
今年(2025年)の8月に刊行された、
『作家と山』(平凡社)という本を読んでいる。

『作家とおしゃれ』『作家と珈琲』『作家と酒』など、
「作家と〇〇」シリーズの1冊で、
『作家と山』には、
山好きであった昔の文豪から当代一のベストセラー作家まで、
登山の楽しみを描いたエッセイ、詩などが収録されている。
山が好きな人なら、
目次を見ただけでも楽しさが伝わってくるのではないだろうか?


【目次】
なだれ(井伏鱒二)
1 日本アルプス
槍ケ岳紀行(芥川龍之介)
涸沢の岩小屋のある夜のこと(大島亮吉)
霊気(豊島与志雄)
案内人風景(百瀬慎太郎)
奥穂と校了(若菜晃子)
南アルプス(吉田博)
駒鳥の谷(野尻抱影)
真夏の急登(沢野ひとし)
2 さまざまな山旅
雪中富士登山記(小島烏水)
「山上湖へ」より(若山牧水)
八ガ岳に追いかえされる(梅崎春生)
稜線を泳ぐ(南木佳士)
十勝の朝(中谷宇吉郎)
英彦山に登る(杉田久女)
阿蘇外輪(小杉放庵)
山小屋の一夜(畦地梅太郎)
山と温泉(小林百合子)
『崩れ』より(幸田文)
水源へ(安岡章太郎)
尾ノ沼谷(志水哲也)
最高の登山(石川直樹)
ウェストンの初登攀をたどる(服部文祥)
3 山へのあこがれ、山の愉しみ
筑波(岩本素白)
富士山頂から東京を見る(新田次郎)
漫談・火山を割く(牧野富太郎)
山のコドモ(岡本かの子)
低山登山は楽しい(安西水丸)
クルコノシェ山地から(出久根育)
コツコツ地道に(本上まなみ)
4 山の哲学
山に登る(萩原朔太郎)
凹面谷(串田孫一)
霧とサルオガセ(北杜夫)
初登山に寄す(今西錦司)
山は如何に私に影響しつつあるか(田部重治)
山の魅力(木暮理太郎)
登山家という言葉(深田久弥)
登山趣味(正宗白鳥)
「登山好き」が思うこと(湊かなえ)
なぜ登るのか(小手鞠るい)
山へ入る日・山を出る日(石川欣一)
すでに読んだことがあるエッセイや詩もあれば、
〈この人も山登りが好きだったのか……〉
と驚くような人物のエッセイもあり、
楽しく読ませてもらっている。
全部を紹介するのは土台無理なので、
印象に残った1編だけを採り上げてみたい。
それは、小手鞠るいの「なぜ登るのか」というエッセイ。
小手鞠るいという名前は知ってはいたものの、
どんな作家なのか知らなかったので、調べてみた。
【小手鞠るい】(こでまり・るい)
小説家、詩人、児童文学作家。
1956年3月17日、岡山県生まれ。69歳。(2025年10月現在)
同志社大学法学部卒業。
1981年、「詩とメルヘン」賞受賞。
1982年、詩集『愛する人にうたいたい』(川滝かおり名義)で、詩人として出発。
1995年、『玉手箱』で、小説家として再出発。
2005年、『欲しいのは、あなただけ』(新潮社)で島清恋愛文学賞受賞。
『エンキョリレンアイ』シリーズ三部作、『愛を海に還して』『空と海のであう場所』『別れのあと』『ロング・ウェイ』などの恋愛小説作品で人気を博する。
2009年、絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』がボローニャ国際児童図書賞を受賞。
2012年、『心の森』が第五十八回全国青少年読書感想文コンクール小学校高学年課題図書に選定される。
その他の児童書に『きみの声を聞かせて』『いつも心の中に』『あんずの木の下で』『お手紙ありがとう』『くろくまレストランのひみつ』『ねこの町のリリアのパン』など多数。

若い作家だと思っていたが、
1956年3月17日生まれなので、
学年でいうと、私の一つ下の学年ということになり、
私とほぼ同世代と言える。
「なぜ登るのか」というエッセイの中から、一部を引用する。
(アメリカ在住の作家なので、舞台はアメリカのどこかの山であろう)

いつの年だったか、どこかの登山路で、父親と息子の二人連れとすれ違ったときのこと。私は夫と下山中で、彼らは登山中だった。
十歳くらいの息子はすでにくたびれ果てていて、苦しそうな息を吐きながら、父親にたずねた。
「ねえ、お父さん、山の頂上には何があるの?」
こんな苦しい思いをして登るからには、頂上には、なんらかのご褒美がまっていてほしい。そんな気持ちが透けて見えた。
こういうとき、アメリカの父親は息子に、なんと答えるのだろうか。うちの夫なら「おいしい弁当が待っている」と答えるだろう。
私は興味を持って、ふたりの会話に耳を澄ました。父親は言った。
「頂上には何もない」
「ええっ!」
私も息子と同じことを思った。ええっ! 何もないの?
そのあとに父親がつづけた言葉は、まさしく名言だった。
「そこにはただ、到達したという満足感だけがある」
それ以来、私はふとしたとき、この名言をつぶやいていることがある。
この仕事を終えたら、そこには何があるの? 何もない。ただやり終えたという満足感だけがある。この人生を生き終えたら、そこには何があるの? 何もない。ただ生きたという満足感だけがある。(277~278頁)
私たちは、知らず知らずのうちに、山登りに有用性を見出そうとしている。
山頂からの眺めが良いとか、
珍しい花がたくさん咲いているとか、
健康に良いとか、
ストレス解消になるとか、
山頂で食べる弁当は美味しいとか、
それら利点を誰もがSNSで発信し、
自分はこんなに山を楽しんでいるのだとアピールする。
それを読んだり見たりした人々が、
同じ体験をするべく山へ向かい、SNSでまた同じような発信をする。
この繰り返し。
私はこれまでそんな繰り返しを何度も見てきたので、
「頂上には何もない」
「そこにはただ、到達したという満足感だけがある」
というシンプルな言葉が、新鮮であったし、心に響いた。
たぶん、頂上に至る道が登山者にとって困難であればあるほど、
満足感は大きくなるのだろう。
そして、小手鞠るいは、
「この人生を生き終えたら、そこには何があるの?」
と、自分に問い、
「何もない。ただ生きたという満足感だけがある」
と、自身にとっての答えを導き出す。
この人生を生き終えたら、そこには何があるの? 何もない。ただ生きたという満足感だけがある。
けだし名言。
登山にも、人生にも、
人々は「意義」や「意味」や「価値」などを見出そうとする。
だが、登山も、人生も、
そんな難しいもの、ややこしいものではなく、
(ましてや他人に有意義性をアピールしたりするものでもなく)
ただその人のみが感じることができる、
「到達したという満足感」だけがあればいいではなかろうか?
そう考えることができれば、
人生はもっと楽に生きられるような気がするのだが……
