磁器の街、景徳鎮が若者から熱い視線を浴びている。観光だけでなく、磁器関連の起業をする若者が増えている。伝統から解放されて自由を得た景徳鎮に、自由に生きたいと考える若者が集まり始めていると新華網が報じた。
手ぶらで景徳鎮から帰ることはできない
磁器の街、景徳鎮が若者から熱い視線を浴びている。「手ぶらで景徳鎮から帰ることはできない」と言われるほど、ショッピング体験が人気になっている。
景徳鎮の有名な観光地である景徳鎮御窯廠遺址公園、彫刻磁器廠、三宝村などに行くと、今は若い観光客ばかりになっている。御窯博物館も大人気で、そこで伝統的な景徳鎮を鑑賞し、ミュージアムショップでは現代文化の文脈で作られた磁器マスコットを購入していく。




街そのものが博物館になっている景徳鎮
また、景徳鎮の町そのものも博物館のようになっている。150箇所以上の古い窯跡が点在し、108本の路地がある。その中で、景徳鎮に住み着いた若者たちが、自分でつくった作品を販売する店を出している。
景徳鎮には50年代の登り窯、60年台のレンガ、70年代の磁器の原料となる砂、80年代の工房、90年代の磁器タイルと、景徳鎮が生き延びてきた時代が積み重なって残っている。
博物館で中国の伝統文化に触れ、街を歩いて歴史に触れ、現代的な磁器製の日用品を買って帰る。そんな旅行が楽しまれている。


景徳鎮に住み着く「景漂」な若者たち
それだけではなく、「景漂」と呼ばれる若者も現れ始めている。景漂とは景徳鎮に漂流するという意味で、上海の上漂、北京の北漂という言葉にならって使われ始めたものだ。
黒竜江省鶏西市で生まれた95后(95年代生まれ、20代後半)の王南浩さんは、3年前に勤めていた会社を辞め、恋人と一緒に景徳鎮で起業した。1万元の資金で、陶磁器工房を開いたのだ。「最初はお金がないので、陶磁器版画をつくって屋台で販売するところから始めました。それが人気となり、中心展示室に展示されるようになり、ライブコマースでの販売も始められるようになりました。今では、確実に毎月1万元の収入があります」。
月1万元の収入は少ないように思えるが、景徳鎮ではそんなことはない。いまだに生活費は都市の半分以下であり、住むところがあれば、月1万元の収入で2人であればじゅうぶん暮らしていける。
美大卒業後に景徳鎮で修行
查輔元さんは、河北科技大学の美術学院を卒業した後、絵を描く仕事がしたくて景徳鎮にやってきて、仕事をしながら起業するチャンスをねらった。「最初は月3000元しか稼げず、インスタントラーメンしか食べられませんでした」。しかし、自分で絵付けをした磁器を屋台で売り、収入も増え、現在は、磁器ブランドを立ち上げ、年収は50万元に達している。
10年間、奮闘した査輔元さんは、戸籍を景徳鎮に移した。ここでずっと生きていくつもりだ。

人口90万人の景徳鎮に6万人が流入
景徳鎮市政府もこのような若者を支援している。市内の工房と協力をして、未経験でもすぐできる仕事を市政府が斡旋できる仕組みを整えた。月500元で入居できるアパートも用意した。磁器の仕事を学びながら暮らしていける仕組みを用意したのだ。
これにより、景徳鎮市は地方都市には珍しい、人口流入超過の都市となっている。現在の人口は90万人程度だが、約6万人が外部からの流入だ。

海外の陶芸家も5000人が景徳鎮で暮らす
景徳鎮にやってくるのは、中国の若者だけではない。スペインの陶芸家チョーマンさんは、故郷であるバルセロナの陶磁器の工芸技術、手描きの絵付け技術を持ち、景徳鎮にやってきて、景徳鎮の伝統的な青花磁器工芸と融合しようとしている。
景徳鎮での仕事が軌道に乗ると、スペインにいる両親も呼び寄せた。このような外国人陶芸家が、景徳鎮には約5000人いる。

一度衰退して、伝統から解放された景徳鎮
2000年前後、日用品の磁器を大量につくっていた景徳鎮の窯は、どこも経営難に陥り、倒産が相次いだ。しかし、それがかえって伝統から解き放たれることになり、芸術を学んだ若者が、景徳鎮の技法を使って自由な作品をつくり始めた。景徳鎮政府も、観光都市としての整備をし、外からやってくる芸術家たちを支援するようになり、現在の景徳鎮は、観光と芸術の街となっている。
景徳鎮に行くには、上海、杭州、南昌などから高鉄に乗っていくが、週末や連休には景徳鎮行きのチケットはなかなか手に入りづらくなっている。伝統文化を現代に再生させたことで、景徳鎮は甦っている。
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