どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
昨日はアカデミー賞の授賞式でした。同時視聴配信をご覧いただいた方はありがとうございました。今回はアカデミー賞授賞式に合わせてなんとか滑り込んで鑑賞したものの、残念ながら手ぶらで帰ることになった作品の感想です。

WATCHA3.0点
Filmarks2.9点
(以下ネタバレ有)
いやーダメだったな。微塵も合わなかった。そもそも洋楽はちっとも聞かない上に、音楽は歌詞が頭に入ってこないことを公言している訳ですが、とはいえしんどい時間だった。さっそく話が逸れて申し訳ないですが、ミュージカルが苦手で音楽の歌詞が入ってこない、とか言っているわりにプロジェクトセカイだ、ヒプノシスマイクだ、ベルサイユのばらだ、歌っている映画がやりすぎでは??こっから洋楽のアニメ映画が2本控えている4月が怖くて仕方がありません。
さて、で、今回の題材であるボブ・ディラン。まーじで知らない。実際音楽を聴いた結果、本当に知らなかった。こういうのって、聞いてみたら「ああ!あれか!」ってなるもんだと思ったんですが、全然知らなかった。洋楽を聞かずに生きてきた、という自負はあったものの、ノーベル文学賞ですよ、ノーベル文学賞をソングライティングで受賞するほどの人の音楽を聴いたことがない、って自分の文化的素養が如何に無いか、というか、色んなものに興味があるように自分を語っているくせに全然視野が狭いことが露呈するばかりでございます。だからって、別にこれから洋楽を聴こう、ともならないのがなんというか、変な開き直り方をするようになったというか、年を取ったというか。
話としてはボブ・ディランがウディ・ガスリーというミュージシャンを見舞いに行ったところから始まり、そこで知り合ったピート・シーガーに見いだされてフォークソングの旗手として名をはせ、そしてそこからの逸脱でアコースティックギターからエレキギターに持ち替えた、っていう話。アコースティック・ギターがエレキ・ギターになったことでどうしてそんなに怒るのかは良く分からない(島津亜矢がどっちかっていうとソウルとかで世界を狙ってるのに演歌ファンがキレてるとか、氷川きよしがドラゴンボールやってキレてるとか聞いたことない、ぐらいのイメージ。当時はディランにキレてる人いたとしても、それを2024年に映画にしたなら、描く意味のある変化であってほしいのだが)が、まあとにかくこの映画を見る限りでは、ボブ・ディランは自分のやりたい音楽をやっていて、とにかく他者から求められるものをやる、というのが嫌っていうことのようで、そういう話で言えば納得はするラインのテーマのはずではある。あるのだが、うーん、じゃあ納得するかと言われると全然行かない。
まず基本的にこの映画を見て、ボブ・ディランって凄い!とはならなかった。周りにいたら本当に面倒なやつだな、という印象しかない。夜中にジョーン・バエズの家に突然やってきては作曲を始めて「何しに来たんだよ」と訊かれてるとことか顕著なんだけど、普通に腹が立つ。既に関係を解消したシルヴィのところにやってきてタオルだけくれ、と言ってああ居場所じゃないんだと思って悲しそうに出ていくのとか、いや当たり前だろ、と。自分はやりたいようにやるけど、相手がやりたいようにするとヘソ曲げる、というのは単なるわがままであり、それを才能があるから許す、というのは単なる甘やかしだと思うのだ。自分を見出してくれたピートの番組にも遅刻してから乱入するし、彼が運営するフォークのフェスに呼ばれていっているのにそこでエレキをやるっていうのは、やりたいのかもしれないけどそりゃコード引っこ抜こうとされるって。エレキをやるのが気に入らない、とかじゃなくて、フォークのフェスだ、って呼ばれているんだろ。じゃあやれ、と。嫌なら仕事を断れ。受けたならやるか、ちゃんと説得する努力をしろ、と。子どもの発表会じゃないんだよ。ミュージシャンの気まぐれで会場がああいう事態になって、例えば放り投げられたものにあたって誰かが怪我をした時、その賠償責任は当然ボブ・ディランにはいかないだろうと。マジで。それで師匠の顔潰してどうすんだと。アプレンティスかよ、と。そう思い出すと頭だからイライラしてくる。新聞で入院を知って勝手に見舞いに押しかけるな、まして歌うな。まあ最初の場面は許されたのかもしれん。オフィシャルに注意されたら謝れ、公共の場をなんだと思ってんだよ。あんたがファンから求められるのが加害なように昏睡していようが、安静が必要な場所で歌うのも加害だよ、どうしても彼に聞いてほしいなら金払って個室に移ってもらえ。
