
一人読書会『アンナ・カレーニナ』の20回目は、
第4巻の、
第8部の1章~19章を読んでみたいと思う。
1章

ほぼ2ヶ月がすぎた。すでに暑い夏も半ばになっていたが、コズヌィシェフはいま頃ようやくモスクワを出ようとしていた。この間コズヌィシェフの人生にはそれなりの事件があった。すでに1年ほど前、6年間の研究の成果である彼の本が完成していた。本の題名は『ヨーロッパとロシアにおける国家体制の原理と形態概観̶̶試論』といった。本は入念に手を入れられた後に昨年出版され、書店に送られた。コズヌィシェフは世間と文芸界における自著への反響を待っていたが、ひと月、ふた月経っても、沈黙が続くばかりであった。だが三ヶ月目に、あるまじめな雑誌に書評が登場した。書評者は若手の病弱なエッセイストで、コズヌィシェフも一度会ったことのある人物だった。書評の出来は最悪だった。明らかにこの書評者は、本の全体に、およそ見当はずれな解釈を与えていた。「何かでこの男を怒らせたかな?」コズヌィシェフはそんな風に自問した。すると、出会った際に自分がこの青年の無知を示すような言葉を訂正してやったことを思い出して、ようやくこの書評の真意を納得したのだった。この書評の後、出版界も言論界も彼の本については死んだように沈黙してしまったので、コズヌィシェフは、6年間あれほどの愛情と丹精をこめて作り上げた労作が灰燼(かいじん)に帰したのを理解した。本の失敗で最も落ち込んでいたちょうどこの時期に、スラヴ問題が浮上し、かつてこの問題の火付け役の一人であったコズヌィシェフは、これに全面的に関与することになった。彼はこの偉大なる出来事に身も心も捧げ、自分の本のことはぴたりと忘れてしまった。こうして春いっぱいと夏の一部を働き通した末に、やっと7月に入ってから、彼は田舎の弟のところへ休暇に出かけることにしたのだった。もう前からリョーヴィンの家を訪ねるという約束を果たす機会を求めていたカタヴァーソフも、コズヌィシェフに同伴することになった。
2章

コズヌィシェフとカタヴァーソフがクールスク線の駅に乗りつけたとき、ちょうど4台の馬車に乗った義勇兵たちが到着した。義勇兵を出迎えた婦人の一人がコズヌィシェフに話しかけた。「あなたもお見送りにいらしたのですか?」「いいえ、公爵夫人、休暇で弟のところへ」「ロシアからもう800人の義勇兵が行っているって、本当ですか?」「800人どころではありません。すでに1000人は超えているでしょう」「それで、犠牲者がもう100万人くらいになっているって、本当ですか?」「もっとですよ、公爵夫人」「ご存知? あのヴロンスキー伯爵が、あの有名な方が……この汽車では発たれるのよ」「聞いてはいましたが、いつかということは知りませんでした」「何と言っても、こうすることがあの方にとっていちばんいいんでしょうね」「そうでしょうとも、もちろん」こうして二人が話していると、人々の群れが彼らの脇を通って歓送会の会場へと殺到していった。「おや! 公爵夫人、これはこれは!」不意に群集の中から現れたオブロンスキーが声をかけてきた。「おや、コズヌィシェフさんも! どちらへ?」「村へ、弟のところですよ」コズヌィシェフは答えた。「では、うちの妻に会っていただけますね。どうかぼくに会ったことをお伝えください、それから万事順調だと。ぼくは例の合同代理委員会の委員に選ばれたと……」ヴロンスキーもこの列車で出征するのだと公爵夫人が告げると、「なんですって!」とオブロンスキーは驚いて叫び、ヴロンスキーのいる待合室に入っていった。そのときのオブロンスキーはすでに妹の遺体の上にかがみこんで身も世もなく泣き崩れたときのことをすっかり忘れ、ヴロンスキーを単に一人の英雄として、そして古い友人として見るようになっていた。「わたしはずっとあの方が嫌いだったんですけれど、でも今度のことでいろんなことが帳消しになりますね。ご自分で行かれるだけではなくて、自費で騎兵中隊を率いて行かれるんですから」と公爵夫人が言った。おそらくオブロンスキーが教えたのだろう、ヴロンスキーは公爵夫人とコズヌィシェフが立っている方を振り向くと、黙って帽子を上げた。めっきり老けて苦悩の色を宿したその顔は、まるで化石のように見えた。
3章

公爵夫人に別れを告げると、コズヌィシェフは近寄ってきたカタヴァーソフとともに超満員の客車に乗り込み、そして汽車が走り出した。コズヌィシェフは義勇兵には注意を払わなかった。義勇兵にかかわりの深い彼は、すでに彼らの一般的なタイプを心得ていたので、関心がわかなかったのだ。カタヴァーソフのほうは学問研究に忙しくて義勇兵を自分の目で見る機会がなかったために、彼らに大変な興味を覚え、コズヌィシェフにいろいろ質問した。コズヌィシェフはカタヴァーソフに、二等車へ行ってじかに義勇兵たちと話してみるように勧めた。カタヴァーソフはその忠告を実行し、義勇兵たちと知り合いになった。戻ってきたカタヴァーソフは義勇兵たちに関する観察結果をコズヌィシェフに語った。都会の大きな駅では、またもや歌と歓声が義勇兵を迎え、寄付金箱を持った男女が現れ、県の貴婦人たちが兵士たちに花束を渡して、彼らについて食堂に入っていった。しかしすでに何もかもが、モスクワにおけるよりもはるかに簡素で小規模だった。
4章

