どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
全然記憶になかったんだけど、ソニピク及びコロンビアピクチャーズのロゴが出たんですが、竜そばの時あったっけ、って思ったら今回かららしい。怒るほどじゃないというか、怒るまで至らないというか。大喜利するほどの作品じゃないと思う。

WATCHA3.0点
Filmakrs3.1点
(以下ネタバレ有)
細田守は個人的なことを描く作家だ。自分が結婚の挨拶に行って『サマーウォーズ』を作り、周囲が子育てを始めて『おおかみ子どもの雨と雪』『バケモノの子』になり、自身も当事者となって『未来のミライ』が生まれた。一応、『竜とそばかすの姫』もインターネット時代を自分の娘がどう生きるか、から出発してるらしい。まあつまりは本作は悪意に満ちたこの世界に娘にどう育って欲しいか、そこから着想を得ているんだと思う。最も個人的なことは最もクリエイティブなこと、とポン・ジュノがスコセッシを引用したが、ある種日本でそれを最も地でいく映画監督と言えるだろう。
そして、その舞台に今回選んだのは『ハムレット』。シェイクスピアが誇る悲劇。私はローレンス・オリヴィエ監督主演による1948年版を鑑賞している。父を殺され、母を叔父にそんまま取られたハムレットのポジションを女性にしてスカーレットと名付けたわけだが、そう簡単には終わらない。スカーレットを「死者の国」に追いやり、死してなお復讐するのか?という議題を現代で死んだ看護師の聖と出会わせて考えさせていく…みたいな感じ。異世界転移と語られてはいるが、まあ『バンデッドQ』的な精神世界の妄想、とも取れますな。
まあ褒められたものでは無い。復讐に取り憑かれるスカーレットに対し、とにかく人を殺すな、助けようととする聖の看護師としての理想が対立し、復讐が済んだら第二の死を迎えて「虚無」になっても構わないスカーレットに対し「生きろ」と告げる。そりゃ現代にハムレットを持ち込んでも、自分の娘の話だ、復讐しろ、とは言えない。むしろ、クローディアスたちを世間と見定めて、こうした悪意ある世の中で復讐や暴力に走らず生きていくにはどういう心持ちが必要か、という説教になるのは容易にわかる。分かるんだけど、じゃあ説教の体をなしてくれ、というのが正直なところだ。自分を許せ、という手垢のつきまくった結論はいいにしても、結局それでも剥き出しの悪意が顕現した時に起こるのは、天災による天罰での死。自分が手を下していないからスカーレットの手は復讐に汚れていない、というならなかなか皮肉の効いた結論だが、残念ながらシェイクスピアと違って悲劇では無いんだから困ったものである。そして、勿論圧倒的な悪として暴力を置いた時に、壁を描いた瞬間、それはガザについても考えることになる。そこでの結論が天罰、というのはあまりにもである。まるで無差別に殺されている側が悪いことをして天罰を受けているようではないか。『スーパーマン』でジェームズ・ガンはそこはやった。ちゃんと。ヒーロー譚だからだ。それを求めるのは酷だが、でも頭にはチラついた。そして同じぐらい、だから『バレリーナ』は最高なのだ。完膚なきまで悪に対して復讐をしているから。この両方の供給がエンタメだし、今回は半端だった。
そもそも、16世紀における戦争状態と聖の置かれた状況での命の価値が違いすぎて、まず彼自身が戦争状態であっても人を救う、ということについて葛藤してくれていい。そうでないと、彼はスカーレットに対して善の動機づけをするためだけの存在であり、それは魅力皆無だった悪役クローディアスと何ら変わらないことになる。『ハクソーリッジ』のあいつぐらい書き込みがいるはず。そこまでしてやっと弓を射るのか、殺すのか、その問いの意味が出る。生きろじゃないんだわ。
勿論、細田さん視点で娘にどう生きて欲しいか、だからだと解釈しているが母については出てこない。キー!って言ってるだけ。そういえば細田さん夫婦の映画は作ってないな、と思ったけど親子関係に関心が強いから仕方ないのかな…。ただ、そこにしか関心がないからしれっとナチュラルに聖に家庭を作って子どもを育てることを幸せとして定義していい話っぽく終わる。ここは本作で明確に否定したい点。
『ハムレット』なのだが、どうやらダンテの『神曲』も入ってるらしい。延々引用される作品なのだしそろそろきちんと理解しておけ、とも思うが、確かに見果てぬ場所、階層化で地獄めぐりとかそうだわな、と。ただ、それにしたって直近数年のエンタメとの被りは著しく、死んではいないが世界から弾かれた連中が何らかのデウスエクス・マキナ的な存在に怯えながら過ごし空間、そして「虚無」という単語はあまりにも『ロキ』及び『デッドプール&ウルヴァリン』過ぎる。横断するには大変らしいいくつかの荒野の描写も物足りなく、ここ!というスペクタクルになりそうな砂嵐は『DUNE』で見たっす、となるし、ラストは『すずめの戸締り』を思い出さない方が無理だ。
でもそこには文句はない。ここまで文句たらたらだったように聞こえるだろうが文句ではない。いや、子ども作れは文句かもしれない。一旦それは置いておいて、そもそもの容れ物が『ハムレット』でスタートしてるんだ。借り物の表現が多くたって構わない。復習させるわけにいかないから雷落とすのも許す。でもそれは、ちゃんと開き直って欲しいからだ。細田さんは開き直って欲しいし、そしてその上でブーブー言わせて欲しい。でも今回は開き直って無い。自信がないのか。そう思ったのはカメラの動きやアニメーションの質。スカーレットが死んだと思われて下方向に誘う手のシーンや、焚き火のカットが複数回入るのは本当にやめて欲しいし、ふわっといろんな国や時代の人がいるけどみんな日本語です、と通すのかと思ったらキャラバン隊で別言語でフラダンスを始める。別言語の時点で若干盗用的な気配がし出す(これは容れ物が借り物である時には著しい不備だとは思う)中で、単に横にカメラが動くのだ。そう、これ堪えられないなぁ、と思ったらカメラが上下右左、そしてズームとズームアウトで完全に誤魔化しに入る。これは本当にいただけない。どんなに歪な話であろうと、それは細田さんが思ったこと、したいことだと信じて見に来ているのに、その表現手法で自分の表現したいことが堪えきれない、と考えているのが本当に残念でならない。火山の噴火で吹っ飛ぶ民衆とか、最後の演説を聞く民衆とか、信じられないクオリティのモブもいた。渋谷はあなたのフィルモグラフィにとっても大切な場所のはずだろう。まず馴染ませます、次に踊ります、それでいいのか。手合わせする、さっきよりも強そう、「強い…」言うな。園村さんの設計したアクションは良かったのに台無しだよ。自分の描いたものを信じてくれ。あんな説明役のオババいらん、作った世界を信じてくれ。伝わる。主観視点でカメラを動かさないでいい。焚き火のショットでカメラを動かさない選択をしてくれていい。自信持ってくれ。自信持てるものを作って持ってきてくれ。そっからだ。そっから2034年の渋谷に子どもを持たない人の居場所はあるのかとか話をしたい。