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一人読書会『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)⑲ ……第7部、17章~31章……

 

一人読書会『アンナ・カレーニナ』の19回目は、

第4巻の、

第7部の17章~31章を読んでみたいと思う。

 

17章

 

オブロンスキーは窮地に立たされていた。森の3分の2の分の代金はすでに使い果たしてしまったし、残りの3分の1の分も、すでに1割引で例の商人からほとんど引き出してしまっていたのである。商人はもう金を出そうとはしなかったし、おまけのこの冬は、妻のドリーまではじめて自らの財産権を真っ向から主張して、森の最後の3分の1の代金受領契約に署名することを拒否したのだった。給料のほうはそっくり、家計費と残っていたこまごまとした借金の清算に消えていた。金は一文もなかった。彼が理解するところ、原因は給料が安すぎることにあった。そこで耳を澄まし、目を凝らして探った結果、冬の終わり頃にはとてもよい地位を発見したので、それに向かって彼は攻撃を開始した。それは近頃やけに増えた仕事の一つで、年棒は1000ルーブリから50000ルーブリまできわめてさまざまだが、賄賂の実入りが潤沢な、うま味のある地位であった。南部鉄道と複数の銀行の提携による信用相互合同代理委員会の委員の職である。この職は年棒が7000から10000、しかもオブロンスキーは現在の官職を辞することなくこの職につくことが可能であった。そこでオブロンスキーは、妹のアンナに、カレーニンから離婚についてのはっきりとした返事をもらってきてやると約束していたこともあって、カレーニンに会うためのペテルブルグへ行くことにした。カレーニンに会うと、なにかのついでのように切り出した。「そうそう、ところで、ひとつお願いがあったのですが、もしあのポモルスキー氏にお会いになったら、ぼくが今度できる南部鉄道信用相互合同代理委員会の職に就きたがっていると、ひとこと言っていただけませんか」「でも、おそらくこの件では、ボルガーリノフの発言権のほうが強いんじゃないですか」とカレーニンは言った。「ボルガーリノフ氏のほうは、完全に同意してくれているんですよ」とオブロンスキーは顔を赤らめて言った。

 

18章

 

「さて、もう一つご相談があるんですが。どんなことかはご承知ですね。アンナの件なんです」オブロンスキーがアンナの名前を出したとたん、カレーニンの顔つきががらりと変わった。「いったいどんなことをわたしに期待しているのですか?」「決着です。どうか妹を哀れんでやってください」「いったいどこを哀れめというのですか? わたしが思うに、アンナ・アルカージエヴナは望んでいたものすべてを手に入れたんじゃなのですか」「ご存知のように彼女が求め、ひたすら待っているのは、離婚ですよ」「しかしわたしの理解では、アンナ・アルカージエヴナは当方が息子を自分の手に残すという条件を要求した場合、離婚を承諾しないでしょう。わたしの返事はそういう趣旨でしたから、それでもう話は終わりと思っていました」「話は終わっていません。あなた方二人が別れたとき、あなたは実に寛大で、自由も離婚さえも、すべて妹に提供しようとされたのです。彼女は感謝していました。初めの頃はあなたに対する罪の意識ばかりが先にたって、結局彼女は、あなたが提供されたものを全部断ってしまいました。しかし、やがて現実が、時間が証明したのです。彼女の立場がいかにつらい、絶望的なものかということを」「わたしはもうアンナ・アルカージエヴナの生活に関心が持てないのです」「自業自得だと、あなたは言うでしょう。彼女もそれを心得ているので、あなたにすがることができないのです。しかし、ぼくが、いや彼女を愛している親族一同が、あなたにお願いし、おすがりしたいのです。彼女はもはや息子をくださいとは言っていません。今の彼女の立場では、離婚できるかどうかがまさに死活問題です。彼女を哀れんでくださるなら……どうかお願いします」「もうやめてください……この話は」「ああ、いやいや! これはすみません。ただぼくは使者役として、頼まれたことをお伝えしただけで」オブロンスキーは握手の手を差し伸べながら言った。カレーニンも手を差し出すと、ちょっと考えてから言った。「わたしもよく考え、指示を仰ぐ必要があります。あさって最終的な回答を差し上げましょう」

 

19章

 