汽車が県庁所在地の町に停車している間、コズヌィシェフは食堂にも行かず、プラットホームを往復していた。ヴロンスキーのコンパートメントの脇を通りかかったとき、窓辺に母親の老伯爵夫人がいるのが見えた。彼女はコズヌィシェフを呼び寄せた。「こうしてクールスクまで息子の見送りですよ」彼女は言った。「息子さんの行いは大変立派だと思います」ヴロンスキーがコンパートメントにいないのに気づいて、彼は言った。「だって、あんな不幸なことがあったあとですもの、あの子にどうすることができたでしょうか?」「なんと恐ろしい事件だったことでしょう!」コズヌィシェフは答えた。「まあ、どうか中へお入りください」コズヌィシェフが中に入って隣の座席に腰を下ろすと、夫人は言った。「あれはもう想像を絶していますわ! 6週間というもの、息子は誰とも口をきかず、食事も、わたしが頼むようにしてようやく食べさせたほどですから。そうして1分たりとも一人にしておくことはできませんでした。自殺の道具になるようなものは、全部片付けたんですよ。だって、ご承知のように、息子はすでに一度、あの女のためにピストル自殺を試みているんですから」そう言ってから、夫人はそのことを思い出して眉をひそめた。「ええ、あの女は、いかにもあんな女にふさわしい最期を遂げましたよ。死に方まで、下品で卑しいんですから」「裁くのはわたしたちの仕事ではありませんよ、伯爵夫人」ため息をつきながらコズヌィシェフは言った。「でもあなたがどんなつらい思いをされたか、お察ししたします」「いいえ、何とおっしゃろうと、あれは悪い女です。自分を滅ぼし、二人のすばらしい人間を、つまり自分の夫とわたしのかわいそうな息子を滅ぼしたのですから」「彼女のご主人は?」「あの方はあの女の娘を引き取りました。息子は最初のうち、どんなことでも受け入れていましたから。ただ今では、自分の娘を他人に渡してしまったことをひどく悔いています」伯爵夫人は、セルビア戦争が救いになったと言い、「息子にとっては神様の贈り物でした。この戦争のおかげで、息子はようやく立ち直れたんですから」と付け加えた。「どうかあの子と話してやってください。とっても滅入っていますから。息子はあなたに会えばとても喜ぶでしょう。どうか、ちょっと話をしてやってください」コズヌィシェフは喜んで話しましょうと答え、列車の反対側に移った。
5章

コズヌィシェフはヴロンスキーに近寄っていった。ヴロンスキーは足を止め、じっとこちらを見つめていたが、相手が誰かを見分けると、自分からコズヌィシェフの方へ何歩か歩み寄って、固くその手を握りしめた。「ぼくのような者はお邪魔かもしれませんが、何かお役に立てることがないでしょうか?」コズヌィシェフは言った。「ぼくにとって、あなたほどお会いして不愉快でない方はいませんよ」ヴロンスキーは答えた。「こんな言い方をして、もうしわけありません。しかし、ぼくにはもう人生で愉快なことはないものですから。もしかまわなければ、一緒に散歩しませんか。汽車の中は息苦しくて」「あなたのご決断をうかがったとき、ぼくは大変喜びました。志願兵がいろいろ叩かれている状況で、あなたのような方が出てくれば、志願兵への社会的評価もぐんと上がると思ったからです」「人間としてのぼくの利点は」とヴロンスキーは言った。「自分の命に何の価値も認めていないことです。体力も十分にありますから、敵の方陣に斬り込んで行って、殺るか殺られるかの勝負を挑むことができます。命はぼくには不要というよりは。もう冷めてしまったのです。でも、誰かの役には立つでしょうから」ヴロンスキーはレールの上をゆっくりすべるように走ってくる炭水車の車輪に見入った。すると、ふと彼女のことを思い出した。それは、狂乱状態の彼が鉄道駅の宿舎に駆け込んだときに見た、彼女の体の残骸であった。そのとき宿舎のテーブルの上には、血まみれの体が破廉恥にも見知らぬ人々の真っ只中に横たわっていて、ついさっきまで生きていた気配を濃厚に漂わせていた。そっくり残った頭が、重そうなお下げや、こめかみのあたりで渦巻いている髪もろともに後ろにがっくりと折れ、赤い口を半分開いた美しい顔は、小さな唇が哀れみを、開いたまま動かなくなった目が無残さを誘う、奇妙な表情に固まっていた。それはまるで彼女が喧嘩のときに彼に言ったあの恐ろしい言葉を̶̶「あなたは後悔するわよ」というあの言葉を̶̶本当につぶやいているかのようであった。
6章

