さて。
2年が経過して、それにしてもともかく、書く余裕というものが消失していたのは、娘のこともあったけれど、そればかりでなく、ついに父の介護が始まってしまったという事情による。最初は週に1度に実家に通うことで足りていたのが、気づけば、毎日になってしまった。まず、床に落ちているおむつを捨て、廊下に尿の水溜りがあれば、これを拭き、食べていない前日の夕食の残飯を捨て、皿を洗い、夕食の準備をする。土曜日にデイサービスの送り出しを行い、2週に1回は、在宅勤務の合間を縫って、通いのマッサージの先生を向かい入れる。月に1回、医者に連れていく。
もちろん、要介護2なので、そうは言っても、私の介護の負担は比較的軽めであり、加えて、皮肉なく優れた介護制度のおかげで、週2回の掃除と洗濯はヘルパーにお願いできるばかりでなく、他の予定をあまり入れなくなってしまったので、時間的な余裕はなくはなく(その証拠に、介護が始まってからのほうが読書量は飛躍的に増えている)、それにしても、余裕というか気力がなく、何かをまとめて考えて書けるような感じでもなかった。むろん、介護のことを書いても、気晴らしにならないというところもある。
そう述べて直ちに前言を翻すことになるが、それにしても、久しぶりに書きたいと思ったのは、介護のことで、より具体的にいえば、父がどんどんと食べなくなっていることを受けて、分からなくなってしまったことを書きたい。
つい半年前までは、食事を持っていけば、さらっと食べて、じゃあ、さよなら、というところだったのが、このところは、まず、起き上がらせるのに説得を行い、次に着替えさせるのになだめすかし、最後に食卓に座らせ、水やお茶ばかりを飲んでいるのに対し、一口で良いから、食べるように順々と説き伏せ、ようやく、ごはんをひとかけら、介護食を半分を口にするという次第になり、その経緯の中で、いろいろと考え、うまくまとまらないことをようやく書こうかという気になったのだった。
食事を並べて、起こそうとすると、父は「横になっていたい」「あとで食べる」「もう死ぬんだからいい」「また、無理強いして」と、いろいろと言うわけだが(その結果、ヘルパーでは手に追えないとのことで、私が対応することになっているわけだが)、それをなだめすかし、さらに食卓でごねるのを受け流し、食べさせるという作業を行なっている中、不思議に思うのは、それにしても、俺がこのように何とか食べさせようとする理由は何なのだ、ということであり、いや、本人がそう言うなら、無理に食わなくて良いのではないか、という抽象的な、しかし、本当のところは、全くそうは思えない思いも浮かび、結局、父が全く食べないのも癪に触るという素朴な衝動に駆られ、順々と説得する。ほとんど食べさせられない日は敗北感を抱えて帰宅し、逆に、ある程度食べれば、奇妙な達成感を得て帰宅する。それにしても、どうして、そうなのだ、と不思議になる。
息子のパターナルな配慮という語義矛盾をはらむ言葉で整理するというか、自由とパターナリズムの相剋ですな、と腕を組んで頷くこともできるのだが、しかし、そういうものでもないだろうというか、少なくとも、私個人の中では、そういう葛藤はない。食べなければ、死ぬんだから、無理してでも食べさせるべき、という判断に揺るぎはない。私は、一般論として、どちらが正しいかという話をしているわけではなく(加えて、社会一般的な正義を固定的に考えたり、それがいかにあるべきかとの結論を探る作業も私は嫌になってしまったところもあるのだが)、本当のところ、私個人がどう思って、そういう結論になるのかを知りたい。つまり、父がいかにごねようが食べさせるというほうが性に合っており、その性に一切の疑念も抱いていない。私が知りたいのは、それにしても、俺は、どうして、食べさせようとしているのか、という個人的な理路ということになる。
