どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。
今回はシアター・イメージフォーラム案件。冬は抜群に寒い映画館なのを忘れていたので上映中に震えていました。

WATCHA3.5点
Filmarks3.5点
(以下ネタバレ有)
本作は境界線上を捉える試みの中でもぶっちぎりで凄い境界に挑んだ作品だ。映画から読み取っただけなのであっているのかよくわからないが、「Day Z」というゾンビが存在する世界で過ごすタイプのオープンワールドゲームが題材。ゲームを題材にした映画なんていっぱいある?ノンノンだよ。なんと本作はそのゲーム内の画面だけで完結するドキュメンタリー映画であり、そういうことをしたかったような気もする『デモニック』でお馴染み(?)ブロムカンプも真っ青である。個人的には、オープンワールドのゲームも全然しなければ、基本的にターン制かシミュレーションのゲーム、あるいは慣れ親しんだスポーツのゲームばかりをプレイしていて馴染みが全くない世界。このゲームが一体何を目的にして、どうするとクリアなのか、っていうかクリアっていう概念があるのか。銃器を携帯し、人も殺せる。来客者に対してはしきりに腹は減ったか、とか聞くので食欲とか飢え、みたいなゲージもあったのかもしれないし、作物を植えることもできる。方位磁針もあるが、星空がリアルでそれをベースに道を教えてくれたりもする。このゲームは一体なんなんだろう、説明は特にない。
さて、では問われる。この映画は一体どういう枠組みに当てはまる映画なのか。邦題を考えても「非人間のレポート」であり、レポート=記録ということも含めてドキュメンタリー映画であることは異論はないだろう。ゲームないだろうとなかろうと、ある場所に行って当事者にインタビューした様子を集めたものを、人はドキュメンタリー映画と呼ぶ。では、手法からは?ここが自分にとっては大きな問題だ。当然ゲーム画面がメインとなる作品なので、実写映画ではないだろう。映る背景もキャラクターもみな作られたものだ。では、これはアニメーション映画なのか?毎月参加しているアニメーション映画を語るアニならという配信番組で開催主である井中カエルさんが2024年上半期ベストにVTuber事務所にじさんじのGTAを挙げて、これをアニメーションドキュメンタリーと称した。どうにもすっきりいかない。実際のゲーム画面を通してアニメーションで動く(といっていい)キャラクターが生配信したものを編集を加えて映像化している、というのは確かに要件定義は満たしている気はする。翻って本作。ゲーム画面で行われているインタビューの様子を編集して届けている訳で、これも定義的には同様と言えるだろうが、でも確かにそこに差異がある気がする。うすうす気づいているかもしれないが、この辺はもう個人的な煩悶の時間である。感想でもない。
『ニッツ・アイランド』を見ていて気になったのはまずは主体性を取り上げられたゲーム画面、というところだ。オープンワールドのゲームはどこまででもいけるはずであり、それこそ自分がコントローラーを握っているからこそ楽しい…んだと思う。それを映画というメディアに落とし込むとき、1人称は監督及び撮影クルーになってしまい、そこに映画を見る主体としての観客は参画できない。映画を撮っているチームにとっての主観映像しかない(一定以上の視点操作や客観映像も撮れるが)のに、観客はそれを完全に客観で見る。別に実写映画だってそうじゃないか、と言われるとそうなのだが、ここのカメラの話は突き詰めてみたらなんか分かる気もするし、分からない気もする。
それから、アニメーションであってアニメーション表現なのか?というところも考えたい。Netflixで公開された『イベリン 彼の生きた証』という作品はゲームのログからゲームエンジンを用いてアニメーションを作り上げており、表現としてのアニメーションっていうものがギリギリ残っていたと感じていたのだが、本作の場合はゲーム画面自体であり、それはこの映画の監督が要求する表現ではなく、ゲーム会社が事前に作った表現なのではないだろうか。うん、ここでも主体性である。自分の身体を用いずに演技を行う時、その演技の主体は一体どこにあるのか。突き詰めれば、アニメーション映画でも声優とアニメーターとの演技主体の引き合いでもあるだろうし、この作品でもボイスチャットのおかげでしっかり本人の声ではある。ここの表現主体を考えてアニメーションかどうかを分類すると、ゲーム配信の切り抜きはアニメーションじゃない、のかもしれない。
さて、枠組みとしての話はこれぐらいにしておいて本編の感想になると、これがまた難しい。常に自分も撃たれる危険のある取材として、緊張感はある程度あるはずで『シビル・ウォー アメリカ最後の日』に近いような肌感を当初は感じていた。実際、どっかのプレイヤーキャラを捕まえてきて奴隷扱いして「今日の仕事は机の装飾になることよ!」なんてのたまうカオス大好きプレイヤーキルもカニバリズム集団との邂逅はかなり面白かった。
だが、事態はどんどんおとなしくなっていくというか、個々のプレイヤーが現実とゲームの世界をどう切り分けているのか、みたいな話にちょっとずつなっていく。そうすると、緊張感は薄れていき、この手法だからこそ出来るドキュメンタリーというよりは、普遍的なゲームについてのドキュメンタリーの話になってしまった印象は拭えない。結局SAO、それも現在2期を放送しているガンゲイル・オンラインのような身体に危険の伴わないようなフルダイブ型とそんなに変わらないというか。
やっぱりこの映画の面白かったところを思い出すと、カルテルの女性リーダーと話していたら、現実世界で犬が吠えているのを謝っていたり、子どもが転倒したので様子を見に行った時の彼女の表情、だったりする。だって、所与の表情しかしていないはずで、そこには何も違いがないはずなのに魂の肉体の別離がそこに確かに表現されているように見える。そうか、そういう意味では凄く実写っぽいな。ライブアクションというか。ここの表現手法の異なりによるなにがしか、が面白かったのだが、後半はコロナ化を踏まえた話になっていったりしてその要素はいらんなぁ、となってしまった。