どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
今回は『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』の呉美保監督×高田亮脚本のコンビ。とはいえ、私は『きみはいい子』に関してはめっちゃ怒った嫌いな映画…と思ってたんですが3.6点つけてるんだ、へぇー。見たのが8年前ですもんね、見返したら変わるかな…。

WATCHA4.0点
Filmarks4.0点
(以下ネタバレ有)
まずもって小学4年生の解像度として完璧。クラスの雰囲気、タブレット端末、私立で廊下との境のない教室、適度に乱暴だがいいこちゃん。作文であいうえお連打とか、小賢しいあたりも凄い。ドキュメンタリー映画である『小学校~それは小さな社会~』では、逆にカメラが入ったことによっていい子過ぎるという点では全然見劣りしない。
その上で、好きな子に振り向いてもらいたくて色々勉強一緒にするんだけど、その子はやんちゃ気味な男の子(こいつの出会い頭にっえーい!感もわかりみしかない)の方が好きで、となってはじまってくる三角関係を駆動力にした啓蒙活動。当然先鋭化して、深刻にこそ描かれないが不法侵入、器物損壊、重傷を伴う事故の誘発、営業妨害、ロケット花火とかは傷害(未遂)ぐらいまでいく立派なエコテロリストに。子どもゆえに、結果についてまで考え切れず、遂に立ち行かなくなって最終決戦保護者込み面談。事態を見守るしかない、子どものことを考えようとしてる「ふつうの」母親蒼井優が際立つ。ブチギレ瀧内公美もだが、陽斗ママの全部うちの子は言われただけパターン、やんちゃの子に対して言いたいことも言えない子で…もめっちゃあるあるで首もげそうになる。みんないい人だし、みんな彼らなりに子どもに向き合おうとしてるし、教育熱心なんだけど、でもどこかズレてしまって。子どもの住む世界を悪くしたのはこれまでの大人だろ、大人はしっかりしろ、という環境啓蒙活動としておこなってきたセリフが刺さる。そしてその中で、最新の教育をしっかりカバーして彼らを怒るでもなく寄り添おうとしすぎて「好きな子のために頑張る男の子って素敵」に対して女の子もですよ、とか言い出し始めちゃう風間俊介がこれまた首がもげそうなレベルでわかるの連打である。あの後、警察に顔出さなきゃいけなさそうだったり、保護者の、お金とかお見舞いの話を振られて私からはわからないので聞いておきますを精一杯優しく言ってるのも含めてこの先生には本当に幸せになってほしいものである。この人めっちゃいい先生。
『きみはいい子』でいい先生として描かれる高良健吾が本当にクソ教師だな、と思っていたし、『そこのみにて光輝く』で貧困層を描いた上でこれが出せる呉美保監督と、このセリフを出せる高田亮。お見事。
あと多分主人公の唯士くんを好きな駄菓子デートする子。あの子が1番天才的だし、あれを脚本でかけてるならすごい、アドリブで演出してるなら現場すごい。
徹底して描かれるのは、「聞く」ことですよね。この映画見て学校側に落ち度が!とは思わないのは風間俊介がちゃんと聞いてること。子どもたちは適度に聞かないし、保護者側やお父さんもちょいちょい聞けてない。子どもたちの行為は割と序盤から危険度MAXであかんことだが、でもその言葉に聞く価値が無いわけじゃない。その上で、彼らも酪農農家の努力は知らなかったり、大人側からの応答を聞くことをしてなかった。子どもが不完全なのは極めて普通。でも、大人もまた機能不全に陥っているのも間違いないし。だから、すごい組織論の映画でもある。
ということまで踏まえて、じゃあなんで瀧内公美の首元のタトゥーをアップにする必要があったのかは大変に疑問だ。『きみはいい子』と違って私はブチギレる要素ではないが、しかしいややっぱどうなんだろう。地球温暖化が単なる子どもにとっての親世代である大人の責任ではないことは自明で、その時の大人がその時々で無視してきた蓄積だ。それはすなわち、今回のおとなたちにもまた「ふつうの子ども」だったことがあり、あくまで若い頃のヤンチャはその跡にすぎないとも思う。であるならば、彼女が母親として頑張っている事実、ヤンチャをしてきてないだろう蒼井優のような母親と違う、と描写することに何の意味があったのだろう、とは思う。併せて、影響されただけとはいえ、グレタ・トゥーンベリの活動をエコテロリストと重ね合わせるような作品になったこともちょっとズレは感じる。彼女は活動家にジャンル分けしてもいいかもしれないが、エコテロリストではないだろう。グレタ・トゥーンベリなら冷笑してもいい、という空気は日本に感じる。(10/14追記。グレタ・トゥーンベリはパレスチナに向かい、イスラエル政府によって捕えられ、拷問に近い扱いを受け、それでもなおパレスチナのことを思う発言をした。グレタ・トゥーンベリを軽んじて描いたような作品として『ふつうの子ども』は記憶されることは残念である)
だから、観客が、そして監督自身、脚本家自身も含めて、「ふつうのおとな」になれているのか?「ふつうのおとな」とは何なのか?は今回とは別に考えていく必要もあるのではなかろうか。こどもとおとな、蝶と蛾のように名前が違うことで評価が異なる…なーんて。