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一人読書会『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)⑱ ……第7部、1章~16章……

 

一人読書会『アンナ・カレーニナ』の18回目は、

第4巻の、

第7部の1章~16章を読んでみたいと思う。

 

1章

 

リョーヴィン夫妻がモスクワに移ってすでに3か月めになった。キティの出産予定日はとっくに過ぎていたのだが、周囲の人々は焦りと不安を覚えはじめていたものの、ただキティだけが落ち着いた、幸せな気分でいるのだった。ただひとつだけこの幸せな暮らしに苦味を添えているのは、夫が、彼女の好きな田舎にいるときの夫とは違っていることだった。都会の夫は、まるで何かを逃すまいとするかのようにいつも焦っていて、しかも何ひとつするべきことがなかった。彼女から見ても、そんな夫は哀れだった。都会暮らしのひとつの長所は、この町に来て以来、夫婦喧嘩が一度もなかったことである。移る前にはあんなにも恐れていた嫉妬ゆえの夫婦喧嘩が、モスクワに来てからぴたりとなくなったのである。この意味で二人のどちらにもきわめて重要な、ひとつの出来事も起こっていた。キティがヴロンスキーと再会したのである。キティの名付け親でいつも彼女を可愛がってきたマリヤ・ボリーソヴナ老公爵夫人が、どうしても彼女に会いたいと言ってきたので、父親同伴で出かけたのだが、その夫人の家でヴロンスキーと出会ったのである。会ったとき、一瞬だけ息が途切れ、血が心臓に逆流して、自分でもわかるほどに顔が真っ赤に染まってしまった。ただしそれは何秒しか続かなかった。すぐに心の準備を整えて、ヴロンスキーを見ることも、必要とあれば話すこともできるようになっていた。キティがリョーヴィンにヴロンスキーに会ったことを告げると、彼女の曇りのない目を見たリョーヴィンはたちまち心を落ち着かせ、あれこれ質問しだした。そして細かい話まで聞き出したリョーヴィンは、すっかり上機嫌になり、今度ヴロンスキーに出会ったらできるだけ友好的な態度をとろうと表明した。

 

2章

 

「あなた、すみませんけれど、もうわたしの手元には50ルーブリしかないのよ」キティが言った。「ああそうか、じゃあ銀行へ行って下ろしてくるよ。いくらいるんだい?」リョーヴィンは答えた。「いいえ、ちょっと待って。ちょっと話し合いましょう、心配だから。わたし、何も無駄遣いはしていないつもりなんだけれど、お金がどんどん出て行ってしまうのよ。わたしたち、何か間違ったことをしているんじゃない?」「そんなことはないさ」咳払いをしながら彼は言った。「本当にわたし時々、お母さまの言うことを聞いたのを後悔しているのよ。村にいたらどんなによかったことでしょう! こっちへ来たものだから、あなたたちみんなに迷惑を掛けるし、お金だって余分にかかるし……」「大丈夫だよ」「本当? ああ、そう! ドリー姉さんがすっかり困ってらっしゃるのを知ってる? 借金だらけで、お金が一銭もないのよ。昨日お母さまとアルセーニーさん(すぐ上の姉ナタリーの夫リヴォフを、彼女はこう呼んでいた)とで話し合って、あなたとアルセーニーさんとでスティーヴァ義兄さんのところへ行ってもらうことにしたの」「でもいったいぼくたちに何ができるんだ?」モスクワに来てから、お金が小鳥のようにスイスイと消えていく。一年中今のような支出を続けていれば、借金なしでは暮らせないという計算さえも、もはや何の意味ももたなかった。とうとう銀行の金も尽きてしまい、リョーヴィンはどこから金を手に入れたらいいのかもよくわからないのだった。それでキティが金の話をしたとき、そのことが一瞬彼の気持ちをかき乱した。

 

3章

 

