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映画「どうすればよかったか?」を観て、わたしも家族としてどうすべきだったのかもう一度考えた。

12月から始まった隣人の騒音騒ぎでだいぶ疲弊していたので、ブログを書く気が全く起きなかった。書こう書こうと思っていたベストバイやらなにやらをまとめることはできたけど、年末に行った台湾旅行やその他生活で感じたことなど、全てがストレスのヘドロと一緒に流れていってしまったみたいだった。騒音騒動は直接の対話を経て収束へ向かいかけたものの、依然として音を出すのをやめない隣人に呆れ返っている。他人への配慮というものが生まれながらにして欠けている人間がいるのだ、と思わざるをえない。残念。

 このごろ鍼灸の治療がうまくいっているからなのか、鬱で読めなかった本が読めるようになってきた。去年から精神科医中井久夫にハマって毎月一冊は関連する本あるいは本人の著作を読むようにしている。


 中井久夫分裂病統合失調症)を中心に精神的な病にかかった患者を診ていた。わたしは親族に統合失調症の人間がおり、それゆえにヤングケアラーのような役割を担っていた時期があるので、実家を離れた今でも、統合失調症に関する本や興味深い学説を見かけるとついつい読んでしまう癖がある。精神科医本人が書いた本なども本屋で見かけるとつい、立ち読みしてしまう。もちろん自分も心療内科にお世話になっていたこともあるのも起因しているのだろうが。

 

 精神を病んでしまうメカニズムが知りたい、なぜ家族はわたしをあのように過去苦しめたのか。そういう思いはもちろんのこと、思春期の大事な時期に家族の「狂い」に巻き込まれた体験がある当事者として、それをどう防ぐことができたのかという問いは、辛い思い出が過去になった今でも時折胸に湧き上がってくる時がある。映画「どうすればよかったか?」は、家族として当事者であった自分の過去を思い出し、言葉で言い表すのがむずかしい、苦い気持ちで鑑賞した。


 人を狂わせるものは一体なんだろう。執着、過度な愛情、歪んだ家族関係……。どれかひとつだけでなく、いくつも問題を抱えてそれが制御できなくなったときに人間は壊れるのだろう。わたしの家族がそうだったから。

 

dosureba.com

 

 映画「どうすればよかったか?」は、統合失調症を発病した姉を、実の弟であり映画監督である藤野知明氏が家族の一員として、家族の内部から撮影したドキュメンタリーである。

 

 誰しもが所属している最小単位の共同体、それが家族である。家族は私的な領域であると考えられ、家族内の問題は家族内で解決するように、いわば外部の者の介入がなされない形での共同体運営が理想であるとされてきた。家族の問題は、家族の中で処理をするーー。家父長制が根を張る日本では、夫は外へ仕事に行き、妻は子供の世話をし家事をするのが理想の家族のかたちであるという価値観が規範とされてきた。子供や親の介護などは家事としてひとくくりにされ、妻へと重くのしかかる。家族というものは、外部から干渉することが難しい場として長年機能していた。

 

 数々のドキュメンタリーにおいて家族の問題を取り上げたものは多くあるが、本作は家族の一員である監督自身が、時にカメラを手に持った観察者として、時に弟として、そして、時に父母の息子として何度も作品の中に立ち現れる。外部の他者が映したものではなく、家族の内部から記録した映像資料として、この作品は一級品の価値があるだろう。
 
 そして、本編である。藤野氏が映すありのままの家族の姿。その歪さにわたしは打ちのめされた。わたしが過去に経験してきた、己の家族のかたちと同じ匂いがそこにはあった。


 家族にはさまざまな形がある。どの家族だってみな美しいかたちはしていないだろう。作家の津村記久子が『まともな家の子はいない』という著作を発表した時に、「ほんとうにそのとおり!」と膝を打ったわたしがいる。まともな家族というものはない。どの家族にもそれなりの歪みやいびつさを抱えている。自分の家族の歪みを許容できても、他人の家族のそれを受け入れがたかったりする。そういうものだろう。みなその中で精一杯バランスをとって生きている。しかし何かのきっかけで歪みが大きくなり、それが家族のなかで許容できなくなったときに、家族の「病」という形で事件が起きてしまうのだろう。

 