すでにオブロンスキーが退出しようとしていたとき、コルネイが入ってきて客の来訪を告げた。「セルゲイ・アレクセーヴィチがお見えです!」〈セルゲイ・アレクセーヴィチって誰だろう?〉考えかけたオブロンスキーは、すぐに思い当った。「ああ、セリョージャか!」彼は言った。「そうそう、会ってきてほしいとアンナに頼まれたんだっけ」彼は思い出した。カレーニンは義兄に向かって、息子には母親の話はけっしてしないことにしているから、きみにも一言も触れないでもらいたいと、釘を刺した。「いや、立派になったもんですね! もはや昔のセリョージャじゃなくて、れっきとしたセルゲイ・アレクセーヴィチじゃないですか!」美男で肩幅の広い少年を眺めながら、オブロンスキーは笑顔で言った。「ぼくを覚えているかい?」少年はチラッと父親に目をやった。「覚えています、伯父さんでしょう」少年は足早に部屋を出て行った。セリョージャが母親を見たときから1年がたっていた。母親に似た伯父の顔を見るのは少年には不愉快だった。しかし後から部屋を出てきたオブロンスキーが階段にいる彼をみつけて呼び寄せ、セリョージャは父親のいない場で伯父と話をすることになった。カレーニンには子供にアンナの話はしないと約束したが、オブロンスキーは我慢ができなかった。「お母さんのことは覚えている?」「いいえ、覚えていません」セリョージャは早口でそう答えると、顔を真っ赤に染めて目を伏せた。伯父はもはや何ひとつ少年から聞き出すことができなかった。

 

20章

 

オブロンスキーはペテルブルグでただ漫然と時を過ごしているわけではなかった。せっかくペテルブルグにいる以上、彼の言う「モスクワのかび臭さ」を払拭してリフレッシュする必要があった。ペテルブルグに来ると、いつも10歳は若返った気がするし、自分がまたちゃんとした人間に戻った気がするのだ。ベッツィ・トヴェルスカヤ公爵夫人とオブロンスキーの間には、もう久しくきわめて奇妙な関係が続いていた。オブロンスキーはいつも冗談まじりにこの女性をくどくふりをみせ、同じく冗談まじりに、きわめて下品な話を持ちかけていた。カレーニンと話した翌日、彼女の家に立ち寄ったオブロンスキーは、あまりに若返った気分になっていたためつい調子に乗って、冗談まじりのくどき文句とでまかせが行き過ぎた結果、どうにも抜き差しならぬ状況になってしまった。実は彼女は彼の好みではなかったどころかむしろ大嫌いなタイプだったのだが、彼女の方が彼に大いに気があったので、困った事態となったのだ。そんなわけで、おりよくミャーフカヤ公爵夫人が訪れて二人きりの状況を解消してくれたので、彼は大いに喜んだ。オブロンスキーはミャーフカヤ公爵夫人に「実は昨日妹のことである人を訪ねて、最終回答をくれとお願いしたのです。ところがあの人は返事をくれずに、少し考えてみると言い、今朝、リディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の家に来るようにとの招待状を受け取ったのです」と相談した。「あの人たちはランドーにお伺いを立てようというんですよ」「どうしてランドーなんです? ランドーっていったい?」「あの有名な千里眼のジュール・ランドーをご存知なのですか?」夫人はランドーのことを説明し、「あのリディヤさんが、ランドーに夢中になって、あの方もカレーニンさんも、ランドーなしでは何ひとつ決められないようになってしまわれたんですよ。ですからあなたの妹さんの運命は、あのランドーいやベズズーボウフ伯爵の手に握られているわけです」と言った。

 

21章

 

オブロンスキーは約束の時刻よりも少しだけ遅れて、リディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の住む屋敷に入っていった。屋敷には夫人の他に、カレーニンとランドーがいた。ミャーフカヤ公爵夫人の推察どおりだった。ランドーは小柄で痩せぎすで、ひどく顔色が悪く、キラキラ輝く美しい目をした美男子だった。夫人が二人を引き合わせ、二人は握手した。「先ほどあの方をランドーさんとご紹介しましたけれど、ベズズーボフ伯爵とお呼びするのが本当なんですよ」と夫人が言ったので、オブロンスキーは「ええ、うかがっております。うわさでは、ベズズーボフ伯爵夫人のご病気を完全に治療されたとか」それでベズズーボフ伯爵夫人がランドーのことを気に入り、養子にし、ベズズーボフ伯爵となったのだ。しばしの沈黙の後、伯爵夫人はオブロンスキーに言った。「どうもあなたはカレーニンさんに対しては思いやりが足りないようですわね。あの方は心が変わったのです。新しい心を与えられたのですよ。あの方の内側で起きたその変化に、あなたはあまりお気づきではないのではありませんか」「いえ、すこしはわかっていますよ。もちろんあの人の不幸は……」「そう、その不幸が、心が新しくなるとともに最高の幸せとなったのです。わたし思ったんですけど、モスクワの人たち、とりわけ男性方は、いちばん宗教に無関心な人たちですわね。わたしの理解するところでは、残念ながらあなた自身は無関心派でしょう」「ぼくは無関心というよりも、待機中でして」「ああ、たえず胸のうちに神の存在を感じるとき、わたしたちが味わうあの幸せを、あなたがご存知だったら!」「しかし人間は時に、自分にはそのような高みにまで昇る力がないと感じることもあるでしょう」「英語はおわかりですか?」オブロンスキーにそうたずねて肯定の返事を得ると、伯爵夫人は立ち上がり、本棚の書物をえり分けはじめた。本を見つけると、元の場所に戻って、本を開いた。カレーニンとリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人が意味ありげに目を見交わし、それから朗読がはじまった。

