
2月13日(金)・14日(土)の両日、
優秀映画鑑賞会が開催された。

2月13日(金)
10:00~11:31 八月の濡れた砂(1971年)
12:10~14:10 忍ぶ川(1972年)
14:25~15:47 伊豆の踊子(1974年)
16:00~17:36 櫻の園(1990年)
2月14日(土)
10:00~11:36 櫻の園
12:15~13:37 伊豆の踊子
13:50~15:50 忍ぶ川
16:05~17:36 八月の濡れた砂
いずれも若き頃に一度(あるいは何度も)見たことのある作品ばかりなのだが、
『忍ぶ川』(1972年5月25日公開)を今一度スクリーンで見たくて、
2月14日(土)に北方文化ホールへ向かったのだった。
哲郎(加藤剛)と志乃(栗原小巻)は料亭“忍ぶ川”で知りあった。
志乃は“忍ぶ川”の看板娘だった。

哲郎は初めての出逢いから、彼女に惹かれて、“忍ぶ川”に通った。

ある夜、話が深川のことに及んだ時、志乃は、
私の生まれた土地で、もう8年も行っていないと言う。
哲郎は志乃を誘い、薮入りの日に深川を案内することになった。

志乃は洲崎パラダイスにある射的屋の娘で、
父は廓では“当り矢のせんせ”と呼ばれていた。
志乃が12歳の時、戦争で一家は栃木へ移住、
弟や妹たちをおいて、志乃は東京に働きに出ていたのである。

深川から帰った夜、哲郎は志乃に手紙を書いた。
「今日、深川で言いそびれた私の兄弟のことを、ここにしるします。私は六人兄弟の末っ子です」
兄が二人、姉が三人いて、上の姉二人が自殺、長兄が失踪、
次兄はしっかり者で、私の学費を支援してくれていたが、
木材会社を設立するという事業に失敗し、逐電した。
そのショックで父は脳溢血で倒れた。
次姉が自殺した日が、よりによって私の6才の誕生日のときで、
それ以来私は誕生日を祝ったことがない。
あくる日、志乃から返事がもどって来た。
「来月の誕生日には私にお祝いさせて下さい」
7月末、志乃に婚約者がいることを知らされた。志乃に問いただすと、
婚約はしたけれど、気はすすまず、栃木の父も反対しているという。
哲郎は志乃に、その人のことは破談にしてくれ、そして、お父さんにあんたの好みにあいそうな結婚の相手ができたと、いってやってくれと言うのだった。
秋のおわり、志乃の父の容態が急変した。
志乃は、ひと目、父にあってくれとことづけして栃木の父のもとへ。
哲郎は、志乃のあとを追って行った。
「いたらぬものですが、志乃のことはなにぶんよろしゅうお願い申します」
といい残し志乃の父は死んだ。

その年の大晦日、哲郎は志乃をつれ、夜行列車で上野を発ち、ふるさとへ。

駅には哲郎の母が出迎え、

家の前には体が悪いのに雪かきをして、父も待っていた。
目の不自由な姉香代も志乃を気に入ってくれた。

あくる二日、哲郎の家族だけで哲郎と志乃の結婚式があげられた。
初夜。

馬橇の鈴のさえた音に、二人は裸のまま、一枚の丹前にくるまり部屋を抜け出て、
雨戸をほそ目にあけ、馬橇の通りすぎるのをいつまでも見ていた……


翌朝、新婚旅行に近くの温泉へ出かけることになった。
汽車の中から志乃は、
「見える、見える、あたしのうち!」
と子供のようにはしゃぐのだった。

原作は、三浦哲郎の第44回(1960年下半期)芥川賞受賞作「忍ぶ川」。

三浦哲郎の家族の事情、
長兄:家業を手伝っていたが、1937年に失踪。
次兄:三浦の学費を支援していたが、事業に失敗し、1950年に失踪。
長姉:先天性色素欠乏症で弱視のため琴を習っていたが、1938年に服毒自殺。
二姉:女子高等師範学校の受験に失敗し、1937年に19歳で津軽海峡で投身自殺。
三姉:先天性色素欠乏症で弱視だったが、琴の師匠となり家計を支えた。
といったことが、ほぼ小説にも反映されている。
監督は、名匠・熊井啓。

公開時の1974年は、すでにカラーワイドの時代であったが、
熊井啓はあえて白黒スタンダード・サイズでフィルム撮影している。
熊井啓といえば、
『帝銀事件 死刑囚』(1964年、監督、脚本)
『日本列島』(1965年、監督、脚本)
『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年、監督のみ)
など、社会派のイメージがあるが、
『忍ぶ川』のような抒情的な作品も(意外な感じはするものの)巧い。
あらためて感じさせられるのは、映像の美しさ。
風景の美しさもさることながら、
栗原小巻の比類なき美しさに感動させられる。

この当時、
栗原小巻の熱心なファンは「コマキスト」と呼ばれ、
人気を二分していたのだが、
その後も映画界を主戦場にしていた吉永小百合に対し、
栗原小巻は舞台を中心とした活動をしていたため、
(一般的には)知名度も人気も吉永小百合の方に軍配が上がると思われる。
しかし、私は、
映画『忍ぶ川』という代表作がある栗原小巻を吉永小百合よりも上位に置く。