いつモスクワを発てるかわからなかったせいで、コズヌィシェフは弟に迎えを請う電報を打っておかなかった。駅で雇った旅行馬車の乗ったカタヴァーソフとコズヌィシェフが土埃でまっ黒になって、昼の11時過ぎにポクロフスコエの屋敷に着いたとき、リョーヴィンは留守だった。父と姉とともにバルコニーに坐っていたキティが、義兄に気づいて駆け足で迎えに出た。「知らせてくださらないなんて、水臭いじゃないですか。あの人、とっても喜びますわ。ちょっと離れた村に出かけたんですけれど、もうそろそろ帰ってくるころですわ」リョーヴィンを呼びにやることを命じ、埃まみれの客たちの洗面用の部屋を準備させ、さらに客たちの昼食の用意を言いつけると、キティはバルコニーに駆け込んでいった。そして、父親に客の来訪を報告し、姉には客の相手をするようにお願いした。「わたしはミーチャのところへ行かなくちゃ。間の悪いことに、朝のお茶のときお乳をあげたきりなの。もう目を覚まして、きっと泣いているわ」子供部屋へ行くと、実際子供は泣いていた。乳母が赤ん坊を母親のところに連れてくると、アガーフィヤもその後から、にやけただらしない顔でついてきた。「あら、わかってる、わかってるんだ。ほら本当ですよ、カテリーナ奥さま、わたしのことをわかっているんですよ!」アガーフィヤが叫んだ。「そんなはずはないわ! もしも人の顔がわかるというんなら、まずわたしを見分けるはずでしょう」キティはそう言ってにっこり笑った。彼女が笑ったのは、こんな小さな赤ん坊に人の見分けがつくはずはないと主張しながら、彼女自身が内心で、この子はただアガーフィヤを見分けるどころか、何でも知ってわかっている、誰も知らないようなことまでたくさん知ってわかっているのだということを理解していたからだった。
7章

2階からは老公爵の雷鳴のような大声と、カタヴァーソフの哄笑が聞こえてきた。「きっとわたしのいない間に話がはずんだのね」キティは思った。「でもやっぱりあの人が留守なのが残念だわ。きっとまた養蜂場へ寄ったんでしょう。あれが気晴らしになっているのね。せめて気晴らしでもなかったら、あの人、暗くてつらそうで、見ているだけで恐ろしいくらいだったから」キティは夫を苦しめているものが何かを知っていた。原因は夫の不信心だった。夫の不信心は彼女に不幸をもたらすものではなかった。だから彼女は、信じない者が救われることはないと認めながら、同時にそういう夫の心をこの世の何よりも愛していて、夫の不信心のことも笑顔で考え、おかしな人だと胸の中でつぶやくばかりだったのである。つい最近夫が示した親切な行いのことが、生き生きと頭に浮かんだ。2週間前、オブロンスキーからドリーにあてた懺悔に手紙が届いた。彼はその中で、借金を清算するためにドリーの持ち村を売り、自分の体面を救う手助けをしてほしいと懇願していた。ドリーは絶望し、夫を憎み、蔑み、悔い、離婚の決意をしかかり、こんな依頼は断ろうと決めたが、しかし結局は自分の土地の一部を売却することを承知したのだった。夫はこの気がかりな問題を何とかしようとしていろいろな慣れない算段をしたあげく、ついにドリーを傷つけずに彼女を助ける唯一の手段を思いついた。そうしてキティに向かって、彼女が受け継いだ分の所有地を姉に進呈するように提案したのだった。それはこれまでキティの頭には浮かんだこともないアイデアだった。「あの人が不信心なものですか? あんなに優しい心を持ち、誰一人、子供さえ、悲しませることを恐れているのに! 何をするのも全部他の人のためで、自分のためにするおとはひとつもないんだから」コズヌィシェフも、ドリーも、ドリーの子供たちも、百姓たちも、リョーヴィンの世話になっているし、それが当然だと思ってみたいだ。「ねえ、きっとあんなふうに、おまえのパパみたいな、あんな人になるんだよ」ミーチャを乳母に渡し、その頬に唇を触れながら、キティはそう言った。
8章

愛する兄が死んでいく姿を見たとき以来、リョーヴィンははじめて生と死の問題を、彼のいわゆる新しい信念を通して見るようになった。その信念とは20歳から34歳までの間に知らぬ間に形成されて、少年期や思春期の信仰心とこっそり入れ替わっていたものである。彼を怯えさせたのは死よりもむしろ生であった。生命というものの由来も目的も理由も正体もわからぬまま生きていることに、彼は怯えたのである。有機体、その破壊、物質の不滅性、エネルギー保存の法則、進歩̶̶こうしたものが、かつての信仰と入れ替わった言葉だった。「もしも自分の人生の問題に対してキリスト教が与える答えを認めないならば、おれはどんな答えを認めるというのか?」今や彼は、どんな本を読んでも、どんな会話をしても、どんな人間を見ても、自然と、無意識に、そうした問題への態度および解答を捜し求めるようになっていた。こうした問題を考えるようになってからひとつ気づいたことは、宗教というものはすでに寿命が尽きて、もはや存在しないと思い込んでいたが、誤りだったということである。彼の周囲で善い生き方をしている人たちは、すべて信者だった。老公爵も、リヴォフも、コズヌィシェフも、女性たちも、すべて信者だった。もうひとつ、多くの本を読んで確信したことは、彼と似た反宗教的な考えを持った人たちは、宗教のかわりとなるべきものを何ひとつ用意していないので、これに答えずには生きていけないと思えるような問題に対しても、なんら説明もせずにただ否定するだけだということである。妻の出産のとき彼は異常な体験をした。信者でない彼が急に祈りはじめ、しかも祈っている瞬間は信じていたのだ。彼はあのときの精神状態を大切に思っていたし、単なる弱気のせいにしたりすれば、あの瞬間を汚すことになる。自分自身との狂おしい葛藤にとらわれた彼は、何とか気力を振り絞ってそこから脱出しようともがいていた。
9章