今回モスクワへ来てからリョーヴィンは、結婚式のとき以来会っていなかった大学の同級生で教授をしているカタヴァーソフと、再び親しく付き合うようになった。昨日、公開講演会の席でリョーヴィンと出会ったカタヴァーソフは、リョーヴィンが大変高く買っていた論文の著者である有名なメトロフ氏が今モスクワに来ていて、自分がリョーヴィンの著作のことを話したところ大変関心を示していたのだが、ついては明日11時に自分の家に来ることになっていて、知り合いになれれば大変喜ぶだろう、と告げたのだった。小さな客間でリョーヴィンを迎えたカタヴァーソフは、メトロフをリョーヴィンに紹介した。リョーヴィンは慎重に、足元を確かめるようにしながら、自分の意見を述べていった。しかしメトロフはリョーヴィンの考えを最後まで聞こうともせずにさえぎって、自説の特殊な点を彼に向かって説明しだしたのであった。やがて、自分たち二人はものの見方がまったく違っているから、けっして互いに理解しあえないだろうということを確信すると、リョーヴィンはもはや逆らうのやめてひたすら聞く側に回ってしまった。「そろそろ出ないと遅刻ですね」カタヴァーソフが言った。今日はスヴィンティチの生誕50周年を記念して学術愛好者協会で大会があり、カタヴァーソフとメトロフは参加することになっていたのだ。「ご一緒しましょう。もしよろしければ、帰りにわたしのところにもお寄りください」とメトロフに勧められたので、リョーヴィンも参加することにした。しかし大会の会議の間にリョーヴィンの気持ちに変化が生じ、メトロフの招待を断り、リョーヴィンはリヴォフの家へと向かった。

 

4章

 

キティの姉ナタリーの夫であるリヴォフは、生涯ペテルブルグとモスクワの両首都および外国で過ごした人物で、教育を受けたのも外国なら、仕事も外交官であった。だが、去年彼は、別にトラブルもないのに外交官の職を辞し、宮内庁に移って勤務先もモスクワへと移した。これは二人の子供に最高の教育を受けさせるためであった。二人は習慣もものの見方もまったく対極的であり、おまけにリヴォフのほうがリョーヴィンよりも年上だったにもかかわらず、この冬は妙に頻繁に顔を合わせて、互いに親しみを覚えていた。リヴォフが在宅だと聞いて、リョーヴィンは取次ぎ抜きで彼の部屋に向かった。二人が教育論を話し合っているときに、美しいナタリー夫人が部屋に入ってきた。「キティの具合は? 今日わたしはお宅に夕食をお招ばれするんですよ」こうして夫婦の間で、一日をどう過ごすかという相談が始まった。結果として、まずリョーヴィンとナタリーが馬車に乗ってコンサートと公開会議に行き、そこから役所にいるアルセーニーに馬車を回し、アルセーニーが馬車で妻を迎えに来て、そのままキティのところへ送り届ける。もしくは、まだ彼の仕事が終わっていないようだったら、そのまま馬車を戻して、リョーヴィンが彼女を連れて行く、ということになった。リョーヴィンは玄関ホールに出たとき、頼まれごとを思い出した。「ああ、キティがあなた方と何かオブロンスキーについて相談してこいと言っていましたっけ。お母さまは、ぼくたち義弟であの人をやっつけてほしいんですよ」彼はリヴォフに向かって言った。「だったら、あの人をやっつける役はわたしがやるわ」純白の犬の毛の袖なしマントを着て話が終わるのを待っていた夫人が言った。「さあ、行きましょう」

 

5章

 