 子への過度な期待、異常な執着、そして過保護にも受け取られるような愛情。


強い期待や望みは、度を越すと執着や呪いとなる。やがて呪いは呪縛になり、人をその時間、その場所から動けなくさせる。思いは凝固し、自由な行動を封じる。


 明らかに、姉に”異常”が起こっているのに医師国家試験の話をする父の姿をみて、恐怖がわたしの背中を伝う。毒だ、と思った。愛情、期待。それらは毒になる。その毒は家族中に蔓延し、状況はどんどん悪化する。抗おうと声をあげるも、届くことはない。息子である藤野氏がなんども父母に相談し、冷静に説明をする。姉には治療が必要なのだと。その声は、父母が歳をとり、倒れるまで聞き入れられることはなかった。

 

 わたしは藤野氏と同じような立場で、統合失調症を発病した家族を適切な治療へ繋げようと、他の家族を説得したことがある。もちろん、何度も説得を試みたが、それは藤野氏と同じように家族の間で何も結論の出ない無意味な時間となり、いつも最後に話はうやむやにされて終わる。徒労だった。


 このようなことが何度も続き、わたし自身も無力感を覚えるようになった。家族を見捨てたい、見捨てたくない。そのような葛藤に何度も引き裂かれそうになり、ストレスからか家に帰ることができなくなった。幸か不幸か、統合失調症を再発した家族は、家業の収入を使い込み、我が家が金銭的に困窮することで家族が治療に乗り気になることになった。(その間に数百万というお金が溶けて無くなった。)

 

 「どうすればよかったか?」


生き地獄のような時期は遠い過去になり、もう思い出しても胸が痛まなくなった。でも、時々この問いはわたしの中から苦い思いと共に湧き上がってくる。
どうすればよかったのだろうか。何度も記憶を巻き戻す。ああしていれば、こうしていれば、と分岐点を考える。しかし結局のところ、「あのとき」でなければすべてが今のように上手くいかなかっただろう、という結論に、いつもたどり着いてしまうのだった。

 

 昨年は、精神科医春日武彦氏と作家の平山夢明氏の対談集にハマって何冊も読んでいた。春日武彦氏は、都内でも有数の精神病院である松沢病院でも勤務歴があり、当時入院していた、人喰い殺人鬼で知られた佐川一政にも気に入られていたらしい。
 冒頭に述べた中井久夫とは対極的に、春日氏がドライな切り口で精神病に語る姿勢が大変興味深く、付箋を貼りながら書籍を熱心に読んだ。

 

その対談シリーズの中で、春日武彦氏は以下のように述べている。
 

春日「俺みたいな商売だと、時間という存在をいかに捉えるか、クリアするかというのが勝負なのね。例えば、家族関係がぐちょぐちょで、今は膠着状態でどうにもならない。どうすればいいのかといったら、待つしかないの。百年待てばみんな死ぬんだと。そういう意味では絶対に展開があるわけ。いかに余分なストレスを溜め込まずに待つかが勝負になってくる。医者でも保健師でも、ダメなやつは耐えきれなくて余計なことを突く。ダメな時はダメなのよ。そこで腹を括ると意外な展開が生まれる。これが宇宙の法則としてあるわけ。」

(春日 武彦,平山 夢明 、『無力感は狂いの始まり』、扶桑社 、2010年, p.77)

 

 

 時間が薬になる。臨床に携わり、何百人・何千人と患者を診てきた春日氏の言葉は、どうにもならない家族の膠着状態を体験したわたしからしても、シンプルでどうにもならない現実だった。しかし、実際その通りだったので仕方ない。現実は時に残酷だ。時間は勝手に過ぎてゆく。人はその中で少しずつ老いる。その過程で、わたしたち人間の力では計り知れない何かが蠢めき、次の契機が準備されている。

 

 時間を味方につけること。待つこと。
旧約聖書の「ヨブ記」では、サタンに信仰心を試された無辜の人、ヨブの元に次々と不幸が襲いかかる。財産も健康も失ったヨブは、それでも主を待ち望む。友人にも疑いをかけられるが、それでもヨブは神を信じ続けた。待ち続けたその後に、神が現れ、ヨブの不幸が全て報われる。

 

 どうにもならない状況に置かれたとき、やがて報われることを信じて、わたしたちもヨブのように待ち続けることしかできないのだろうか。

 

「どうすればよかったのか?」という問いに、「こうなるしかなかったのだ。」という諦めを含んだ声色で答えが返ってくる。常に自分は最善を尽くしていたのだと慰めながら。起きてしまったことを悔やんでも仕方ない。本当に?

 

 

最後のスクリーンで、カメラを抱えているだろう藤野監督に手を振る姉の姿を思い出して、「そんな残酷なことってない。」とつい口に出してしまった。答えはまだ出ない。

 

 




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