「自分が何者か、なぜここにいるのかを知らないで、生きていくのは不可能だ。おれはそれを知ることができないから、したがって生きていくこともできない」リョーヴィンは自分に向かって言った。「永遠の時間の中、無限に続く物質の中に、泡のような有機体が生まれ、その泡がしばし存在したかと思うとはじけて消えてしまう。その泡がおれだ」こうした考えは恐るべき誤りだったが、しかしこれが、何世紀にもおよぶこの分野における人類の思想的営為の、唯一最終の帰結だったのである。だがこれは単に誤りであるばかりか、何か悪しき力の残酷なる嘲笑だった。それはけっして屈するべきではない、悪しき、忌まわしき力だった。この力から逃れることが必要だった。そしてその手段はただ一つ、死ぬことだった。こうして、幸せな家庭人であり、健全な男性であるリョーヴィンは、何度も自殺の寸前まで行き、首を縊(くく)らないように紐を隠したり、自分を撃つのが心配で猟銃を持ち歩くのを警戒したりしていたのである。だがリョーヴィンは猟銃自殺も首縊りもせず、生きつづけていた。
10章

自分が何者であり、何のために生きているのかと考えているうちは、リョーヴィンは答えが得られずに絶望していた。だが、そうした自問をやめると、あたかも自分の正体も生きる目的もわかっているような気になった。なぜなら、しっかりと、きちんと活動し、生活していたからである。むしろ最近などは、以前よりもはるかにしっかりと、きちんと生活しているほどだった。6月はじめに村に帰ったリョーヴィンは、同時に自分の日常の仕事にも復帰した。農事、百姓たちや近隣の地主との関係、家計、妻や親戚との関係、子供の心配、この春から熱中している養蜂といったものに、すべての時間が注がれた。結婚して、自分の生活に束縛されることがますます多くなったいま、彼はもはや自分の活動のことを考えてもなんら喜びを感じることはなかったが、その仕事が必要だということは確信していて、しかも以前よりもはるかに仕事がはかどり、その規模もどんどん大きくなるのを実感しているのだった。自分の行っていることが良いのか悪いのか、彼にはわからなかったし、いまでももうその点をあえて検証しようとしないばかりか、それについて話すことも考えることも避けるようになっていた。考えずにただ生きているとき、彼は自分の心の中に誤ることのない裁き手が存在して、二つの可能な行為のうちいずれが勝り、いずれが劣るのかを、判断してくれているのを感じ取った。だから間違った行為をするとすぐに、それを感じ取ることができたのである。そんな風に彼は暮らし、自分が何者で何のためにこの世に生きているのかを知りもせず、また知る可能性さえも持たず、その自らの無知に苦しむあまり自殺さえも恐れながら、同時に自分独自の、はっきりとした人生の道を、しっかりと切り開いていたのであった。
11章

この日リョーヴィンは一日中、外では管理人や百姓たちと話し、家では妻やドリーや彼女の子供たちや義父と話しながら、頭の中では農事にかかわる用事のほかにこの頃ずっと関心を持っている唯一の問題を考えつづけ、あらゆる物の中にその自分の問題へのかかわりを見出そうとしていた。その問題とは「自分はいったい何者か? 自分はどこにいるのか? なぜここにいりのか?」という問題であった。「籾殻を運んでいる痩せた農婦も、籾摺りをしているおしゃれな女も、脱穀係のヒョードルも、去勢馬も、いずれ死ぬ。死ねば土に埋められて、跡形も残らない。彼らだけではなくこのおれも埋められ、跡形も残らないということだ。いったい何のためだろう?」リョーヴィンは、脱穀係のヒョードルに、同じ村の豊かで善良な百姓のプラトンが、来年土地を借り受ける見込みはないだろうかとたずねた。「値段が高すぎて、プラトンには元が取れませんよ、旦那さま」とヒョードルは答えた。「じゃあなぜ、あのキリーロフは元が取れるんだ?」「人に厳しくて、自分の儲けはしっかり取るからです。ところがフォカーヌィチ(プラトンのこと)のおっさんは、人の生皮を剥ぐようなまねはけっしてできないんです。人間が違うんです。あの人は魂のために生きています。神さまのことを覚えているんですよ」「神さまのことを覚えているって、どういうことだ? どうすれば魂のために生きていけるんだ?」「わかりきったことですよ。正しく、神さまの教えどおりに生きるだけです。でもたとえば旦那さまだって、人を傷つけるようなことはなさらないじゃないですか……」「ああ、そうだな、じゃあな!」リョーヴィンは足早に家を目指した。フォカーヌィチは魂のために、正しく、神さまの教えどおりに生きているというヒョードルの言葉を聞いて、何かはっきりとしない重要な考えが、まるでいままで閉じ込められていた場所から一斉に飛び出したかのような勢いで、群れをなして押し寄せ、皆ひとつのゴールを目指して頭の中をぐるぐる回りはじめたので、おもわずその光に目がくらみそうだった。
12章