午後のコンサートでは、きわめて興味深い2曲が演奏されることになっていた。ひとつは幻想曲『荒野のリア王』で、もうひとつはバッハを記念した四重奏曲であった。リョーヴィンは両曲について自分の感想をまとめてみたいと思った。義姉を指定席まで案内すると、彼は円柱の脇にたたずんだまま、できるだけ注意深く、身を入れて聴くことにした。だが、リア王の幻想曲を聴けば聴くほど、感想をまとめるのが難しくなった。絶えずわき起こってくるモチーフが、すぐに新しい原理による音楽表現の断片に分解してしまう。リョーヴィンは耳の聴こえない人がダンスを見ているときのような感覚を味わっていた。曲が終わったときには、完全に狐につままれたような気がして、深い徒労感を覚えていた。リョーヴィンは、有名な音楽通の一人が彼の知人のペスツォフと話しているのを見つけ、疑問をぶつけてみた。幕間にリョーヴィンとペスツォフは音楽におけるワグナーの流儀の長所と欠点について議論した。2曲目は、もはやリョーヴィンは聴くことができなかった。そばにくっついたままのペスツォフが絶えず話しかけてきたからだった。ホールを出る際にも、リョーヴィンはさらに多くの知人と出会い、政治や音楽や共通の知人たちの話を交わした。ついでに訪問する約束をすっかり忘れていたボーリ伯爵とも顔を合わせた。「ではこのまま行ってらっしゃいな」ナタリーにそのことを言うと彼女は言った。「それで、もしも門前払いだったら、会議の場所に私を迎えに来てね。まだ間に合うでしょうから」

 

6章

 

リョーヴィンはボーリ伯爵夫人の家をたずねた。客間を抜け、次の小さな客間に入ると、そこには伯爵家の二人の娘と、リョーヴィンが面識のあるモスクワの大佐がいた。伯爵夫人がやってきて、妻のこととコンサートのことを質問した。リョーヴィンはそれに答え、さらにアプラクシナ夫人の急逝についての質問をくりかえした。やがてリョーヴィンはボーリ伯爵夫人の家を辞し、義姉と落ち合って家へ連れ帰る段取りになっている南東委員会の公開会議に出かけていった。公開会議の席は大変なひぎわいで、しかも上流階級の者たちがほぼ顔をそろえていた。リョーヴィンはスヴィヤシュスキーやオブロンスキーと顔を合わせた。他にもたくさんの知人と出会ったリョーヴィンは、今の会議のこと、新しい戯曲のこと、裁判のことなどについて自分もしゃべり、いろいろな人の意見も聞いた。しかし注意力が散漫になっていたせいで、裁判のことを話しながら間違ったことを言ってしまい、そしてその間違いが後になって何度も腹立たしく思い出された。義姉と連れ立って自宅に寄り、キティが元気に朗らかにしているのを確認してから、リョーヴィンはクラブへ出かけた。

 

7章

 

リョーヴィンはちょうどよい頃合いにクラブに着いた。庭に乗り入れて辻馬車を降り、表階段を上って、ドアを開けたとき、リョーヴィンには一挙にかつてのクラブの印象がよみがえってきた。ドアマンが言った。「お久しぶりのお越しで。公爵さまからすでに昨日ご予約をいただいております。オブロンスキーさまはまだお見えになっていらっしゃいません」リョーヴィンは人声のあふれる食堂へと入っていった。ここにはスヴィヤシュスキーもシチェルバツキーもネヴェドフスキーも老公爵もヴロンスキーもコズヌィシェフもいた。「リョーヴィン君、こっちだ!」その声はトゥロフツィンだった。「この席はきみとオブロンスキーのために取っておいたんだ。彼はじきに来るからね」同じテーブルには若い軍人もいて、ガーギンといった。オブロンスキーもやってきて、一緒にウォトカを飲み、食事も飲み物も存分に楽しんだ。「おや! うわさをすれば影だ!」オブロンスキーが、騎兵大佐と連れ立って近寄ってきたヴロンスキーに手を差し伸べた。リョーヴィンも手を差し出した。「お目にかかれて嬉しいです」ヴロンスキーは言った。リョーヴィンはヴロンスキーを相手に家畜の最優良種の話をしたが、この人物に何の敵意も感じないことが大いに嬉しかった。彼はついでに、妻がマリア・ボリーソヴィナ公爵夫人のお宅でお目にかかったと申しておりました、という話までした。「さてと、おしまいかい?」オブロンスキーが立ち上がってニコニコしながら言った。「じゃあここを出ようか!」

 

8章

 