 

22章

 

リディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の朗読を聞き、じっと自分自身に向けられているランドーの美しい、純真な、あるいはいんちきくさい視線を感じているうちに、オブロンスキーは頭の中に何か妙な重みを感じはじめたのだった。〈おれはどうやら今のところ、何も失礼なまねはしていないな。しかしやっぱり、この人にものを頼むわけにはいかない〉オブロンスキーはあくびを隠すために頬ひげを整える仕草をし、体をぶるっと震わせた。「この人眠っているわ」とリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人が言ったので、オブロンスキーはびっくりして正気に返ったが、この言葉は彼のことではなく、ランドーに向けられた言葉だったので、胸をなでおろした。ランドーの眠りは二人を、とりわけリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人を、大喜びさせた。カレーニンは立ち上がり、ランドーに歩み寄ってその手に自分の手を重ねた。「最後に来た者、あれこれ詮索をする者、その者は出て行くように!」目を閉じたままランドーは言った。「これはぼくのことですね、そうでしょう?」肯定の返事をもらうと、オブロンスキーはリディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人への依頼のことも、妹に関する要件も忘れ、ただ一刻も早くこの場から逃げ出したいという願いにかられて家を飛び出した。翌日、彼はカレーニンからアンナとの離婚に対するはっきりとした拒絶の返事を受け取った。そしてその決定が、昨晩あのランドーが、本当の眠りか狸寝入りかは別にして、眠りながらしゃべったことに基づいていることを理解したのである。

 

23章

 

家庭生活で何か新しいことを始めるためには、夫婦が完全に反目しあっているか、それともぴったりと和合しているか、いずれかの状況が必須である。夫婦の間がはっきりせず、反目とも和合ともつかない状況のときには、何事も始められない。多くの家庭が、夫婦ともにうんざりしている古い習慣から何年も抜け出せずにいるのは、ひとえに完全な反目も完全な和合も得られないせいなのだ。ヴロンスキーとアンナがモスクワ暮らしを続けていたのは、二人の気が合わないせいであった。二人を隔てている苛立ちの原因は、アンナにとってはヴロンスキーの愛情が薄らいできたことであり、ヴロンスキーにとってはアンナのためにつらい状況を引き受けたことへの後悔の念だった。嫉妬するアンナはヴロンスキーに腹を立て、何かにつけて言いがかりをつけようとした。何か時分の状況につらいことが起きると、すべて彼のせいにするのだ。夫カレーニンの引き伸ばしも、わが身の孤独さも、モスクワに暮らしているのも、息子と離れ離れになってしまったのも、彼のせいなのだった。すでに日は暮れていた。アンナは、独身グループとの会食に出かけたヴロンスキーの帰りを一人で待ちながら、昨日の口喧嘩でお互いが言ったことを細々と思い返していた。「わたしが悪いんだ。わたしはすぐにかっとなるし、やたらと嫉妬深いから。あの人と仲直りして、田舎へ行こう。田舎ならもっと気持ちも落ち着くから」彼女は胸の中で思った。「あの人は正しくて、正直で、わたしを愛していてくれる。わたしもあの人が好きだし、近いうちには晴れて離婚もできる。いったいほかに何が必要なの? そうだ、あの人が帰ってきたら、言おう。わたしが悪かったって。本当はわたしは悪くなかったんだけど。そして一緒にここを出て行くのよ」

 

24章

 