百姓ヒョードルの言葉はリョーヴィンの胸の中で電気花火のような作用をして、前からずっととらわれていた雑多で無力な個別の思念の大群を、不意に変貌させてひとつにまとめてくれたのだった。「おれはあの男の言うことを理解した。しかもまったくあの男の理解しているとおりに理解した。しかもおれ一人ではなく、みんなが、世界中の人々がただこのことだけを十分に理解しているのだし、このことばかりは疑うことなく、いつだって認めているのだ。われわれは皆、何のために生きるべきか、何が正しいのかというこの一事では同意しているのだ。これこそが奇跡じゃないか。唯一可能な、常に存在する、あらゆる方向からおれを取り巻いている奇跡。それにおれは気づかなかったんだ! いったいこれを上回る奇跡がありうるだろうか!」今や彼ははっきりと理解した̶̶自分が生きてこられたのは、ひたすら子供の頃はぐくまれた信仰心のおかげだったのだ。「そうだ、理性は傲慢だ」彼は自分に話しかけた。「しかも単に傲慢だけではなく、理性はおろかだ。そして大事なことに、理性はまやかしを、そう、まさにまやかしを行う。まさしく理性はペテン師なのだ」彼はそんな言葉をくりかえした。
13章

そのときリョーヴィンの頭に、最近ドリーと彼女の子供たちとの間にあった一幕が浮かんできた。子供たちがイチゴの実を茶碗に入れて燭台の火で焙ったり、牛乳を瓶から口へじかに飲んだりといういたずらをして、その現場を見つけたドリーが説教した。もし茶碗を割ったりしたらこれからお茶を飲む器がなくなるし、牛乳をこぼしてしまったらお腹に入るものがなくなって、おまえたちはお腹がすいて死んでしまうだろうと脅したのだ。ところが子供たちは面白い遊びが途中でやめさせられてしまったのを嘆くばかりで、母親の言うことなどひとことも信じてはいなかった。「われわれも、このおれも、これと同じことをしているんじゃないだろうか。そして、あらゆる哲学の理論もまた同じことをしているのではないだろうか? われわれは精神的に飽食しているから、破壊ばかりしているのだ。まったく子供と同じだ! あの子供たちと同じように、そうした恵みを理解せず、自分の生きる糧であるものを破壊している、いや破壊しようとしている。そのくせ、ちょうど子供が寒さや飢えを感じるように、わが身に深刻な人生の瞬間が訪れるやいなや、おれは神のもとへ赴こうとする。しかもいたずらを叱ってくれる母親がないおれは、先々報いを受けるだろうということを、あの子たちほどもわかっていないのだ」リョーヴィンはもはや考えることをやめ、何かについて楽しそうに、夢中で話を交わしている神秘的な声たちに耳を傾けた。「いったい、これが信仰なんだろうか?」自分の幸せを信じるのが怖くてリョーヴィンは考えた。「ああ神さま、ありがとうございます!」こみ上げてくる嗚咽を飲み込み、目にあふれる涙を両手で払いながら、彼はそう口にした。
14章

御者がやってきて言った。「奥さまの言いつけでお迎えに上がりました。お兄さまと、もう一人どこかの旦那さまがお見えで」リョーヴィンは荷馬車の御者台に乗ると手綱を取った。そして、兄が来る予定だったことを思い出し、兄と一緒に来た客とは誰だろうかと推測しようとした。兄も妻も正体不明の客も、今はもう彼には以前とは違って感じられた。客はカタヴァーソフだった。彼は哲学参議を大変好んでいた。モスクワでもリョーヴィンは最後の時期に彼と大いに議論したものである。「絶対に議論したり、軽々しく自分の意見を言ったりしないようにするんだ」彼は思った。「それで、おまえはいま何をしているんだ?」コズヌィシェフがたずねた。「いつものとおり農業です」リョーヴィンは答えた。「兄さん、今度は長くいられるの?」「2週間くらいかな」この兄と親密な関係を保ちたいと願っているにもかかわらず、リョーヴィンは相手の顔を見ることに気まずさを覚え、目を伏せた彼は、言葉の接ぎ穂もなく黙り込んでしまった。カタヴァーソフがリョーヴィンに訊ねた。「スペンサーは読み終えられました?」「いいえ、まだ途中です。でも、もうぼくには必要なくなりました」リョーヴィンは答えた。リョーヴィンは子供や大人にパンとキュウリと新鮮な蜂蜜を持ってきてやろうと、養蜂場の中に入っていった。こうして一人きりでいられる機会が嬉しかった。自分がすでにイワンに腹を立て、兄に冷たくし、カタヴァーソフと軽薄な話をしたのを彼は思い出した。「こんなのは一時の気分で、やがて跡形もなく消えてくれるんだろうか?」彼は考えた。だがまさにその瞬間、気分を回復した彼は、何か新しい、大事なことが自分の内部で起こったのだということを、大喜びで思い出したのだった。現実が彼の見出した心の平穏を曇らせたのはただ一瞬のことだけで、心のうちにはその平穏は無事に残っていたのだった。蜂を恐れながらも彼の身体力は損なわれずに残ったように、新たに自覚された彼の精神の力も、完全に残っていたのだった。
15章

