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三軒家の大蛇

三軒家の大蛇 (さんげんやのだいじゃ)


小山東町の三軒家は園部川の本流で、そこに才ヶ淵と呼ばれる大きな淵があった。
その畔の岩穴に三間(約5.5m)余りの大蛇が棲み、農作物を荒らしたり人畜を害して人々を悩ませていた。
特に夏になると農家の娘や旅の娘たちを呑み殺し、ある時は丹後から都へ上る途中の父娘の親子を呑み込んだこともあった。
村人たちは何度も退治を試みたが失敗に終わり、大蛇を鎮めるため、毎年十一月十日の夜に娘を人身御供に捧げていた。
そこで園部村の赤坂左近尉唯重という男が大蛇退治を決意し、都の領主の九条殿を訪ねて相談したところ、白羽の矢を授けられた。
そして唯重は園部村に帰り、春日明神へ一週間の願をかけ「悪大蛇を退治させたまえ」と必死で祈った。
すると満願の日、うたた寝をする唯重の前に春日明神・猿田彦命の使いを名乗る白髪の老人が現れ、大蛇退治に助力することを告げて姿を消した。
そして唯重は丑三つ時に才ヶ淵へ行き、姿を現した大蛇の左目に白羽の矢を射かけて退治した。
大蛇の死体は曽我谷の善願寺の阿闍梨に埋めてもらったが、翌年から大蛇の亡霊が現れたり、熱病が流行したり、大蛇を埋めた塚の近くを通った時に転んで命を失う者が出るなど、不吉なことが相次いだ。
そこで村人たちは才ヶ淵のそばの山に祠を建て“大塚権現”と名づけ、大蛇の霊を祀ったところ、再び村に平和が訪れたという。

『京都 丹波・丹後の伝説』「三軒家の大蛇」より


この話は文明元年(1469)に赤坂唯重が記した『講当由来記』にあるもので、永禄五年(1562)に唯重の孫の重利が書き写した古文書が子孫の井上家に伝わっているそうです。
『船井郡名勝史蹟案内』や『丹波の伝承』にも同じ話が載っていますが、こちらでは赤坂唯重の名前が「井上某(または私市の某)という豪傑」になっており、領主から白羽の矢を授かるシーンや猿田彦命の使いの老人が現れるシーンがなく、井上某は助力を得ずに単独で大蛇を退治してしまいます。さすが豪傑。
また『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』では、大蛇を埋めた塚の前を通ると転んで死ぬ人が続出したため、唯重はその対策に「着物の袖を切って塚に供えれば無事に通れるよ!」というお触れを出しました。それ以来、塚は「そでの森」と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに三軒家の地名の由来は、かつて小山の辺りは三軒しか家がなかったからとも、長さ三間余りの大蛇を退治したことから「三間蛇(さんげんじゃ)」と言っていたのが、次第に訛って「三軒家」になったとも伝えられています。

大塚権現社
園部町小山・天神山の大塚権現の社。
朱鳥居が並ぶ参道を抜けて山を登って行くと、山腹に稲荷社をはじめ幾つかの神社が階段状に建てられており、大塚権現社はその一番上に鎮座しています。(『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』では「大蛇大権現」という名前になっています)
社には新しめの注連縄と榊が供えられており、今でもしっかり管理されている様子でした。
今も行われているかはわかりませんが、唯重の子孫である井上家は毎年十一月十日の深夜二時に、人身御供の故事に倣って大塚権現に酒や野菜などを供えるそうです。昔は鮒十二尾、白豆腐一丁を供えていたんだとか。

大岩大神
大塚権現社の裏手には「大岩大神」と彫られた石塚があり、その背後にはかなり大きな岩が聳えています。
『京都 丹波・丹後の伝説』によると、ここに大蛇の霊を祀っているそうです。

岩波稲荷
大塚権現の下手にある稲荷神社(岩波稲荷)。
賽銭箱の横の扁額には「正一位稲荷大明神」とありました。伏見稲荷から勧請されたものでしょうか。
ただ大塚権現と違ってあまり管理されていないのか、参道の朱鳥居は大半が朽ちてへし折れ、社殿もかなり荒れていました。
心なしか左右の稲荷もしょんぼり気味に見える。


伝承地:南丹市園部町小山東町


大左衛門

大左衛門 (だいざえもん)