もちろん、私が読んだ限りとの留保をつけるので、まったく間違っているかもしれないが、食べようとしない人に無理して食べさせようとしても、本人が食べずにこれを拒否して、食べさせようとする人がやきもきするというシチュエーションは、19世紀以前の小説の中であまり描かれてこなかったのように思う。これは、20世紀に入るまでは、多かれ少なかれ、皆が皆、空腹で、そういう問いすら浮かばなかったからなのかも知れない。20世紀に入って、窒素を固定化し化学肥料ができ、作物が取れるようになり、家畜も増え、(少なくとも、先進国と呼ばれる国々の中間層にとっては)食うに困らなくなってようやく、カフカの「断食職人」という食わない人の原型が現れたのではないか。
それにしても、この段階では、まだ、食わない人の傍にいて、やきもきする人というのは不在であり、むしろ、断食を見せ物として喜んでいる人が食わない人の近傍にいるのであって、そういう意味では、食わない人に対し、いかにも無邪気というか、食わない人の意思決定を問題だと思う視点はなく、カフカの「断食職人」の文脈では、ハンガーストライキは功を奏しない。19世紀的世界観というか、食わなければ、食わないでいい、というレッセフェールの世界がそこにはある。
その後、どういう文学史的な経緯を辿って、クッツェーのマイケル・Kが出てくるのかは私には分からないし、もしかしたら、私が読んでいないベケットの小説の中に食わない人が出てくるのかもしれず(石をしゃぶって、小便を垂れる人は出てくるので、いかにも、ベケットの世界にも、食わない人がいるような気もするのだが)、こう言い切ることはできないと思いつつ、マイケル・Kは、カフカの断食職人を承継しながら、同時に、食うのが当たり前であるとする、こちら側の価値観をじわじわと侵食し、あやうく転覆しかねないところまで押し寄せてきていると私は感じる。
断食職人を承継しているというのは、マイケル・Kの「K」がカフカから取られているとの文庫本の解説知識に裏打ちされた脆弱な見解ではあって、そう言い張るつもりはないと重ねて留保をつけるが、しかし、あの人は断食職人の血を引いていると、私は思うし、食わないことに自縛されているんだから、それはそうだろう、と乱暴に言い放つ心構えもある。
それを前提として、あの作品では、断食職人が我々に近づいてきているというのは、マイケル・Kが食わなくなる過程が描かれているからという理由がひとつ。つまり、断食職人が食べない理由がよく分からないのとは異なって、彼がひとつの決断ないし自律した意思決定の結果として、食わなくなった事情、つまり、山羊を殺して食べた後に食べなくなったとの経緯が詳細に描かれており、これを読むと、ああ、この人、自らの暴力性を否認するに至ったんだな、と納得できる。断食職人と読者との間にあった断絶は、マイケル・Kによって架橋される(正確にいえば、かぼちゃや昆虫は食べるので、全く食べなくなったというわけではないが、しかし、より暴力的ではない形で食べようとするマイケル・Kの姿は、食わないという意思決定に連なっていくものであると、私は思っているのだが、まあ、しかし、物語の終わりで食べ始めてしまい、あれをどう解釈するんだと問い詰められれば、言い繕わなければならないので、そう言い張るつもりもない(のだが、まあ、言い繕う自信はあり、ただ、面倒なので、言い繕わないし、言い張らない)。)。
もうひとつ。マイケル・Kがこちらに近づいてきた挙句、こちらの考えを転覆しかねないという印象をもたらすのは、マイケル・Kに食わせようとしてうまく行かずに揺れる医師の独白であって、当初、食うのが当たり前であるとしていたはずの医師がどんどんとその価値観を疑い始める過程も丹念に描かれ、これを読むことによって、あの哀れな医師を介し、食わないというのも、ひとつのあり方として、ありかもしれないと、読者が、いや、私がそう考えそうになるのであり、まあ、優れた小説というのは、人を感化するところがあるといえば、それまでであるが、それにしても、父に何とか食べさせようとする性をもつ私ですら、そのあたりまでは、断食職人ないしマイケル・Kに近づいていくわけだ。