「ねえ、コズヌィシェフさんがここへ来る汽車で誰と一緒だったか、わかる?」ドリーがリョーヴィンに訊いた。「ヴロンスキーさんよ! あの人はセルビアへ行くんですって」「しかも一人でではなくて、自費で雇った騎兵中隊を率いていくんですよ!」カタヴァーソフが補足した。「いかにもあの人らしいな」リョーヴィンは言った。「それにしても、義勇兵というのはいまだに続々と出かけていくんですかね?」コズヌィシェフをちらりと見て彼は言い添えた。「義勇兵たちがみんな、どこへ行って誰と戦うのかご説明くださらんか?」老公爵がたずねた。「トルコ人と戦うんですよ」コズヌィシェフが答えた。「だが、いったい誰がトルコに宣戦布告したというんです?」「誰も宣戦布告などしていませんが、人々は身近な者の苦しみに同情し、彼らを支援したいと願っているのですよ」コズヌィシェフが答える。「でも公爵の言うのは支援のことではなくて、戦争のことですよ。つまり公爵は、政府の許可なしで個々人が戦争に参加することはありえないと言っているのです」リョーヴィンが義父の応援に乗り出した。「ほう、なるほど、それでそちらの理論は?」カタヴァーソフが笑顔でリョーヴィンに言った。「なぜ個人には権利がないんです?」「ぼくの理論はこうです。戦争は、一面から言えば獣的で、残酷で、恐ろしい事業ですから、キリスト教徒は言うに及ばず、どんな個人でも、戦争を開始する責任を一個人として負うことはできません。それができるのはただ政府のみで、政府はその使命を負っているのだし、またそのせいで不可避的に戦争に巻き込まれていくのです」「いや肝心なのはですね、政府が国民の意志とは矛盾した行動をとる場合があるということですよ。その場合、社会が自分の意志を表明することになるのです」カタヴァーソフは言った。コズヌィシェフは別の見解を述べた、「これは宣戦布告なんていう問題じゃなくて、単に人間的な、キリスト教的な感情の表現に過ぎないのさ。血を分けた、信仰を同じくする同胞が殺されているんだ。とにかく子供や女性や老人たちが殺されているんだ。それで義憤にかられたロシア人が駆けつけて、そうした残虐行為を止めさせるのに力を貸そうとしているのさ」「ぼくには兄さんの言うような感覚はありません」リョーヴィンは言った。「わたしも同じだよ」老公爵が言った。「個々人の意見など、この際なんの意味もありませんよ。コズヌィシェフが言った。「全ロシアが、つまり民衆が自分の意見を表明している場合には、個々人の意見などは無用となるのです」「その『民衆』っていう言葉がじつに曲者ですね」リョーヴィンは言った。「郷の書記とか、教師とか、まあ百姓の中でも1000人に一人くらいは、何が起こっているのかわかっているかもしれません。しかし残りの8000万人は、自分の意志を表明しないどころか、いったい何について意志表明しなくてはならないのさえ、まったくわかっていないのです。だとすれば、それが民衆の意志だなんていう権利がどこにあるのですか?」
16章

議論に長けたコズヌィシェフは、あえて反論せず、すぐに話題を別の方面に移した。「まあ、もしおまえが算術的な方法で民衆の精神を知ろうとするなら、当然大変な困難にぶつかるだろうさ。投票という方法もわが国には導入されていないし、導入することはありえない。というのも、そんなものは民衆の意志を反映しないからだ。だが方法は別にある。空気で感じ、心で感じればいいんだ。かつてはお互いひどく敵対していた知識人社会の多種多様な党派が、いまや全部ひとつに合流してしまったじゃないか。あらゆる反目が解消され、公共の媒体はすべて同じことを語っている。すべての人が、自分たちを捕らえてひとつの方向に運んでいく、ある根源的な力を感じ取っているんだ」「まったく、新聞はみんな同じことを書いていますな」老公爵が言った。「つまり新聞の論調の一致も、同じことなんでしょう。説明を聞いたことがあるが、なんでも戦争が始まると、たちまち連中の利益は倍になるらしい。だから新聞が、国民とスラヴ人の運命がどうとかこうとか書き立てるのも、あれも全部計算ずくじゃありませんかな?」リョーヴィンも議論に加わり、コズヌィシェフに言い負かされる。「いやはや、これは貴兄の負けですな。敗北、まったくの完敗でしょう!」嬉しそうにカタヴァーソフが宣言する。リョーヴィンは忌々しさに顔を赤らめた。自分が負けたことよりも、我慢ができずに議論を始めてしまったことに腹が立ったのである。ただひとつ間違いなくわかっているのは、今この瞬間、コズヌィシェフは議論に苛立っているので、これ以上言い合うのは愚策だということだった。それでリョーヴィンは口をつぐみ、雨雲が集まっているので降られないうちに家に帰ったほうがいいと客に告げたのだった。
17章