「おやおや! これはいいことを思いついたね!」玄関ホールに置かれたトランクを指差してヴロンスキーは言った。彼に口調には、何かしらアンナにとって屈辱的な響きがあった。まるで駄々をこねるのをやめた子供を褒めてやっているような調子だったからだ。「それで、いったいいつ出発するつもりだい?」「明日では支度が間に合わないから、あさってね」「ちょっと待って。あさっては日曜日だから、ぼくは母のところに行ってこなくてはならないんだ」彼女はカッとなって彼から身を遠ざけた。今や彼女の脳裏に浮かんでいるのは、ヴロンスキーの母親と一緒にモスクワ郊外に暮らしている公爵令嬢ソローキナであった。「そういうことなら、出発は取りやめましょう。遅くなるんだったら、私は行かないわ」「いったいどうしてなんだ? だって、そんなの意味がないじゃないか!」「あなたにとっては意味がないでしょうよ。あなたはわたしになんか何の用もないんだから。あなたはわたしの生活を理解しようという気がないんだわ。もしもあなたがわたしを愛していないのなら、そうはっきり言ってくれたほうがいいし、そのほうが正直というものだわ」「何できみは、ぼくの忍耐力を試すようなまねをするんだ? 忍耐にも限度があるんだぞ」「この人はわたしを憎んでいる」そう思ったアンナは、黙ったまま振り向きもせずに部屋を出た。「わたしが欲しいのは愛だ。でも愛はない。だとしたら、全部おしまい。だったら終わらせなくちゃ。でも、どうやって?」そう自問した。すると突然、自分の心にあるものが理解できた。そう、それこそが唯一すべてを解決してくれる考えだった。「そうだ、死ぬんだ!……夫の恥や不名誉も、わたしの恐るべき恥辱も、死ねば全部消える。死んでしまえば、あの人だって後悔して、わたしを哀れんで、愛して、わたしのために苦しんでくれるだろう」近寄ってくる彼の足音が、アンナのもの思いを破った。「アンナ、そうしたいのならあさって出かけよう。ぼくは言うとおりにするよ」彼女は泣きだした。「わたしなんか捨ててちょうだい! わたし、明日出て行くから……あなたを自由にしてあげるわ。あなたは愛してくれないから。ほかの女を愛しているから!」「アンナ、そんなに自分とぼくを苦しめて何になるんだ?」彼女の手にキスしながら彼は言った。彼女は自分の手に涙のしずくを感じた。すると瞬時にして嫉妬心が、情熱的な愛しさの気持ちに変わった。彼女は彼を抱きしめ、頭を、頸を、手をキスで埋め尽くしたのである。

 

25章

 

すっかり仲直りができたと感じたアンナは、朝から張り切って出発の準備に取り掛かった。彼女が自分の部屋で荷物を選んでいると、すでに着替えをすませたヴロンスキーが入ってきた。「これから母のところへ行って来る。これで明日にはぼくも出発の準備ができているよ」と彼は言った。ヴロンスキーの従僕が、ペテルブルグから届いた電報の受け取りにサインしてほしいと言ってきたとき、ヴロンスキーはまるでアンナから何かを隠そうとするかのように、サインは書斎でするからと断ったのを見て、アンナの表情ががらりと変わった。「誰からの電報なの?」「スティーヴァからさ」「なぜわたしに見せてくれなかったの? 兄とわたしの間にいったいどんな秘密があるっていうの?」ヴロンスキーは従僕を呼び戻して、電報をもってくるように命じた。「彼が書いているのは、いまだ何の成果も得られず、数日中に最終回答が約束された、というだけだ。ほら、読んでごらん」アンナは震える手で電報を受け取り、読んだ。「いつ離婚が成立しようとわたしにとってはまったく同じことだし、離婚が成立するかしないかっていうことさえ、どうでもいいの。だから、わたしに隠す理由なんかまったくなかったのよ」苛立ちをつのらせて彼女は言った。「何のためにあなたは離婚を望んでいるわけ?」「きみのためと、そして子供たちのためだよ」「子供はできないわ」「それはとても残念だ」牡馬を買ったヴォイトフが到着した。アンナは立ち上がって部屋を出て行った。出かける前にヴロンスキーが彼女の部屋に入ってきた。「何か用?」「ガンベッタの血統証明書を取りにきた。あいつを売ったから」彼が部屋を出ようとしたとき、彼女が何かを言ったような気がして、「なんだい、アンナ?」と訊いた。「べつに」彼女は冷たく、落ち着き払った声で答えた。

 

26章

 