いや、まあ、そうかもしれんな、と思いつつ、ふと、ハン・ガンの『菜食主義者』を思い出すことになるのだが、あの小説では、食べることと暴力はより近づいてくる。もっと言えば、食わない人に食べろということ自体が暴力であるかのように描かれることになり、さらに、そのような干渉がまた男性性の暴力に結び付けられることによって、男である私は、かなりきつい思いをしながら読み進まつつ、人が食わなくなる、その先のことを知りたいと思うに至る(ただ、あの小説において、暴力と食べさせようとする行為は異なる行為であって、これを同一の地平にあるかのように解釈してしまってよいのかとの懸念もあるのだが、そう読む余地は十分にあり、また、仮に、そう読んだとして、食べさせようとする行為の暴力性には、両儀的なニュアンスが含まれているのではないかと考えられなくもなく、誰が何を食べさせようとしているのかという観点から、もう少し丁寧に論じなければならないのは事実なのだが、ややこしくなるので、さしあたって言い放っておく。それとともに、フェミニズム的観点から、あの小説を読むことが、さしあたっての正解であるというのは、そうなのかもしれないが、私は、そういう風に読んでそういう風に語るのも、もう嫌になってしまったし、自らを省みるつもりもないし、かといって、義理の妹とセックスをしたり食べるように勧めて何が悪いと開き直るほどは強気でなく、かといって、男がああいう風に欲情してしまうところもよく分かり(読み手を宙吊りにするため、そういう風に作られているのではないか)、いずれにしても、中途半端なところに留まるほかなく、私からすれば、それがしっくりくるので、きつい思いをしたという感想を抱いたことだけを書いておく。)。むろん、優れた小説であるので、説得力は半端なく、結末もよいというか、そういう視点からすれば、そうなるだろうと思う。食わない人の系譜という観点に戻ると、食べるという自明な行為に違和感に感じ(いや、父はともかく、俺は食うことを止めないが)、マイケル・Kのさらに先にまで持っていかれる。
そうしながら、ふと立ち止まり、振り返る。それはそうなのかもしれないが、それは違うのではないかと小声で呟く。おそらく、そのように小声で呟かせる衝動のうちに、私が父に食べさせようとする理由があるのだろうと思う。
マイケル・Kの医師や菜食主義者の主人公の家族が食べさせようとするのは、確かに、個人の自律的な意思決定を覆そうとする試みであって、個人が個人として領有する身体を侵害する行為にほかならないわけだが、私は、個人が個人として領有する身体というジョン・ロック的な価値観を肯定しつつ、しかし、これを貫徹することはできないし、そうすべきではないのではないかと考えているようであり、他者の身体を完全に自由に処分することができないのと同様に、自らの身体もまた、完全に自由に処分することは許されないのではないかと考えているのではないかと思う。
では、なぜ、そうなのか、と私は問うているのだろうが、そこから先がよく分からない。自分の身体を完全に自由に処分できるということになれば、ひいては、他者の完全な同意さえあれば、他者の身体も完全に自由に処分できるとの理路に繋がるんじゃないですか、という分かりやすい話もできなくはないが、しかし、他者の完全な同意なんていうものは観念できるのですか、言わせてもらえれば、他者が他者である限りは、他者の完全な同意を自己は認識できないんじゃないですか、いや、時間の観念を考慮すれば、完全な同意というか自己の完全な同一性って、粗雑なアニメの主人公くらいしか持ち合わせていないんじゃないですかという心の声があり、それは理由にならない(そういう理由で、私は安楽死は否定しているのだ。たとえ、ゴダールがそうしたとしても。)。
こうして、結局、よく分からないというか、まとまらないことになるのだが、実家に向かう中で、ふつふつと考えていることをまとまらないままに書いて、少しは気が晴れた。分からんことばかりですよ。