公爵とコズヌィシェフは荷馬車に乗り込んで先に行き、残りの者たちは早足で家を目指した。だが白い雲や黒い雲が見る見る押し寄せてきて、さらに足を速めなければひと雨来る前に家にたどり着けそうもなかった。真っ先に子供が、続いて大人たちが、楽しそうにがやがや言いながら屋根の下に駆け込んだ。「キティは?」出迎えたアガーフィヤにリョーヴィンはたずねた。「あら、ご一緒だとばかり思っていたのですが」「じゃあ、ミーチャは?」「きっとコーロックの森ですわ。乳母も一緒でしょう」リョーヴィンはさっとひざ掛けをひったくるようにして、コーロック目指して駆け出した。リョーヴィンがコーロックの森の手前まで駆けつけ、カシワの木の後ろに何か白っぽいものを見つけたと思ったとき、突然閃光が走った。リョーヴィンは大木がバキバキと裂けて他の木々の上に倒れ込む音を聞きつけた。「ああ神さま! どうかうちの者たちが下敷きになりませんように!」彼は口走った。キティたちは森の反対側の端にある古い菩提樹の下にいて、そこから彼を呼んでいた。リョーヴィンが駆けつけた時にはすでに雨は上がりかけ、明るさが戻りつつあった。乳母は上着が濡れているだけだったが、キティは全身ずぶ濡れで、服がすっかり体に張り付いていた。「だめじゃないか! こんなことをして! まったく、どうしてこんな軽はずみなまねができるのか、理解に苦しむよ!」「でもわたしのせいじゃないのよ。ちょうど帰ろうとしているところで、この子がむずかり出したの。おむつを替えてほしかったのね。それでちょっと……」キティは言い訳をしだした。赤ん坊のミーチャはすっかり無事で体も濡れておらず、ずっと眠りつづけていた。妻の隣を歩きながらカッとなったことに疚しさを覚えたリョーヴィンは、乳母に見られないようにこっそり妻の手を握った。
18章

この日の残りの時間、リョーヴィンは皆が交わす多種多様な会話に頭の表面だけで参加しながら、自分の内部で起こるはずだった変化に失望を覚えつつも、やはり自分の心の充実ぶりを、絶えず喜びをもって味わいつづけていた。雨の後は水溜りだらけで散歩に出かけるわけにもいかず、一同は一日の残りを、家の中で過ごすことにしたのだった。もはや口論は持ち上がらず、逆に夕食後はみんな飛びきりの上機嫌だった。カタヴァーソフが独特の冗談を言って女性たちを笑わせ、コズヌィシェフは東方問題の将来に対するみずからの見解を述べ、皆が聞き入っていた。キティだけがその話を中座しなければならなかった。ミーチャの入浴に呼ばれたのである。キティが行って数分すると、リョーヴィンも子供部屋の妻のもとに呼ばれた。「ねえほら、見て、見てちょうだい!」夫が近くまで来るとキティは言った。「アガーフィヤさんの言うとおりだったわ。この子わかっているのよ」じつはミーチャは、今日から明らかに、間違いなく自分の身内を見分けるようになったのである。リョーヴィンが湯船のそばまで来ると、ひとつの実験が行われ、完全に成功した。この目的のために呼ばれた料理女が、赤ん坊の上から顔を寄せてみると、赤ん坊は眉をしかめ、いやいやという風に首を横に振った。次にキティが顔を寄せてみると、子供はニコニコと笑い、小さな手で海綿をつかんで、唇とプルプル動かしてさも満足そうな不思議な音を立てたので、キティと乳母だけでなく、リョーヴィンまでも思いがけず有頂天になってしまったほどだった。「あなたがこの子のことを好きになってくれたのが嬉しいわ」キティが夫に言った。「だって、この子に対して何も感じないなんて言うんだもの」「そんな、何も感じないなんて言ったかい? ぼくはただ、がっかりしたって言っただけだよ」「ええ、この子にがっかりしたの?」「自分の気持ちにがっかりしたのさ。もっと多くのものを期待していたからね。とろこが今日、あの雷雨のときに恐ろしい思いをした後で、ぼくは自分がどれほどこの子を愛しているかを悟ったのさ」キティの顔が笑み輝いた。
19章

子供部屋を出て一人になると、リョーヴィンはすぐにまた先ほどの、なにか曖昧なものを含んだ思念を思い出した。いろいろな人の声が聞こえてくる客間に戻るかわりに、彼はテラスに立ち止まり、手すりに肘をついて空を眺めはじめた。「あなた、まだいらしたの?」不意に客間へ行こうとして通りかかったキティの声が聞こえた。「どうしたの、なにかいやなことがあったの?」星明かりに照らされた夫の顔を注意深くうかがいながら彼女は訊いた。幸いにも閃いた稲光が彼の顔を照らし出してくれたのだ。その稲光でしっかり見分けた夫の顔が、落ち着いた嬉しそうな顔をしていたので、キティは彼に微笑みかけた。「妻にはわかっているんだ」リョーヴィンは思った。「おれが考えていることがわかるんだ。妻に話してみようか? そうだ、話そう」だが彼が話しだそうとした瞬間に、彼女もまた口を開いたのだった。「ねえ、あなた! ひとつお願いがあるの」キティは言った。「角部屋に行って、義兄さんがお休みになる支度がちゃんとできているか、確かめてきてくださらない?」「わかった、必ず行ってみるから」立ち上がって妻にキスをしながらリョーヴィンは答えた。「いや、言う必要はない」妻を先に行かせて、彼は考えた。「これはおれ一人に必要で、大事な、しかも言葉では表現できない秘密なんだから。これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えてはそれを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの1分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味を持っている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにはあるのだ!」