テーブルを離れたリョーヴィンは、ガーギンと連れ立ってビリヤード場へと向かった。大きな広間を通りかかったとき、彼は義父の老伯爵に出くわした。「ちょっと館内を散歩しようじゃないか」と誘われ、おしゃべりしたり、すれ違う知人たちと挨拶を交わしたりしながら、リョーヴィンと公爵はすべての部屋を歩いて回った。公爵はゲーム仲間の一人に呼び止められて去っていったので、オブロンスキーやトゥロフツィンを探しに出かけた。オブロンスキーはヴロンスキーを相手に、ビリヤード部屋の遠い隅のドアのそばで何か話し合っていた。「これはぼくの心からの、ほとんど最良の友さ」彼はヴロンスキーに向かって言った。「きみもぼくにとっては、なおさら親しい、大事な人間だ。だからぼくはきみたち二人が親密な友達同士になってもらいたいし、そうなるべきだと思っている。だって二人ともすばらしい人間なんだからね」「どうやらぼくたちはキスでも交わすしかないようですね」冗談口をききながらヴロンスキーは片手を差し伸べた。リョーヴィンは伸ばされた手をさっと取ると、固く握りしめた。「ぼくもとても、とても嬉しいです」リョーヴィンは言った。「だいたい、この男がアンナを知らないなんて変じゃないか?」オブロンスキーがヴロンスキーに言った。「ぼくはなんとしてもこの男を彼女のところへ連れて行きたいんだ。行こうよ、リョーヴィン」「本当かい?」ヴロンスキーが言う。「彼女、とっても喜ぶよ」

 

9章

 

オブロンスキーとリョーヴィンは馬車に乗り込んだ。リョーヴィンはクラブに漂っていた安らぎと満足と申し分のない上品さの雰囲気に浸りつづけていた。だが馬車が通りに出ると、それまでの印象は一挙にかき乱されて、彼は自分の行動を反省しはじめ、アンナのところへ行くことが正しいことなのだろうかと自問するようになった。キティは何と言うだろうか? そのためらいを見抜いたかのようにオブロンスキーが言った。「じつに嬉しいよ。とうとうきみに妹のことを知ってもらえるんだからね。ドリーだって前からそうなることを願っていたんだよ」オブロンスキーは続けた。「遠慮なく言わせてもらえば、あれはすばらしい女性だよ。すぐにきみにもわかるだろう。ただし彼女の立場はかなり厳しいんだ。特に今はね」「特に今はって、いったいどうしてだい?」「夫との間で離婚の交渉をしているところなのさ。相手も承知しているんだ。ところが息子に関係したことで難しい問題があってね、とっくに解決しているはずの話が、もう3か月も延び延びになっているのさ。離婚が成立すれば、妹は即刻ヴロンスキーと結婚することになっている」馬車は敷地に入っていった。呼び鈴を鳴らし、ドアを開けてくれた使用人に女主人はご在宅かどうかもたずねもせずに、二人は玄関に入っていった。召使からアンナが書斎にいることを聞き、書斎へと入っていった。リョーヴィンは壁に掛かっている肖像画に目を引かれた。それはイタリアでミハイロフが描いたアンナの肖像画であった。絵ではなくて、生身の魅力的な女性のようであった。見る者をどぎまぎさせるようなまなざしで、勝ちほこったように、しかも優しく、彼を見つめているのだった。「よくお越しくださいました」それは彼が肖像画で見とれていた当の女性の声だった。そして衝立のかげから肖像画と同じ女性が現れた。姿勢も表情も絵とは違っていたが、それでも彼女は画家が肖像画にとどめたのまったく同じ、美の極致を体現していた。実際の彼女には肖像画ほどの鮮やかさはなかったが、そのかわり実物には肖像画にない何か新鮮な魅力が備わっていた。

 

10章

 