構想段階では吉永小百合を主演に予定していたのである。
ところが劇中のシーンの問題などから吉永小百合の親族と軋轢を起こし、
結局、吉永小百合の主演は実現しなかった。
熊井啓の著書『映画を愛する』によると、

吉永小百合のマネジメントをしていた父親・吉永芳行氏の要求が、
熊井啓監督サイドと相容れなかったからだという。
吉永氏の主張は、
- 「スタンダード・サイズ」ではなく、「シネマスコープ」に。
- 白黒フィルムではなく、「カラー」で。
- 本編に主題歌を入れて、吉永小百合に歌わせたい。
- 哲郎の過去、つまり「血」の問題を全部カットしてほしい。
- 初夜のシーンを全部カット。
……というようなもので、とても受け入れられるものではなかったとのこと。
『忍ぶ川』が彼女の代表作になり、
清純派女優から大人の女優へと脱皮できたと思うし、
初夜のシーンは吉永小百合の伝説となったと思うのだが、
残念ながら吉永小百合はこの千載一遇のチャンスを逃してしまった。
ただ、この素っ裸で初夜を演じるシーンは、父親だけでなく、
吉永小百合自身にも相当な抵抗があったらしい。
「自分が大人の役をこれから本格的にやっていくための、足がかりがつかめるんじゃないか」
傍目にも気の毒なくらい迷っていたという。
初夜のシーンが、必ずしもその後の女優人生にプラスになるとは限らない。
だからこそ熊井啓は「完全」を目指し、全力投球する構えだった。
熊井啓は、
「私たちは『忍ぶ川』を吉永君の代表作にしてあげたいと頑張っているんです」
と訴えたが、父親の吉永氏は、
「どうぞ勝手に準備してください。娘は出しませんから」
と返答し、完全に決裂してしまったそうだ。
熊井啓の念願は暗礁に乗り上げてしまう。
その後、志乃役に決まった栗原小巻に、熊井啓は、初夜のシーンを、
「はやりのポルノ映画ではなく、これは日本の伝統的な儀式であり、二人の生への復活でもある」
と説明し、また栗原小巻も、
「この作品を大女優への踏み台にしたい。本当は心配なんですけど、しょうがありませんわ。女優ですもんね。全裸シーンだけに関心を持たれると困るんですけど、スタンドイン(代役、替え玉)にはお世話にならないつもりです」
と、意を決したという。
この覚悟の差が、吉永小百合との女優としての差になった。
こうして完成した『忍ぶ川』は、
「第46回キネマ旬報ベスト・テン」において、
日本映画ベスト・テン第1位に選出され、
複数の部門賞を受賞。
また、「第27回毎日映画コンクール」においても、
日本映画大賞に選出され、
かつて東京にいた若き頃の(助平だった)私は、(笑)
栗原小巻の美しき初夜のシーンが見たくて、
レンタルビデオの時代には、
VHSの『忍ぶ川』を借りてきて見たりしたが、
肝心の初夜のシーンになると、その部分だけが、
(誰もが繰り返し見たのであろう)テープが擦り切れていて、(爆)
鮮明な映像ではなかったことに腹を立てたりした。(コラコラ)
今回、久しぶりにスクリーンで見た『忍ぶ川』は、
若い頃に見たときよりも、すべてが、より美しく感じられた。
初夜のシーンのみならず、

くるくると変化する栗原小巻の表情に、すっかり魅せられてしまった。
真剣な表情もさることながら、


やはり笑顔の美しさは圧倒的で、



この表情に魅了されない者はいないだろう。

映画が公開されてから半世紀以上も経過しているのに、
ちっとも古びておらず、新鮮な気持ちで見ることができたし、
やはり名作なのだなと、感心させられ、感動させられた。

栗原小巻の映画出演作は、それほど多くはないのだが、
『忍ぶ川』の他にも、
武者小路実篤の原作をもとに山田太一が脚本化した『愛と死』(1971年)、

『忍ぶ川』とタイトルが似た、同じ加藤剛との共演作『忍ぶ糸』(1973年)、

『忍ぶ川』と同じ熊井啓監督の傑作『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)、

山田洋次監督ではなく、小林俊一監督作品の『新・男はつらいよ』(1970年)、

山田洋次監督作品の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』(1985年)など、

今見ても楽しめる傑作、秀作、佳作が少なからずある。
すべて見ているが、機会があればまた鑑賞したいと思っている。
※昨年(2025年)11月に、ロシアのプーチン大統領が、「国民統一の日」の祝日に合わせてクレムリンで各種の国家勲章などの授与式を行い、日本で開催中だった「ロシア文化フェスティバル」組織委員会委員長で、俳優の栗原小巻さんに「プーシキン・メダル」を授与した……というニュースが流れた。ウクライナ侵攻を正当化するための演出の一環と批判する人もいたし、私も少なからず思うところはあったが、「このブログでは政治的発言はしない」と決めているので、ここではそのことについては何も言わない。ただ映画『忍ぶ川』の感想のみを述べさせてもらった。