喧嘩したまま一日が過ぎたことは、これまで一度もなかった。今日が初めてである。しかもこれはもう喧嘩とは言えなかった。完全に熱が冷めてしまったことを、はっきり認め合ったのだ。彼女への気持ちが冷めたというよりは、ほかの女を愛したせいで、彼女が憎くなったのだ̶̶それは明らかだった。一日中彼を待っていたアンナは、晩に自室へ引き上げる際、頭痛がすると伝えるように言い置きながら、心の中でひとつの謎かけをした。「もしもあの人が、小間使の言葉を無視して来てくれるなら、つまり愛しているんだ。もしそうでなければ、つまりすべては終わりなのだから、そのときはどうすればいいのか自分で決めよう!……」晩遅くにヴロンスキーは帰ってきたが、自分の部屋に引っ込んでしまった。すなわち、すべては終わりだった。そのとき、死が明らかに生き生きと彼女の脳裏に浮かび上がった。死こそ彼の心に自分への愛情をよみがえらせ、彼を罰し、自分の心に住み着いた悪霊と彼との間に行われていた戦いに勝つための、唯一の手段だった。朝起きると、馬車が停まる音が聞こえたので窓を見ると一台の箱馬車が見えた。ヴロンスキーは表階段に出て、箱馬車に近づいていった。藤色の帽子の若い女性が、彼に包みを渡す。馬車は去り、彼はすばやく階段を上がって部屋に戻った。アンナは自分の決意を表明しようと、彼の書斎に入っていった。「さっきのはソローキン公爵の夫人と令嬢が立ち寄って、母からの金と書類を届けてくれたんだ。頭痛はどうだい、良くなった?」彼女の不吉な、物々しい表情をあえて無視して、彼は平然と言った。アンナは部屋の真ん中に立って、黙ったままじっとヴロンスキーを見つめた。ヴロンスキーは彼女に目をやると、一瞬顔をしかめて、手紙の続きを読み始めた。アンナは部屋を出て行こうとした。「そうだ、われわれは明日出発ということで決まりだね? そうだろう?」「あなたはね、でもわたしは違うわ」「アンナ、そんな風じゃ暮らしていけないよ」「あなたはね。でもわたしは違うわ」彼女はくりかえした。「これはもう我慢がならない!」「あなたは……きっとこのことを後悔するわよ」そう言って彼女は出て行った。ヴロンスキーは後を追おうとしたが、無視することにした。彼は、母に委任状に署名をしてもらう必要があったので、町に出かけた。アンナは二階の窓から出かける彼を見ていた。彼は、窓を見上げようともせず馬車に乗り込むと、足を組んだいつものポーズで席に坐り、手袋をはめながら角を曲がって姿を消した。

 

27章

 

「行ってしまった! 終わったんだ!」アンナは窓辺に立ったまま胸の中でつぶやいた。すると、ぞっとするような恐怖が彼女の心を満たした。アンナは呼び鈴をならして召使を呼び、ヴロンスキーの行き先を訊いた。召使は厩舎へ出かけられましたと答えた。「今手紙を書くから、ミハイラに言付けて厩舎に届けて。大至急よ」彼女は腰を下ろして書いた。「ごめんなさい。お話ししたいので、家に戻ってください。お願い、帰ってきてください。わたしは恐いのです」さっき使いに出した者が箱馬車で戻ってきた。「伯爵はいらっしゃいませんでした。ニージェゴロド線でお出かけのようで」「何ですって? ではこの同じ手紙を、ヴロンスカヤ伯爵夫人の村まで届けてきて。そうしてすぐに返事をいただいてくるんですよ」彼女は使いの者に言った。「オハナシシタキコトアリ、スグニオモドリヲコウ」という電文を書き、電報も打った。「アンヌシカ、ねえ、わたしはどうしたらいいの?」「お出かけになれば、きっと気も晴れますから」小間使いは言った。「そうね、出かけるんだった」彼女は急いで家を出て、馬車に乗った。「どこへ参りましょうか?」「ズナーメンカの、オブロンスキー家へ行って」

 

28章

 

アンナはオブロンスキー家の階段を上った。「どなたかお客さまなの?」彼女は玄関ホールでたずねた。「リョーヴィン家のカテリーナさまです」召使が答えた。「キティだ! ヴロンスキーが好きだった、あのキティだ」アンナは思った。「あの人が懐かしそうに思い出していた、あのキティだわ。あの人はキティと結婚しなかったのを後悔している。わたしのことは憎しみをもって思い出し、そうしてわたしと一緒になったことを後悔しているんだわ」アンナが着いたとき、姉妹は授乳についての相談をしているところだった。「あら、まだお発ちじゃなかったの? 今日、スティーヴァから手紙を受け取ったわ。カレーニンさんがいったいどうしたいのかわからないけれど、とにかく答えをもらわないうちは帰らないと書いてあるわ」「手紙を読ましてくださる?」「いま持って来るわ。でも断られたわけじゃないのよ。それどころか、スティーヴァは期待を持っているわ」「わたしは期待していないし、それに願ってもいないのよ」ドリーが手紙を持ってきた。アンナはそれを読むと、黙って返した。「全部知っていることばかりだわ」彼女は言った。「それにこのことには全然関心がないの」ドリーはこんな奇妙な、苛々した状態のアンナを見たことがなかった。「さては、キティはわたしから隠れているのね?」アンナが言った。「あら、何を言うの! 妹はお会いするのをとても喜んでいるわ。今来ますからね」ドリーが言った。「ほら、来たわ」アンナが来たと知ったとき、キティは会いたがらなかったのだが、ドリーがそれを説き伏せたのだった。キティはアンナが敵意を持って自分を見ているのを感じた。彼女はそれを、かつては保護者のような態度を取っていたアンナが、いまは彼女に対して気まずい状況に追いやられていることから来るものと解釈し、アンナがかわいそうになった。「あなたのことはご主人からもうかがったのよ。ご主人はうちにもいらしてくださって、わたし大好きになりましたわ」あからさまに悪意のこもった調子で彼女は付け加えた。「ご主人はどちらに?」「田舎に出かけています」顔を赤らめてキティは言った。「わたしからご主人によろしく、必ずお伝えくださいね」「必ず伝えますわ!」同情の目でアンナの目を見つめながら、キティは純情に相手の言葉をくりかえした。