アンナはリョーヴィンに会えた喜びを隠そうともせずに、彼の正面に立っていた。「どうだい、じつによく描けているだろう?」リョーヴィンが肖像画を見上げているのに気づいて、オブロンスキーが言った。「これほど見事な肖像画は見たことがないな」リョーヴィンは肖像画に向けていた目を実物のほうに移した。自分に向けられた彼の視線を感じたとたん、アンナの顔が特別な輝きを帯びた。「わたしはあなたのことを存じ上げていますわ」彼女はリョーヴィンに向かって言った。「あなたは市民として劣等生だそうですね。ですからわたし、できるだけあなたの弁護をさせていただきましたのよ」「いったいどんな風にぼくの弁護をしてくださったのですか?」「それは批判によって色々とですわ。でも、お茶を召し上がりません?」こうしてリョーヴィンは不思議なほどアンナに魅了され、彼女の中に、知性と優雅さと美しさのほかに、正直さをも見出した。興味深い話に耳を傾けながら、リョーヴィンはずっとアンナに見とれていた。彼女の美しさ、知性、教養、そして同時に素直で打ちとけた態度にうっとりとしていたのである。10時を過ぎてオブロンスキーが帰ろうとして立ち上がったとき、リョーヴィンはまだ来たばかりのような気がしたものである。だがリョーヴィンもしぶしぶ立ち上がった。「さようなら」彼の手をとったまま、引き込むようなまなざしでその目を覗き込みながら、彼女は言った。「こうして氷が解けたのを、とても喜んでおりますわ」彼の手を放すと、彼女は目を細めた。「奥さまに、以前どおり大切に思っているとお伝えください。それから、もしも奥さまがわたしの立場のためにわたしをお許しになれないということでしたら、どうかいつまでもお許しになれないままでいらっしゃいますよう。だって許すためにはわたしと同じ経験をしなくてはいけませんけれど、そんなことは夢にも奥さまの身に起こってほしくありませんから」

 

11章

 

「なんとすばらしい、愛すべき、そしてかわいそうな女性なんだろう」帰宅の途中ずっとリョーヴィンはアンナのことを考えつづけ、彼女と交わしたごく単純な会話のあれこれを思い出しては、その時々の彼女の細やかな表情まで思い浮かべていたので、だんだんと相手の立場に引き込まれていって、家に着くころにはすっかり彼女への同情に浸っていた。家に着き、彼は妻のところへ向かった。妻はしょんぼりと寂しそうにしていた。「あら、今まで何をしていらしたの?」なんだか特別怪しげに輝いている夫の目を覗き込みながら、彼女は訊いた。「いや、幸いなことにあのヴロンスキーに会ったのさ。しかもとても気楽に、さっぱりとした話ができたんだ。たしかにもう二度と会うつもりはないけれど、でもおかげで気まずい思いはなくなったからね」夫が顔を赤らめたのを見て、キティはそのわけが知りたくなった。「それで、その次はどこにいらしたの?」「スティーヴァがどうしてもアンナ・アルカージエヴナのところへ行こうといって聞かなかったんだよ」そう言って彼はますます赤面した。アンナの名前を聞いたとき、カッと見開かれたキティの目がきらりと光ったが、彼女は必死に動揺を抑え、彼の目を欺きおおせた。「あら!」彼女はただそう言っただけだった。「ぼくが出かけたことを、きっときみは怒ったりしないだろうね。スティーヴァに頼まれたんだし、ドリーさんだってそう願っていたんだから」「もちろんよ」「あの人はとても魅力的な、とてもかわいそうな、よい女性だったな」アンナのことやその仕事のこと、彼女が伝えてくれといったことを話しながら、彼はそんな感想をもらした。彼が着替えに行って、戻ってくると、キティはわっと泣きだした。「どうしたの?」彼はたずねたが、聞く前から答えはわかっていた。「あなたはあのいやらしい女が好きになったのね。誑(たぶら)かされたんだわ。あなたの目でわかったわ。そう、そうよ! ああ、いったいどうなるんでしょう? クラブでさんざんお酒を飲んで、ゲームをして、それから出かけて……しかも誰のところへ行くかと思えば! いいえ、こんなところは出て行きましょう! 明日わたしは出て行くわ」リョーヴィンは長いこと妻をなだめることができなかった。さいごにようやく、自分は哀れみと酒の酔いが一緒になって正気を失い、アンナの狡猾な誘惑に負けたのだと認め、これからは彼女を避けるようにするからと誓うことによって、妻の気を鎮めることができた。

