どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
今回は深田晃司監督最新作。『マーシー/AI裁判』の案件動画をこたけ正義感がやってる段階でおいおい、とは思いますが、是非とも鈴木愛理、小倉唯、田村ゆかりあたりにコメントを貰ってほしかったな、と思います。

WATCHA3.0点
Filmarks3.1点
(以下ネタバレあり)
かなりしんどかった。アイドル、それもかなりの規模で運営されているグループ出身の人物にアイドルをやらせた上で恋愛させ、それに損害賠償請求させる、という作りで客を呼びたいくせに、論点を誤魔化し続けて2時間を逃げ続けるような映画だった。単純にまずフリが長いというか、恋愛裁判を見にきているのに恋愛が無いところから始まり、グループ別メンバーの恋愛、別れをさせた上で握手会襲撃とそれに伴うある種の本能的な動きとしての出奔、ここまでにゆうに1時間を使ってその上でようやくの裁判である。
わざと下手めにしてるっぽいし、当事者にも足りない、出来てないと2人前のアイドルとして描かれるハッピーファンファーレも、出会いはふとした瞬間の倉悠貴のパントマイムも下手で、いや何人前だろうと人権はあるんですよ!みたいな話になるなら我慢もしたのにそうでもないなら単純にクオリティの低いものを見せられてもガッカリするだけです、というか。何あの風船の一連の演技。あれが下手、というよりどういう意図を持って彼があのパフォーマンスを組み立て、その上で道化なのに同級生にあったぐらいで話しかけちゃうメンタルでやってんの、って話である。延々描かれる告訴の理由も恋愛、というか普通にただの家出というか職務放棄で恋愛がアイドルに許されるのか、とかそういう以前の問題にしかなっていない。そしてそれを問題にもせずなんか恋愛の話にしたがる原告被告双方の弁護士もちゃんちゃらおかしく、原告は職場放棄による契約違反と損害賠償でいいし、被告は襲撃事件に伴うショック状態とそこから引けなくなった、みたいな議論の過程があっていいのに全く見せない。そこに物語の断絶がある。
恋愛と裁判、どちらも単独で実存するものではなく、パートナー同士、あるいは当事者と弁護士との間で綿密なコミュニケーションがなされて成立するものであるはずながら、本作における山岡真衣にそういうコミュニケーションを成立させる意思がない人物であり、弁護士に想定問答をしてもらったとは思えない証言台での振る舞い、和解するかどうかのような根本についてさえパートナーに告げずに来るわ、雨の中の車を売った問答といい、普通に2人ともガキなだけで恋だの愛だのいうレベルに達していない。寮生活の時点でアイドルの先、何をやりたいのか見据えてギターを鳴らしてた梨沙とエゴサして結局裁判になったら配信者やって(それも裁判をネタにしていくような炎上スタイルでの腹の括り方でもなく)、ダンス講師の仕事にキッズコースだけどね、みたいなキッズコースのダンスを舐めた口をきくこの人物のどこに魅力を感じるだろう。人間関係の断絶がここにあり、それを構造で表すのはまだいい。
明らかに分かっていたクィアの要素を契約書へのカウンターのように消費したオチも正直グロテスクというか。いや、それ発動するんだったらアイドルの身体は誰のものか?というより、アイドルに身体はあるのか?という問いを成立させると話にした上で、異性愛を前提に組んでいる今のアイドルというシステム(これはどっちの性でもそうだろう)がおかしい、というゴールがあって成立するちょっとした反逆だろう。幸福追求権的に違憲ですよね?をなんか切り札みたいに出してくる段階で浅瀬でちゃぱちゃぱすぎる。アイドルは清廉性を要求される職業です、とかいいだす弁護士のところをパンチする方が先。両者の合意が為された時点で契約として強度があることは間違いないだろ。強いて言えば、契約締結時の年齢が、と責めて未成年労働や未成年への性的搾取のような反訴であるべきで、『無名の人生』が一応やった以上は男性に反転しても成立する大きな問いを孕まずに済ますのは、いただけない。長文を書いてみて分かったが、なんかあのクィアの扱い方がむかついてるな、一番。
2026年初頭において、女性アイドルはいまや資本こそ全てである。アソビシステムか秋元康が支配し、東京女子流もukkkaもフィロソフィーのダンスも#ババババンビもlyrical schoolも川崎純情小町も解散する。全然アイドルに詳しくなくても色んな文脈で知った方々が、私にすら名前を知られた方々がアイドルという肩書きを失う。リアリティショーやオーディション番組で自身をすり減らし、キャラクターを持たないものはどんどん消えていくアイドルという世界における「自我」とはなんなのだろう。キャラクターを成立させるためにまずは色を纏う必要のある職業とは一体なんだろう。