 

29章

 

馬車に乗ったアンナの気分は、家を出たときよりももっと落ち込んでいた。さっきまでの苦しみに、今ではキティと会ってはっきりと味わった屈辱感と、世間の鼻つまみ者になったような感覚が加わったからである。わたしはドリーさんに話すつもりだったけれど、話さなくて良かったわ。わたしが不幸だと知ったら、あの人はさぞ喜んだことでしょうから! キティのほうは、もっと大喜びしたでしょうね。わたしが彼女の夫に対して普通以上に優しくしたことを、彼女は知っている。それでわたしを嫉妬し、憎んでいるんだ。もしもわたしが本当にふしだらな女だったら、わたしは彼女の夫を夢中にさせてしまうことだってできたでしょう……もしもその気になれば。そう、本当にそんな気もあったわ。誰でも甘いもの、おいしいものがほしい。お菓子がなければ、汚いアイスクリームだってかまわない。キティだってそうよ。ヴロンスキーがだめならリョーヴィンでというわけ。それで彼女はわたしに嫉妬し、憎んでいる」気がつくと自宅の車寄せに着いていた。「返事は来ている?」彼女は玄関番に訊いた。玄関番は電報の四角な薄い封筒を彼女に差し出した。「ジュウジマエニハモドレナイ。ヴロンスキー」彼女は読んだ。「そういうことなら、わたしだってどうすべきかわかっているわ。こちらのほうからあの人のところへ押しかけてやるんだ」彼女は自分で勝手に、ヴロンスキーはいまごろ母親とソローキナを相手に平然と会話にふけり、彼女の苦しみをほくそ笑んでいるものと、決めてかかっていたのだ。「そうだ、鉄道の駅まで行くんだ。もしそこで見つからなかったら、こっちが汽車で出かけて行って、現場をつかまえてやろう」アンナは馬車を出すように命じて外に出た。

 

30章

 

「あの人がわたしの内に求めていたのは何だったのか? それは愛というよりも、むしろ虚栄心の満足だわ」初めて関係ができた頃の彼の言葉を、おとなしい猟犬を思わせるようなその顔を、アンナは思い起こした。「あの人はわたしのことを自慢に思っていた。でももうそういう時期はすぎて、自慢するものがなくなった。自慢するどころか、むしろ恥ずかしくなったんだ。わたしの愛はますます激しく、エゴイスティックになっていくのに、あの人の愛はどんどん消えてなくなっていく。それが別れる原因なんだ」馬車がニージェゴロド線の駅の低い駅舎に着いた。「オビラロフまででしょうか?」ピョートルが訊いた。「ええ」ピョートルに答えて財布を渡し、彼女は馬車を降りた。人ごみを書き分けながら一等車の待合室に向かううちに、彼女は自分のおかれた具体的な状況の総体と、自分が決断に迷っているいくつかの選択肢について、少しずつ思い出していた。するとまたもや、希望と絶望がかわるがわる浮かんできては昔からの痛点に触れ、苦しみ果てて恐ろしいほど戦(おのの)いている心の傷を刺激しはじめるのだった。

 

31章

 