昔、洞村に“大左衛門”という大男がいた。
ある日、大左衛門は酒屋に酒の運搬を頼まれ、四斗樽を四つ担いで口郡(船井・亀岡方面)へ向かった。
無事に酒を届けたものの、一度に一石六斗(樽を含め約280kg)の荷物を急いで運んだので、大左衛門は猛烈な空腹に襲われた。
そこで配達先の主人から魚や野菜、米などをもらって洞村まで戻ると、ちょうど正三角形に対峙してそびえる三つの山の頂点に大鍋を置き、山を五徳代わりにして食材を煮炊きし始めた。
だが途中で空腹に耐えきれず、食事を取ろうと大鍋の取手に両手をかけ、腰を屈めて持ち上げようとした。
するとその時、大左衛門の額が五十町(約5km)離れた所にある洞の山につかえ、体を起こした拍子に山を押し上げてしまった。
そのため、洞の山は周囲の山よりも一段高くなり、「大爺ヶ額(おおじじいがひたい)」と呼ばれるようになった。

『美山伝承の旅』「大爺ヶ額と大男」より


その他の巨人伝説


伝承地:南丹市美山町豊郷


班牛

班牛 (まだらうし)


芦生村から五里(約20km)奥へ入った川筋に、「一二三の坪」という大中小三つの滝壺がある。
滝壺は二千石船が廻れる程の大きさで、底は深く、左右を険しい岩山に囲まれている。
ここに“班牛”という牛が棲んでおり、近年も姿を見た者があったという。
班牛は一二三の坪の主で、三つの滝壺を順に棲み替えている。
不思議なことに、班牛の棲む滝壺は次第に埋まって見えなくなるという。

『丹波志桑田記 瀧川之部』「瀧坪」より


参考資料に「班(マダラ)牛」と書かれていたのでその表記のまま紹介しました。
」の誤記?

ちなみに芦生の南の右京区京北にも、水中に棲む牛の話があります。


伝承地:南丹市美山町芦生


軍人山の洞穴

軍人山の洞穴 (ぐんじんやまのどうけつ)


天正年間、丹波亀山城は明智光秀軍の攻撃を受けた。
戦火を逃れた奥方や敗残兵たちは、敵の目から逃れるために軍人(神)山に洞穴を掘り、そこで穴居生活を営んだという。
その後、洞穴は長い間封鎖されていたが、ある時、石扉を開けて中へ入った人がいた。
するとその人は急に目を回して血を吐き、胸が苦しくなってその場に卒倒したという。

『我が郷土富本村』「軍人山旧忠魂碑裏の洞穴」より


軍人(神)山は鎌倉時代の武士・青砥藤綱が死んだ場所とも伝えられています。

ちなみに参考資料では「人が倒れたのは洞穴内に籠もっていた炭酸ガスのせいだろう」と考察されています。
二酸化炭素中毒って吐血するんでしょうか。


伝承地:南丹市八木町刑部・多国山?


若森の観音

若森の観音 (わかもりのかんのん)


昔、八五郎という男が殿谷峠の麓で畑仕事をしていた。
すると一人の坊主が通りかかり、「足が痛くて歩けないので若森まで送ってくれませんか」と頼んできた。
八五郎は承諾し、坊主を背負って若森まで送り、大きな石の上に降ろして帰ろうとした。
その時、坊主に「決して後ろを振り向いてはいけません」と強く言われたが、八五郎は好奇心から途中で後ろを向いてしまった。
すると若森の観音の方へ、一本の白羽の矢(大きな鷹とも)が飛んで行った。
その後、八五郎は約束を破ったことで盲目になり、若くして死んでしまったという。

『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』「こしかけ石と観音さん」より


若森の観音とは、園部町の普済寺にある観音堂のことです。
ちなみに、若森から殿谷へ通じる道の途中の三田という所に「腰かけ石」という平らな石があり、坊主はこの石に腰を下ろして休憩したと言われています。
この石に腰かけると罰が当たり、お尻が引っ付いてしまうと言い伝えられているので、誰も座らないそうです。(『忘れかけたふるさとのお話』)


伝承地:南丹市園部町若森


逃げた本尊

逃げた本尊 (にげたほんぞん)


昔、大内に金持ちの家があった。
この家の主人はケチで、仏壇にお供えをせず、お経も読まず、寺へは一度も参らず、近所付き合いもしないという人物だった。
ある日、主人は所用で京都へ出かけ、その帰り道に海老坂峠の辺りまで来た時、一人の坊主に出会った。
その坊主は「長い間お世話になりましたが、帰らせてもらいます」と言い、去って行った。
主人は「どこかで見たことのある坊主だな」と不思議に思いながら家に帰ると、室内に草鞋の足跡がついていた。
足跡は奥の間の仏壇まで続いており、中を見ると本尊がなくなっていた。
主人は「海老坂峠で出会った坊主は家の本尊さんだったのか」と驚き、これまでの行いを深く反省したという。

『ふるさと美山の生活誌』「本尊さんが逃げた」より


毘沙門天像のお引っ越し


伝承地:南丹市美山町内久保





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