡単とは限らない」という項目で、格言・諺・警句・バナー・タイトルなどの英語に言及しましたが、こういうところで本当の英語力は露呈してしまうものです。私も、このブログのタイトルを時々英語で付けていますが、その時は本当に身震いします。最近の英語のタイトルをちょっと並べて解説してしまいましょう。ネタばらしですね。
※以下、記事の英語タイトルをクリックすると別窓が開いて当該記事に飛びます。
2009/12/24 Anything could go wrong
- これは、「本日のBGM」の歌詞からの引用。この段階で言い訳の種を蒔いておいたわけですね。
2009/12/16 Back to English!
- ある方との私信で、ハッとさせられた思いをブログにしました。教師は指導法や指導技術を云々する前に、英語ができないとダメだろうというメッセージ。当然、ブーメランの如し、天に吐いた唾の如し。
2009/12/15 The inspiring generations
- 研究社の『英語青年』の原題が “The Rising Generation” なので、それにちなんで、同誌和文英訳欄の担当者に敬意を表して。
2009/12/08 That’s the same name!
- it とthat の語法に関連した記事の内容と、その記事のもとになった同僚との会話で出てきた用例にちなんで。この日は、John Lennonの命日でもあったので、John繋がりで、稀代の名選手に言及。「本日のBGM」は、Johnの曲 “Woman” をなぞった佐藤隆の曲で。
2009/12/03 The innocent age is gone
- 新指導要領に関する疑義の表明と異議申し立て。和田稔氏のように誠実に現場を見ていてくれた人がトップに立って指導要領を書いて (改訂して) いた古き良き時代の終焉という意味を込めて、今は亡き、Dan Forgelberg の不朽の名作から「本日のBGM」。
2009/12/02 What makes a writing teacher?
- 2009年語研冬期講習会の私の講座のタイトルでもあります。
2009/11/30 standing on the podium
- いわゆる『P単』の金銀銅各メダルコースの話しをしたので、教師はそのガイダンスをする指揮者で、実際の演奏は学習者、というメッセージを “podium” に込めるとともに、金銀銅メダルということで「表彰台」にちなんで。ちなみに、私は『のだめ…』よりは『ピアノの森』の方が好きです。
2009/11/28 You won’t learn, will you?
- 一般的な教師が授業でするお膳立てを拒否することを私のクラスでは宣言しているので、早く「そういうもんだ」と思いなさいという生徒への処世術メッセージと、読解の授業に関して、「品詞分解的ではない、逐語訳でもない、英語は英語のまま理解することを由とする、どんどん英文を読んでいくタイプの授業でしばしば見られる、『わかっているんだからいいじゃない』的な物凄く乱暴な指示語の扱い」では、個々の生徒の学びは保証されていないのではないか、という問題提起。
2009/11/08 I’ll wear it proudly.
- E. コステロの同名曲の歌詞 “If they had a King of Fools then I could wear that crown/ And you can all die laughing because I'll wear it proudly” にヒントを得て。ブログ記事最後の一文の矜持がここでの “it” といえるでしょうかね。
2009/11/05 How to read like a child
- D. エフロンの本のタイトル、”How to eat like a child” のもじりで、ナイーブな多読信仰やL1読解力転移に依存したL2読解力観に対する皮肉を込めたもの。エフロンの文章なんて、これから先もう絶対に高校の教科書で取り上げられることはないでしょうから。
2009/11/04 a galaxy of difference
- この頃、授業中の口癖だった、「よく、That would make a world of difference. などといって、大事だよ、肝だよ、なんてことを伝えるけれど、今扱っているところはa worldどころか、銀河ほどの違いとなって顕れる」という表現から。
2009/10/25 across from that old …
- 英国ネオアコ金字塔、Pale Fountains の2nd アルバムのタイトル、”across from the kitchen table” のもじり。ブログ記事中で言及した「彼岸の橋」のイメージで始めたものの、「橋を渡る」と「川を渡る」、「橋の向こう」と「川の向こう」はいつものように悩み、投げっぱなしジャーマンスープレックスのような終わり方。
2009/10/12 Kobe Brilliant
- ナラティブシンポの講師として神戸に行ったので、その時の素晴らしい感覚を言語化。中高バスケ部の私としては、尊敬するプレーヤーの一人であるKobe Bryantに敬意を払ってもじりました。
2009/10/10 The skin of a lion in the path
- これは、成句のもじりというかブレンド。最近の中辞典クラスでは出ていないかもしれませんが、 “a lion in the path” と、”the lion’s skin” とを合わせたもの。ナラティブシンポを控えた自分の心境の反映。意味はそれぞれ調べて下さい。
2009/10/02 Almost full
- 満月の近辺だったので「月」にかけたのと、この日のブログで扱った、語義に関して和訳で「等価」の置き換えをして、100%分かったつもりになることと、英英での定義による隔靴掻痒感との鬩ぎ合いを感じて欲しいというメッセージも込めて。
過去2ヶ月の英語タイトルには、このような背景があったわけです。まず、自分の頭に浮かんだネタ、テーマ、ヒントなどから出てきた英語を活かしますが、歌詞など誰かからの引用ならまだしも、それが自分の英語であれば、英語として通用するか、適切なのかどうかは必ず調べます。一事が万事、神は細部に宿る。そういうことでしょうから。
私は学生時代から不定期の日記のように詩を書いていたのですが、日本語でも英語でもその詩に絵をつけたりして出来上がった最後に、タイトルは必ず英語で付けるというスタイルを通していました。
- beatitude / sperm whale / aspects of acceptance / Life is starting to make sense again. / tuition for intuition / POW / depth of breath / It goes against the grain with her./ a March hare of wisdom / empiricism of the emperor penguin / sleep loose / slug line
などという語句や文でくくりつけておいたわけですが、せっかくの (可能性を秘めた) いい詩もタイトルを固定してしまうことで、閉じてしまう虞が常につきまといます。あたかも、研究授業の後の指導助言者の一言のように。その虞を忘れることなく、不定期に綴っていったものが、このブログへと繋がっているのかも知れません。
そんな若気の至りの一片を記して、本年最後の更新とさせていただきます。
借りもののことばは
かんで くだいて
全て神へと返せ
できるだけ高い頂から
もがいたり
うめいたり
しながら
誤解よりも
十戒よりも
高く
空へととどく
頂から
誰よりも具体的な
かっこうで
手渡せ
オレのパレットは
上顎の下
舌のとどく空
オレのことば
は
オウムがえし
じゃ ないぞ“palate” 1992年3月4日
本日のBGM: man out of time (Elvis Costello with Steve Nieve Live In Australia)