一番ベルが鳴って、どこかの若い男たちが待合室を出ていった。二番ベルが鳴ると、続いて荷物を運ぶ音がして、騒音、叫び、笑い声が響いた。とうとう三番ベルが鳴り響き、汽笛が鳴り、機関車がきしみ、連結の鎖がビンと引っ張られ、車両は動き出した。アンナは、軽やかな振動に身を委ねて新鮮な空気を吸い込みながら考えていた。「わたしたちはみんな苦しむように作られているのだし、そのことを知っているから、誰もが自分を騙す手段を考え出そうとしているんだ。でも本当のことがわかってしまったら、いったいどうしたらいいんだろう?」汽車が駅に着き、他の乗客の群れとともに降車したアンナは、まるで伝染病患者を避けるように彼らから身をよけながら、プラットホームに立ち止まると、自分がここにやってきたわけと、これからやろうとしていたことを、懸命に思い出そうとした。アンナがポーターと話しているところへ、御者のミハイラが現れ、アンナに手紙を渡した。「あいにくきみの手紙と行き違いになった。ぼくは10時に戻る」乱暴な筆跡でヴロンスキーはそう書いていた。「なるほど! こんなことだと思っていたわ!」敵意に満ちた薄笑いを浮かべて彼女はつぶやき、プラットホームの上を駅舎の先まで歩いていった。「ああ、わたしはどこへ行けばいいんだろう?」そして突然、初めてヴロンスキーと出会った日に轢かれた男のことを思い出すと、アンナは自分が何をするべきか悟った。彼女はまさに通り過ぎようとしている汽車のすぐ脇に立ち止まった。車体の下部に目をやり、目分量で前輪と後輪の中間点を測り、その中間点がちょうど自分の目の前に来るタイミングを計ろうとした。「あそこだ! あそこの、ちょうど真ん中に跳び込むんだ。そうすればあの人を罰して、そしてみんなからも、自分からも自由になれるんだ」アンナはちょうど目の前に来た先頭車両の中間点に倒れこもうとしたが、赤いバッグを手から外すのに手間取って、タイミングを逸してしまった。彼女は十字をきった。彼女は近づいてくる第二車両から目を離さなかった。そしてちょうど前後の車両の中間点が目の前に来たとき、彼女は赤いバッグを放り出すと、首をぎゅっとすくめて車両の下へうつぶせに身を投げ、まるですぐに立ち上がろうとするかのように軽やかな動きで、膝立ちの格好になった。そしてその瞬間、自分のしてしまったことにぞっとした。「ここはどこ? わたしは何をしているの? なぜ?」彼女は身を起こして飛びのこうとした。だが何か巨大なもの、容赦のないものが彼女の頭をドンと突き、背中をつかんで引きずっていった。「主よ、すべてをお許しください!」抗うのは不可能だと感じて、彼女は言った。こうしてアンナが、不安と欺瞞と悲哀と嘘に満ちた書物をその光で読んでいたろうそくが、ひとたびかつてないほど鮮やかな光で輝き、これまで闇の中にあったもののすべてを彼女に照らし出してみせたかと思うと、ぱちぱちとはじけて次第に暗くなり、そして永遠に消えてしまった。

 

17章から22章は、

お金のことで窮地に立たされているオブロンスキーの様子と、

そのオブロンスキーが妹アンナのために、

レーニンに会って、離婚してくれるよう頼んでいる場面が描かれている。

そして、23章から31章までは、

アンナとヴロンスキーの愛が冷めていく過程が描かれる。

 

「結婚と家族のあり方」というテーマは、

アンナ・カレーニナ』の通奏低音となるものだが、

同時にトルストイ自身の切実な個人的な課題でもあったのだろう、

なんども繰り返し執拗に論じており、

アンナ・カレーニナ』の冒頭の、

「幸せな家庭はどれもみな似ているが、不幸な家庭にはそれぞれの不幸の形がある」

という一文を持ち出すまでもなく、

トルストイは、この小説の中に、家庭生活における警句をちりばめている。

 

家庭生活で何か新しいことを始めるためには、夫婦が完全に反目しあっているか、それともぴったりと和合しているか、いずれかの状況が必須である。夫婦の間がはっきりせず、反目とも和合ともつかない状況のときには、何事も始められない。多くの家庭が、夫婦ともにうんざりしている古い習慣から何年も抜け出せずにいるのは、ひとえに完全な反目も完全な和合も得られないせいなのだ。(第4巻、178頁)

 

という文章もその一つであるが、

ヴロンスキーとアンナがモスクワ暮らしを続けていたのは、

二人の気が合わないせいであったのだ。

二人を隔てている苛立ちの原因は、

アンナにとってはヴロンスキーの愛情が薄らいできたことであり、

ヴロンスキーにとってはアンナのためにつらい状況を引き受けたことへの後悔の念だった。

嫉妬するアンナはヴロンスキーに腹を立て、

何かにつけて言いがかりをつけようとする。

何か自分の状況につらいことが起きると、すべて彼のせいにするのだ。

夫カレーニンの引き伸ばしも、

わが身の孤独さも、

モスクワに暮らしているのも、

息子と離れ離れになってしまったのも、

すべて彼のせいなのだった。

こうして、アンナは自分で自分を追い詰めていく。

そして、ついに、「死」を考えるようになる。

 