ついに『アンナ・カレーニナ』を読み終えた。
一人読書会『アンナ・カレーニナ』の第1回を掲載したのが、
今年(2025年)6月6日だったので、
読了するまでに4ヶ月半ほどかかったことになる。
ただ読み通すだけなら、もっと短い日数で完読できると思うのだが、
この「一人読書会」はしっかり理解しながら熟読するのが目的なので、
章ごとに要約しながら、ゆっくり読み進めた。
一度読み、要約しながらもう一度読み、
内容が難しい章は何度も読み、理解に努めた。
なので、どの章も(少なくとも)二度以上は読んでいる。
高校時代、大学時代は、とにかく読み通すことだけを目的としていたので、
時間の経過とともに、内容は忘れてしまった。
70歳になって「一人読書会」をするようになり、
現在の尺取虫のような読書をするようになって、
内容を忘れることなく、『魔の山』も『カラマーゾフの兄弟』も、
本を開けば(いつでも)たちどころに物語世界の入ることができる。
さて、今回読んだ第4巻、第8部の1章~19章は、
『アンナ・カレーニナ』の最終部に当たり、
(このブログに)本来は2回くらいに分けて掲載するとこであるが、
1章から19章まで一気に紹介することにした。
まず1章には、リョーヴィンの異父兄コズヌィシェフが登場し、
田舎に住んでいる弟のリョーヴィンのところへ出かける場面から始まる。
コズヌィシェフは、駅で、オブロンスキーや、自費で騎兵中隊を率いて義勇兵として出発するヴロンスキーと出会う。
そして、アンナが鉄道自殺したときの様子や、その後のヴロンスキーのことが語られ、読者に知らされる。
6章で、コズヌィシェフはリョーヴィンの家に着き、
6章と7章は、キティのことが描かれ、
8章以降は、リョーヴィンの視点で物語が進む。
哲学的な記述や議論が多く、リョーヴィンの心情が細かく描かれ、
ちょっと驚かされたりもする。
「自分が何者か、なぜここにいるのかを知らないで、生きていくのは不可能だ。おれはそれを知ることができないから、したがって生きていくこともできない」リョーヴィンは自分に向かって言った。
「永遠の時間の中、無限に続く物質の中に、泡のような有機体が生まれ、その泡がしばし存在したかと思うとはじけて消えてしまう。その泡がおれだ」
こうした考えは恐るべき誤りだったが、しかしこれが、何世紀にもおよぶこの分野における人類の思想的営為の、唯一最終の帰結だったのである。
(中略)
だがこれは単に誤りであるばかりか、何か悪しき力の残酷なる嘲笑だった。それはけっして屈するべきではない、悪しき、忌まわしき力だった。
この力から逃れることが必要だった。そしてその手段はただ一つ、死ぬことだった。
こうして、幸せな家庭人であり、健全な男性であるリョーヴィンは、何度も自殺の寸前まで行き、首を縊(くく)らないように紐を隠したり、自分を撃つのが心配で猟銃を持ち歩くのを警戒したりしていたのである。
だがリョーヴィンは猟銃自殺も首縊りもせず、生きつづけていた。(303~304頁)
なんと、リョーヴィンも自殺を考えていたのだ。
そういえば、ヴロンスキーも一度自殺未遂事件を起こしているし、
アンナの死後は(自殺行為とも言える)義勇兵に志願し、戦地へ赴く。
このように『アンナ・カレーニナ』には死の臭いが色濃く漂っているのだが、
これは、作者であるトルストイ自身の体験が反映されているといえる。
『アンナ・カレーニナ』の連載が始まった1875年には、
子供の病死、妻の早産と発病(嬰児の死)といった状況の中で、
リョーヴィンと同じように、自殺を恐れて猟銃を遠ざけるまでになったという。
このように自死の問題は、きわめて実感的な経験に裏打ちされたものだったのである。
アンナは第7部の最後で死んでいるし、
本作も『アンナ・カレーニナ』というタイトルの小説なので、
物語も第7部で終わっても良かったのかなとは思うが、(雑誌版ではそうなっているし、映像化されたものもそういう扱いをしている作品が多いのだが)
第8部を読んで、やはり「第8部があって良かった」と思った。
この物語が、アンナの死で終わったら、あまりに悲惨だし、寂しい。
第8部のラストで、リョーヴィンが、
「これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えてはそれを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味を持っている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにはあるのだ!」(372~373頁)
と力強い希望の言葉を発するところで物語が終わるのが好い。
そして、最後までキティが希望の象徴であるのが好い。

『アンナ・カレーニナ』は、
アンナが主人公の単なる恋愛小説と思いきや、
リョーヴィン、キティ、ヴロンスキーなど多くの魅力的な人物が登場する、
多様性を持った複数のテーマ群が自在に展開される、
幅と厚みのある極上の一大恋愛叙事詩であった。
