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人生の一日(39) ……老いるということは……

 

『ぼくたちはどう老いるか』(高橋源一郎/朝日新書/2025年12月刊)

という本を読んだ。

 

第1部の《もうろく》では、

鶴見俊輔の『もうろく帖』をもとに、

「老い」をじっくり考えぬく。

 

第2部《家族にとって「老い」とはなにか》では、

1.エラい人が「老い」るとき……吉本ばななの父・吉本隆明

2.ふつうの人が「老い」るとき……有吉佐和子の『恍惚の人

3.夫婦が共に「老い」るとき……耕治人の諸作品

というように、作家たちが見つめた老いについて考察する。

 

特別篇《二人の「俊」》では、

1.俊太郎さんは棺の中で眠っていた……詩人・谷川俊太郎

2.「トシちゃん」が亡くなった……高橋源一郎実弟・「トシちゃん」

というように、著者にとって“身近な二人の死”という実体験を通して、

自分の中に起こった感情を見つめ直す。

 

それぞれ、面白く読んだし、

いずれ機会があればレビューも書いてみたいと思うが、

今日は、本書の冒頭に置かれている「はじめに」についてのみ触れてみる。

なぜなら、ここにこそ、

「老い」についてのきわめて重要なことが記されていたからだ。

 

「はじめに」 には、

《ぼくは七十二歳になった》

《見知らぬ人》

《社会からの返事》

という三つの小見出しがあり、

それぞれを要約しながら感想を述べてみたい。

 

《ぼくは七十二歳になった》

今年でぼくは七十二歳になった。ときどき、鏡に映った自分を見て、びっくりする。鏡の中に「見知らぬ老人」がいるな、と思う。それは「新しい経験」だ。いくつになっても「新しい経験」はできる。そして、「新しい経験」をすることは楽しい。ぼくはこれまでたくさんの本を読んできたが、「自分とは関係ない」ことには関心が持てない。関心を持つためには「当事者」になることが大切だ。「老い」が気になるようになったのは、「老い」がはっきりと視野に入ってきたのは、もちろん、自分が「老い」たからだ。

 

高橋源一郎は1951年1月1日生まれなので、現在75歳(2026年1月現在)

本書『ぼくたちはどう老いるか』は、「小説トリッパー」にて、

2023年秋季号から2025年春季号に「たのしい知識」として連載していたもので、

本文における年齢・出典明示は雑誌掲載時のものとなっている。

だから、現在75歳なのに「ぼくは七十二歳になった」なのである。

私は1954年の夏に生まれたので、「今年の夏に七十二歳になる」。

私も、ときどき、鏡に映った自分を見て、びっくりする。

鏡の中に「見知らぬ老人」がいるな、と思う。

だが、それ以上にびっくりするのは、写真に写った自分を見たときである。

免許更新のときや、様々な資格証明書の更新のときなどはもちろん、

スナップ写真を撮ったときにも、自分の知らない自分がそこにいる。(笑)

鏡に映った自分は「動画」で、

写真に写った自分は「静止画」で、

「静止画」の方により「老い」を感じてしまうのだ。

なぜか?

その答えは次の《見知らぬ人》の中にある。

 

《見知らぬ人》

あるとき、ある文学賞の授賞式に出席した。途中で、誰かが車椅子を押して入ってきた。その車椅子には老人が座っていた。まったく見たことがない人のように思えた。誰だろう、と思った。隣にいた人が、小さい声でぼくに、その人の名前を教えてくれた。ショックだった。ものすごく有名なベストセラー作家だった。けれど、ぼくの横を通りすぎたのは、その人ではなかった。その人の顔ではなかった。なんかもっと別の顔になっていた。そして、突然気づいた。ぼくの父親が亡くなる直前、そんな顔をしていたことに。それから二ヵ月ほどでその作家は亡くなった。

この経験があってから、人の顔をじっくり見るようになった。死んだ人からは、それまでの表情が消える。父親が亡くなって、その顔を見た。入院中は、父の顔には苦しみが滲んでいた。けれども、亡くなった後には、それがすっかり消えて、ただ「顔」があるばかりだった。表情がすっかり消えていた。もしかしたら、と思った。「表情」とは、何十年もかけて、その人間が作り上げた(いや、同時に、社会や環境によって作られた)作品だったのかもしれない。亡くなった瞬間、その作品は意味を失うのだ。

 

その人を、その人たらしめているのは、

顔の造形もそうであるが、「表情」がより重要であることに、

この文章を読んで気づかされた。

そして、亡くなって一気に「表情」が消えるのではなく、

老いと共に、次第に「表情」が消えていくのではないかと……

老いが深まると、「表情」に乏しくなり、「静止画」に近づいていく。

写真に写った自分(=静止画)を見て驚くのは、

そこで老いがより強調されるからなのだ。

老いとは、「静止画」(=死)に近づいていく過程であったのだ。

 

《社会からの返事》

ずいぶん前に、必要があって、銀行ローンを借りた。枠は百万ほど。返し終わって、その口座はもうずっと使っていなかった。ある日、ローンの融資枠がなくなるという連絡があった。銀行に電話をして訊いてみた。七十歳以上の人間には融資しないのだ、といわれた。それからしばらくして、必要があって関西に小さなワンルームを借りることにした。ぼくが七十歳を超えていると知ると「ならば保証人が必要です」といわれた。弁護士の友人がいるのだが、というと、「近隣の人でお願いします」といわれた。幸い、その近くに知り合いがいたので、その人に保証人を頼んだ。ワンルームを借り、インターネット回線を引くことになった。すると「六十五歳を超えていらっしゃるので、奥様に確認をとりたい。連絡先を教えてほしい」といわれた。だから、そうした。なるほど、と思った。「七十歳」前後を目安にして、「老人」たちは少しずつ「社会的な死」を迎えるのだ。社会から「もう必要ない」と、そっといわれるのだ。あなたの役割はもうないのだ、と。ぼくたちには、「肉体的な死」の前に、「社会的な死」があるのだ。

 

私は年金で細々と生活している身なので、

銀行からお金を借りることもなく、

(35歳で家を購入してからは)借家の賃貸契約を結ぶこともなかったので、

これを読んで少し驚いた。

「世間知らず」であった。

 

「七十歳」前後を目安にして、「老人」たちは少しずつ「社会的な死」を迎えるのだ。社会から「もう必要ない」と、そっといわれるのだ。あなたの役割はもうないのだ、と。ぼくたちには、「肉体的な死」の前に、「社会的な死」があるのだ。

 

とは、恐ろしい言葉であるが、

まあ、「社会的な死」と極端に捉えずに、

「社会からあまり期待されない存在になった」といった程度に考えて、

今までよりも気楽に生きていくことができればいいのではないだろうか?

そんな風に考えて、のんびり生きていこうと思ったことであった。

 




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