「そうだ、死ぬんだ!……夫の恥や不名誉も、セリョージャの恥や不名誉も、わたしの恐るべき恥辱も、死ねば全部消える。死んでしまえば、あの人だって後悔して、わたしを哀れんで、愛して、わたしのために苦しんでくれるだろう」(第4巻、193頁)

 

今では死を思ってももう恐ろしくも生々しくも感じられず、死自体も避けがたいものとは思えなかった。(第4巻、222頁)

 

「死んでしまえば、あの人だって後悔して、わたしを哀れんで、愛して、わたしのために苦しんでくれるだろう」とアンナが考えるところを読んで、

私は高野悦子の『二十歳の原点』を思い出した。

 

アンナと同じく鉄道自殺した高野悦子もまた、

〈私が死んだら、あの人はどう思うだろう……〉

というような心の描写があったように思う。

 

自殺は個人的な死でありながら、他者を意識した死でもあるような気がする。

 

死への誘惑は、やがて現実のものとして、アンナを覆い尽くす。

 

そして突然、初めてヴロンスキーと出会った日に轢かれた男のことを思い出すと、アンナは自分が何をするべきか悟った。給水塔から線路まで続いている階段を軽やかな足取りで駆け下りると、彼女はまさに通り過ぎようとしている汽車のすぐ脇に立ち止まった。車体の下部に目をやり、ゆっくり走ってくる先頭の車両のネジや連結鎖や、背の高い鉄の車輪を見つめながら、目分量で前輪と後輪の中間点を測り、その中間点がちょうど自分の目の前に来るタイミングを計ろうとした。

「あそこだ!」貨車の陰、枕木の上に撒いてある石炭まじりの砂を見つめながら、彼女は自分に言い聞かせた。「あそこの、ちょうど真ん中に跳び込むんだ。そうすればあの人を罰して、そしてみんなからも、自分からも自由になれるんだ」

アンナはちょうど目の前に来た先頭車両の中間点に倒れこもうとしたが、赤いバッグを手から外すのに手間取って、タイミングを逸してしまった。中間点が通り過ぎてしまったのだ。次の車両を待たなければならなかった。ちょうど水浴びをしようとして水に入っていく瞬間に感じるのと同じような気分にとらわれながら、彼女は十字をきった。十字をきるという慣れた動作が、彼女の心に娘時代、子供時代の思い出を次から次へと呼び覚まし、すべてを彼女の目から覆い隠していた闇が突如として裂けると、一瞬、生命がかつてのような明るい歓喜の数々を伴って目の前にたち現れた。だが彼女は近づいてくる第二車両から目を離さなかった。そしてちょうど前後の車両の中間点が目の前に来たとき、彼女は赤いバッグを放り出すと、首をぎゅっとすくめて車両の下へうつぶせに身を投げ、まるですぐに立ち上がろうとするかのように軽やかな動きで、膝立ちの格好になった。そしてその瞬間、自分のしてしまったことにぞっとした。「ここはどこ? わたしは何をしているの? なぜ?」彼女は身を起こして飛びのこうとした。だが何か巨大なもの、容赦のないものが彼女の頭をドンと突き、背中をつかんで引きずっていった。「主よ、すべてをお許しください!」抗うのは不可能だと感じて、彼女は言った。あの百姓が何かを唱えながら、鉄を加工していた。こうしてアンナが、不安と欺瞞と悲哀と嘘に満ちた書物をその光で読んでいたろうそくが、ひとたびかつてないほど鮮やかな光で輝き、これまで闇の中にあったもののすべてを彼女に照らし出してみせたかと思うと、ぱちぱちとはじけて次第に暗くなり、そして永遠に消えてしまった。(第4巻、251~253頁)

 

「彼女は身を起こして飛びのこうとした」とあるので、

アンナは一瞬自殺を思いとどまった節もあるのだが、

悪魔なのか、死神なのか、「何か巨大なもの、容赦のないものが彼女の頭をドンと突き、背中をつかんで引きずっていった」のである。

この描写はリアルである。

こうしてアンナは永遠に消えてしまったのだ。

 

第7部はアンナの死で終わる。

アンナ・カレーニナ』というタイトルの小説なので、

物語もここで終わってもよさそうなものだが、(雑誌版ではそうなっているし、映像化されたものもそういう扱いをしている作品が多いのだが)

この後に第8部が用意されている。

はたしてどういう結末を迎えるのか……

読むのが楽しみでもあり、物語の終焉が寂しくもある。

では、第8部にとりかかろう。

 




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