どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
アカデミー賞の授賞式が終わった頃のはずです。さあ一体どんな結果になっているのでしょうか。

WATCHA4.0点
Filmarks3.8点
(以下ネタバレ有)
いつも社会から掬いきれないところを掬ってみせてくせる、しかもそれに変に感動フィルターをささないショーン・ベイカー。今回は冒頭からガンガンヤってるとこスタートのセックスワーカーが偶然とった客がロシアの大富豪の息子。気に入られてあれよあれよと結婚したけど、そんなん許さへんでなご両親のご意向を受けたアルメニア(アルバニアだっけ?)たちの珍道中。そして完結へ、という流れ。
事前には『プリティ・ウーマン』の現代解釈版、みたいな話も聞いていたけど『プリティ・ウーマン』というよりスコセッシのギャング映画の印象になる。どうもこうも完全にロバート・デ・ニーロと同じような顔で同じような位置にほくろを持つトロスなる男のせいではあるのだが。滑って部屋を移動する浮かれポンチ童貞にしか見えないイヴァンとの蜜月な日々を過ごしている頃はともかく、アノーラ自身は非常に言葉が達者でとにかく考えて裏をかこうとするし、言葉上で全然負けない。縛られる縛られないのくだりもそうだし、きちんと叫んでなんとかしようともする。HQでのダイヤモンドの言動からしてもそうなんだけど、ああやって意見言わないとやっていけないんだろうな、と。ある種の生存戦略というか、生きる術なのだろう。トロスはトロスで非常に不快感あふれる言動を繰り返し、他人に説教しイライラさせ、他人の時間を奪っていることをまるで気にしないクソ野郎なのだが、まあとにかくこの2人ペースで言いたいことをちゃんと全部感情的かもしれないレベルでぶつけ合う。暴力だけはナシ、というルールも提示されているので暴力性の発露はあっても暴力はないスコセッシなのだが、それでも全然見ていられるというか、『レッド・ロケット』のマイキーも持ってた醜い自己アピールの塊なのである。
話が『プリティ・ウーマン』からどっかに飛んでいってしまったので戻すが、そも『マイ・フェア・レディ』が貴族社会への教化をベースにした話であり、『プリティ・ウーマン』は確かに娼婦との関係だが、完全に金額で殴ってホテルの社会資本をぶんどって「成長」させて自分好みにする話。だが、ショーン・ベイカーはこの2人の関係に「成長」は求めなかった。現代版というより、アンチテーゼ的だ。アノーラ自体は階層的にのし上がり、そしてしがみつこうとしているわけだが、ボンクラ息子も別にアノーラにロシア社会とかに帰属するように求めるでもないシンプルなグリーンカード目当てのしょーもない結婚だし、親の金で遊んでるくせに親に結婚知られたくない、みたいなバカ息子なので、言い方は悪いが低い位置で戯れあってるだけである。「成長」のない関係性を否定されそうになった時に、自分の存在を主張し、認めさせてるんだ、という言論ゲームがそこで行われ、最終幕はその認めさせるゲームのしょうもなさに気付き、ちょっとした慰めのような感じ。ゲームから降りたことを象徴するように指輪をぶん投げて欲しかったのが正直なところだが、今回のことでアノーラも「成長」したわけでないし、アニーじゃなくてアノーラがいい、そんままの自分でいいのさ、という語りになることからも成長を求めてはいない物語のはず。ショーン・ベイカーだもん、そこにそうやっているだけで肯定するのだ。
米露だったらどういうキャラ造形にしてもいいんです!というぐらいロシア側は酷かったが、パパが1番やべえよな。子どもに要所でいい顔をしたがるけど奥さんには決して刃向かわず独裁を許し、アノーラの振る舞いにこいつは気に入ったみたいな笑いを届ける。発想が金持ち。アブラモビッチってこんな感じだったんだろうな、話せばいい人、みたいな扱いなんだろうなって。この映画だけ見たらロシア人の自分の意見しか考えてなさすごいもんな。レッカーの人、クビになってないといいな…
個人的にはなかなか評価の言葉が難しい作品であって。アカデミー賞を取るか、と言われたら取って欲しくない、と答えます。でも、これが取るならそれはショーン・ベイカーという監督の描いてきている、社会の網から落ちてしまいそうな人たちを感動ポルノ的に消費はしないでありのまま見せる姿勢が一つのジャンルとして結実した瞬間として歴史が評価するのではないでしょうか。