一方で、アイドルと身体を考える上で既にポストNegiccoであることもまた事実である。新潟のアイドルである彼女たちは3人とも結婚出産を経験するというステージに達している。アイドルとは?ファンとは?そうした問いかけがある程度説得力を持ったからこその【推しの子】だとは思うし(その割になんか話が違う方に言ってる気はするが)、逆に身体性を有さないからこそのアイドルアニメが雨後の筍のように生まれ、しかしキャストにリアルライブをさせるようになったために世代を変えながらコンテンツの延命を図るラブライブやアイドルマスター、多人数化していくことでしれっと世代をずらすウマ娘のような存在がある。また、こうした身体性が希薄な存在だからこそアニメにおけるアイドルものはアイドルであること、に恋愛が絡むことはほとんどなく、美しいまでに自己実現や対話、興行としての達成に重点を置いて描いている、と認識している。正直【推しの子】1期が流行ったのも、コンテンツというよりもYOASOBIがこのアイドルアニメ界の「陽」の部分を表現した結果だと思うし、それが好意的に表出したのが本作の子どもとのダンス練習のシーンであり、アイドルに自我が要請されない結晶が橋本環奈とanoによる紅白歌合戦の瞬間あるいは、湯切りネキこと倍々FIGHT!の選出なのだろう。いまやアイドルに、というか公共空間に身体を晒す仕事は身体を公共に提供し、自我を喪失してミームになることが求められている。監督が着想を得た実際の裁判が10年前らしいんで、仕方ないかもしれんがアイドル業界の10年前って恐ろしいほど前だと思うぞ。ということで、作品と現実に一番深い断絶が存在している。
ここまで踏まえて改めて問おう。この映画の裁判の論点ってなんか解答を出す気概のあるものだっただろうか。そういうのを深田晃司ならやってくれると思っていたので残念ではあるのだが、そうならそうと紐のマジックをやって宙に浮くマジカルな空間、そして2人の間に吹く風、みたいな恋愛ドラマとしても寒すぎる演出はやめて人間ドラマを描こうとして欲しかった。深田晃司が描いてきた対話不能性って、こういうことじゃなかった気がするし、『LOVE LIFE』の最後の窓から団地を出ていく2人のショットみたいな、一回でも唸るようなのも無かったではないか。
なんか長くなったから全部読む未来の自分をガッカリさせておくと、ラランドのYouTubeでニシダが偏見を代弁する、みたいな企画でアイドルの恋愛を批判するファンダムにキレる、みたいな芸をしてたのだが、その切れ味にすら至ってなかった。期待の最低レベルをそこに置いてたので残念。
追記
pecoさん、背骨さん、EDDIEさんのスペースを後追いで聴きながら少し感じたことを。
https://x.com/peco0907/status/2016481496023064653?s=46&t=HKU_FgJH5kM-izJ8wBMAVw
結論で言えば、アイドルは人間宣言すべきか。
そういう意味では、反訴する決断をした彼女は裁判を受ける権利を発動したんだから基本的人権があることの宣言であり、人間宣言である。でも、それをあのタイミングで発動することはアイドルの人間宣言なのか。
つまり、アイドルとは宗教なのか商業なのか。宗教なら教祖は振る舞いを求められるが、商業なら彼女たちは個人事業主でありあまねく人権が認められる「人間」になる。だからアイドルアニメは売れるのだ。2次元のキャラクターには、今の所人権を認められていない。そうなると私の関心は「誰がアイドルから人権を奪ったか」の歴史的経緯であり、ファンを大切に、ではなく「ファンを大切にするアイドル」という形のためにファンは金を払ってるので、形の上ではアイドルはファンを大切にする言動はするけどそれをまともに受け取るやつは去れ、である。ファンとかアイドルとかの前に、個人が誰かの個人の権利を規定することなど人権侵犯であり、それが許されるのは公共の福祉か両者の合意による契約のみ、である。ファンという生き物は勝手に恋をして勝手に結婚するやつに金を貢いでいるだけである。その代わりに明日を生きる活力を貰えるだけなのだ。自分の人権感覚がこう言わせてるのかなぁーと考えていたが、案外スポーツファンのところが大きいのかもしれない。一体どんな大金を注ぎ込もうと自分がコントロールできるものなど何も無い。勝つかも負けるかも分からんのだ。でもファンってそういうもんだと思ってるって話よ。まあ他者を変容できる何者かである、と自分を捉えるような肯定感は自分には無いからね、仕方ないね、とはならん。
さて、となるとやっぱ契約の有効性を考えるべきで、即ちやはりアイドルの多くが該当するであろう未成年時の契約の妥当性、ではないのか。こと、ジャニーズの後である。
相変わらず映画そのものより映画から与えられた題材でなんか考えることが好きなんだなぁと申し訳なく思う。あえてこの映画に戻るのであれば、アイドルは商業であることは自明であり、よってアイドルは人間宣言するべき。するべきだからこの映画の終わり方は賛美を持って向かい入れるのかと思いきや、自明なことを結論にされても…と気に入らない、か。だが、平和や愛、対話といったものを大切に、という自明のメッセージが結論となる作品にはそういう綺麗事が大切、と思うのに本作にはそうは思わなかった、ということだ。
うん、人間宣言するべき、とか言葉強いっすね。