ミュージシャン、ソングライターとして彼がどういうタイプだったか。自分が好きな音楽を作れればいい、なのか、音楽は聴き手がいて初めて成立する、なのか。まあ画家なんかでよく話題になるテーマですな。ここが一応聴いて欲しそうに私には見えたんですよね。なのに社会からのまなざしは拒否してサングラスをかけていて。人と話すときにサングラスをかけっぱで突然煙草をふかし始めるような奴はまともに人と話す気が無い、他者を尊重していないで、自分の音楽の触媒ぐらいにしか思っていないのでは?という偏見がMAXな自分の狭量さを思いつつ。期待を背負いたくない、でも聞け、は傲慢に見えるし、そうみると公民権運動から作るのもいい素材みっけ、みたいな感じに見えた。彼が求めたのは自由なのかもしれないが、彼が行動はわがまま逆張りにしか見えないし、もたらしたのはほとんどアナーキズムみたいな虚無に見えて、それが魅力的に映らなかったのだ。いったいぜんたい、彼がどうしてノーベル文学賞を他のミュージシャンが成し得なかった偉業をなされてるのか、それが全然分からない。滅びつつあったフォークがリバイバルし始める中で、それを記録して残すことを頑張ってた図書館の人の方がよっぽど主役として相応しく思えた。
ティモシー・シャラメがアカデミー賞を獲りそう(3/1に執筆。獲らなかった、なんかすまん)な中で、これがとったら正直冷めるというか。まるでボブ・ディランそっくり、本当に歌って、弾いてすごい。それは分かる。でもそれって演技が凄いんじゃなくて、練習いっぱいして凄い、ではないのか。確かに世の映画には自分で歌ってないような作品もある。だから自分でやったら加点、なのか、一旦止まって考えてみよう。どっちかというとシャラメの今回が基本ではないのか。落語家の役をやるなら本人が落語やって凄い!とはならないだろう。いや、なるのか?出来ないならら違う方法を考えて映画にする。トータルでこの映画がいい映画になることが大切。特殊な技能を必要とする役に対して、『蜜蜂と遠雷』なんかでは確かに褒めた記憶があるので、かつては自分でやっていることに褒めはあった気がする。自分の中での評価軸も変わっているのかもしれない。スタントを使わないアクション俳優が大幅な加点なのか。(トムの場合だけ除く。あれは映画じゃなくて伝統芸能みたいな評価軸になってる)突き詰めると、演技に内包されるもの、あるいは演技を評価することの本質とはなんなのか、を自分に問いただすことになるのだろう。そんなもんの答えは当然出るわけはないので引き続き考えるしかない。考えるしかないけど、ミュージシャンの伝記映画で楽器できて凄い!は今の自分にはないなぁ。それで褒めるならその時間と予算を確保しているプロデューサーか。
正直、例えば小説のキャラクターを実写にしても違和感ないように演じること、あるいはオリジナルの架空の存在に説得力を持たせること、こっちの方が私は断然応援したいというか。架空の建築家ラースロー・トートが、まるで本当にいたかのように振る舞える方が好きだし、そこを評価していかないとオリジナルは本当になくなってモノマネ合戦に俳優賞がなってしまうのではないか、と多分演技賞を巡って20周ぐらいされているであろう当たり前の議論の感想を抱きましたとさ。そういう意味では、完全に無視された格好ですが同じシャラメでもポール・アトレイデスさんの方が好きです、というのが正直なところ。あ、もっと好きなのはネトフリ映画の『キング』ですね。
あるいは、もう演技を求めていない可能性がある。自分の関心がドキュメンタリックな方向に向かっているというか、演じるということ自体が気になってるのかもしれない。