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観察映画第10弾「五香宮の猫」感想

 どうも、抹茶マラカス(@tea_rwB)です。

 今回は、想田和弘監督による観察映画第10弾。これまで随分と映画に顔を見せてきたお馴染みの猫をついにタイトルに起用する覚悟の決まり方です。ワイズマンと想田監督を同じ年に同じ渋谷で見る。2024年は自分の映画体験にとっても重要な年になったかもしれません。

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WATCHA4.5点

Filmarks4.6点

(以下ネタバレ有)

 カメラを置く舞台は岡山の港町牛窓。最早おなじみになった町でもある。想田監督夫妻がNYから住まいを移し、『牡蛎工場』『港町』の舞台になった場所…のはず。『牡蛎工場』を見れていないが、本作でも1度牡蛎工場が出てきたし間違いないはず。牛窓本町には、五香宮というお宮があり、そこには野良猫が多く屯している。一応五香宮にカメラを定点観測するぞ、という心意気でそこに集まる猫と人を撮る、ということにはなっているがまあカメラもフレキシブルに動く。とはいえ想田監督の観察映画だ。当然字幕なし、テロップなし、BGMなし。岡山の方言だろうが標準語にも直してくれない。ただ、この観察映画の条件は特に前半を引っ張ってくれる猫の撮影には適しすぎている。単純にネコカワイイ、で画面が引っ張れる。当然言葉も話さなければ、表情だってすぐわかるわけではない。猫のしっぽの立ち方だったりで読み取る、そう読み取るのだ。映画のスクリーンに何が映っているのか能動的に探りに行くべき観察映画において同様の挙動を猫に接する人たちもしており、そして猫自体に対して我々もスクリーンのこっち側でしている。これが題材としてあっており、猫が映っている限り画面が散漫にならない。

猫に対して人間が如何に無防備であるのかもまた示している。まるで猫界の公用語が赤ちゃん言葉であるように猫に接し、餌を与える人々は赤ちゃん言葉になっており、釣り人は釣り上げた魚を猫に取られても仕方ないなと笑い飛ばせる。こういうのを猫との共生というのだろうか、なんて思って微笑ましく見ていると、しかし魚を奪い取った猫が魚をくわえて子どもに分け与える風景に彼らには彼らの社会と規律があり、人間はそれを何も分かっていなことを知らしめる。ちょっと遠景になってみても、軒下、車の下、神社の予想だにしないところにフレームインしており、正直街中の猫をここまで捉えたというだけでナショナルジオグラフィックとかそういうジャンルでかなり上位の出来ではなかろうか、と思わせる。

それだけ愛くるしい猫描写を見せておきながら、映画は突如野良猫を捕獲するフェーズに入る。猫が爪のような凶器を備えていることや、閉じ込められた瞬間の俊敏さに野性を感じながら、見ているこっちは完全に人間酷い、になる。当然、この捕獲は彼ら・彼女らを去勢・避妊させてこれ以上の繁殖をしないようにするためのものであり、イヌ同様家畜化された動物としては当然の処置というか、人手も限られる港町で人以上に猫が繁殖しては猫に乗っ取られてしまうし、と分かるんだけどでもそれって人間の論理じゃん、なんて思ってしまう。映画の終盤は3匹の子猫が突如現れる。猫が多い場所だからと捨てたどっかのバカがいるんだろうと示唆される。徹頭徹尾人間の論理で左右される猫。じゃあ猫が居場所を奪ったっていいじゃん、ネコの権利が一体どれだけ尊重されてないんだという憤慨と共に、家畜化された動物の権利、という頭がぐるぐるしそうな難題にぶつかってしまう。

正直、猫をタイトルにつけたこともあって猫出ずっぱりを期待していたので思ったより人間の話が多くて人間パートは退屈さもある。だが、終盤に猫の死も描かれることで、この牛窓という集落における人がどう生きて、どう死ぬか、その中心としてのお宮、という撮影対象が輝いてくる。前半に頑張って読み取ろうとした猫なりの社会や規律同様に、人間にも人間なりの社会・儀礼・宗教があり、御簾に8万8千円を支出する方法に会議を行い、獅子舞に子どもの頭を噛ませる。それと猫が気ままに過ごしているように見えることに何の違いがあるのだろうか。




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