 

12章

 

客を送り出すと、アンナは腰も下ろさず、部屋を行ったり来たりしはじめた。彼女は無意識に一晩中ずっとリョーヴィンの心に自分への愛をかき立てようとあらゆる手を尽くし、そして既婚の誠実な男性を相手に、しかもわずか一晩で可能な限りにおいて、その目的を達成したのを意識していたし、しかも相手のことがとても気に入っていた。だがそれにもかかわらず、リョーヴィンが部屋を出て行くやいなや、彼女は即座に彼のことを頭から追い出してしまった。「他の男の人たちが、あんなに家庭的で優しい人までもが、こんなわたしにまいってしまうというのに、いったいなぜあの人だけがわたしに冷たいんだろう?……でも、冷たいわけじゃなくて、愛してくれてはいるんだわ、それはわかる。でも今のわたしたちのあいだには、何か新しい壁ができてしまった。なぜあの人は一晩中家を空けているのかしら? これが暮らしって言えるかしら? わたしは生きているんじゃなくて、ただ結末をまっているだけだわ。だけどその結末は、どんどん先に引き伸ばされていくばかり。返事は今日も来なかった! ただ我慢して、待って、暇つぶしにいろんなことに手を出しているだけ̶̶あのイギリス人の家族の面倒をみたり、本を書いたり、読んだり。でもそんなことみんな、ただの欺瞞。モルヒネと同じことよ」そのときヴロンスキーが帰ってきた。「どう、退屈していなかった?」「いいえ、兄が来たのよ、リョーヴィンさんも」「それでリョーヴィンのこと気に入った?」「とっても」急に彼を見上げる目になって彼女は訊いた。「何のためにあなたは残っていたの?」「ぼくが残りたかったから残ったのさ」「もちろん、あなたは残りたかったから残ったんでしょう。あなたはすべて、したいとおりにするのよ」「ねえ、ぼくたちは何で喧嘩しているんだい? なぜ? ぼくが家の外に気晴らしを求めているっていうのかい? ぼくが女性との付き合いを避けていないっていうのかい?」「もちろん、そんなことじゃないわ!」「じゃ言ってくれ、きみが穏やかな気持ちでいるためには、ぼくはどうしたらいいんだ? ぼくは何だってするよ、アンナ!」「何も、何もいらない!」アンナは、自分たちつないでいる愛情と並んで、二人の間に何か悪霊のようなものが住み着いてしまったのを感じた。それはもはや彼の心からも追い払えなかったし、まして自分の心からはなおさら追い払えなかったのである。

 

13章

 

5時に開くドアのきしむ音でリョーヴィンは目を覚ました。ベッドに身を起こして振り向くと、隣にキティはいなかった。しかし衝立のかげに明かりが動くのが見え、それから彼女の足音が聞こえた。「何? どうしたの?」「別に。ちょっと気分が悪かったの」「どうしたの? 始まったの、始まったんだね?」「いいえ、ちがうのよ。きっとなんでもないわ」キティの興奮したような表情には不自然なものを感じたが、ついつい眠さに負けて、彼はそのまま寝込んでしまった。7時に、肩に触れるキティの手の感触と静かなささやきが、彼を目覚めさせた。「あなた、びっくりしないでね、だいじょうぶだから。でも……リザヴェータ・ペトローヴナ(助産婦)を迎えにやらなくてはいけないわ」キティの心の中で何かすばらしいことが起こっているのが、彼にはわかった。「お母さまのところには使いを出したの。だからあなたは、早くリザヴェータ・ペトローヴナを呼んできて」寝室を出たリョーヴィンが客間に足を踏み入れようとしていたとき、突然寝室から悲痛なうめき声が響き、彼は足を止め、長いこと狐につままれたように立ち止まっていた。「主よ、哀れみたまえ! 許したまえ、助けたまえ!」なぜか不意に口に浮かんできたそんな言葉を、彼は唱えた。馬の用意はまだできていなかったが、身中に格別体力がみなぎっているのを感じるとともに、これからなすべきことをはっきりと意識していたリョーヴィンは、馬を待たずにそのまま徒歩で家を出た。角のところで彼は、辻橇と出くわした。その小さな橇には、助産婦のリザヴェータ・ペトローヴナが乗っていた。助産婦の姿を見分けると、彼はほっとした。助産婦が訊いた。「では、2時間ほどですね。ピョートル・ドミートリエヴィチ先生はお宅にいらっしゃいますが、でもせかす必要はありませんからね。それから、薬局でアヘンを買っていらしてください」馬橇のクジマの隣の席に飛び乗ると、彼は医者の家に向かうように命じた。

 

14章

 

医者はまだ就寝中で、召使によれば「夜更かしされて、起こすなとのご命令でしたが、もうじき起きられることでしょう」とのことだった。はじめはあきれたリョーヴィンであったが、すぐに思い直して、落ち着いて慎重に、しかもてきぱきと行動した。まず薬局へ行き、アヘンを購入した。医者はまだ起きておらず、召使に10ルーブリ札を渡し、すぐに起こすように頼んだ。医者は起きてきたが、「まあどうか落ち着いてください。ここは専門家に任せて。いやこのわたしだって、きっと出る幕はないでしょうが、いったんお約束した以上、必ずうかがいますから。ただし、急ぐことはありませんよ。どうかお掛けになって。コーヒーはいかがですか?」と言って、慌てる様子はない。リョーヴィンが家へ戻ると、ちょうどキティの母の公爵夫人が駆けつけたところだった。「リザヴェータ・ペトローヴナ、どんな具合?」夫人がたずねると、「順調でございますよ」助産婦は答えた。リョーヴィンは時間の感覚もなくなっていた。妻に呼び寄せられてその汗ばんだ手を握り、異様な力で握り締められたり押しのけられたりするのを感じているときには、数分が数時間にも思えるし、別の時には数時間が数分にも思えた。気がつくと午後5時になっていた。妻に何度も呼びつけられると、相手を責めることもあった。だが、妻の従順な笑顔を見て、「わたし、散々あなたを苦しめているわね」という言葉を耳にすると、今度は神を責めた。しかしそうして神を思い出すと、ただちにすぐさま許しと憐れみを請うのだった。

 

15章

 

深夜なのか早朝なのか、リョーヴィンにはわからなかった。彼が椅子に座って医者の話を聞いていたとき、突然、異様な叫び声が響いた。それがあまりに恐ろしい叫びだったので、リョーヴィンは問いかけるような目で医者を見た。医者は耳を澄ましていたが、やがて元気づけるようににっこり笑った。リョーヴィンは立ち上がり、寝室に駆け込んでいった。汗まみれの額に房毛をひとすじ張り付かせた、腫れてやつれたキティの顔が彼のほうを向き、彼の視線を探していた。上げられた手が彼の手を求めていた。汗まみれの両手で彼の冷たい手をつかむと、キティはそれを自分の顔に押し付けた。「行かないで、ここにいて!」だが不意に顔をゆがめると、彼を突き放した。「いいえ、こんなのいや! わたし死ぬわ、死んでしまうわ! 行って、あっちへ行って!」彼女はそう叫び、そしてまたさっきと同じ異様な叫び声が響きわたった。リョーヴィンは頭をかかえたまま部屋から駆け出した。もはや子供を望む気持ちはとっくに失せていた。彼は今、その子供を憎んでいた。そしてもはや、キティの命さえ望まず、ただただこの恐ろしい苦しみが終わってくれることだけを待ち望んでいるのだった。「先生、これはどういうことなんですか?」と医者に問いただすと、医者は「そろそろ終わります」と答えた。リョーヴィンはその「終わります」という言葉を「ご臨終です」という意味に受け取った。無我夢中でリョーヴィンは寝室に駆け込んで行った。絶え間なく続く恐ろしい叫び声は、次第に身の毛もよだつような調子になっていったが、あるとき、「まるで恐怖の限界に達したかのように、急にしんと静かになった。「終わったわ」キティが言った。ベッドサイドに跪いたかっこうで、彼は妻の手を唇の前で握り、口づけをしていた。ベッドの裾のほうでは、リザヴェータ・ペトローヴナの手に抱かれて、まるで灯明の炎のように、人間の命がうごめいていた。今までまったく存在していなかったその命が、ほかの命と同じように、同じ権利、同じ自分にとっての意味を持つものとして生き、さらに自分の同類を生み出していくのである。「無事です! 立派に生きていますよ! しかも男の子さんで! 安心してください!」リザヴェータ・ペトローヴナの声がリョーヴィンの耳に届いた。「お母さま。本当?」キティの声がたずねた。公爵夫人はすすり上げる音で答えるのみであった。その沈黙の中、母親の問いに対する間違いようのない答えとして、総じて低く抑えられた部屋の中のどの声ともまったく違うひとつの声が響いた。それはどこからとも知れず現れた新しい人間存在の、大胆で、わがままで、何ひとつ気にかけようとしない叫び声だった。

 

16章

 

9時すぎに老公爵、コズヌィシェフ、オブロンスキーがリョーヴィンの部屋に集まり、ひとしきりキティの話をしてから、他の四方山話に花を咲かせていた。リョーヴィンは彼らの話に耳を傾け、われ知らずいろいろな話題につられて昔のことを思い起こしながら、同時に自分自身がついに昨日までどんな人間だったかに思いをはせていた。話をしながら彼はしきりに妻のことを考え、妻がいまどうしているのかを詳しく思い描き、そして息子のことを考えていた。妻のところへ赴くと、キティは眠っておらず、小声で母親と話をしていた。彼女は彼の手をとると、眠ったかと訊いた。彼は返事をすることができず、自分の弱さを実感しながら脇を向いてしまった。「こちらにちょうだい」赤ん坊の泣き声を聞きつけて彼女は言った・「お願い、リザヴェータ・ペトローヴナ。夫にも見せたいから」リザヴェータ・ペトローヴナは、何か赤い色をした、奇妙なうごめくものを抱き上げて運んできた。「すばらしい赤ちゃんですよ!」リザヴェータ・ペトローヴナは言った。リョーヴィンはがっかりしてため息をついた。すばらしい赤ちゃんとやらは、彼にただ嫌悪と哀れみの感情を催させるばかりだった。それは彼が予期していた感情とはまったくかけ離れていたのである。リザヴェータ・ペトローヴナがキティの不慣れな乳に赤ん坊を添わせる間、リョーヴィンは脇を向いていた。突然笑い声が起こって、彼ははっと頭をもたげた。笑ったのはキティだった。赤ん坊が乳をつかんだのだ。そして赤ん坊は彼女の手の中で眠り込んでしまった。「ほら、見て」そう言うとキティはリョーヴィンに見えるように赤ん坊を彼のほうに向けた。老人のように皺だらけの顔がいっそう皺くちゃになったかと思うと、赤ん坊はひとつくしゃみをした。にっこり笑って感動の涙をかろうじて抑えながら、リョーヴィンは妻にキスをすると暗い部屋から出た。

 

第7部の1章~16章は、

リョーヴィン夫妻を中心の物語が展開し、

キティが赤ちゃん(男の子)を出産するまでが描かれる。

しかし、そこに至るまではなかなか大変で、

それぞれに深い葛藤があり、一筋縄ではいかない。

第7部の1章~16章は、リョーヴィン夫妻のパートではあるのだが、

実は、ヴロンスキーもアンナも登場する。

リョーヴィンがクラブでヴロンスキーと会って親しくなり、

オブロンスキーの願いで、リョーヴィンがアンナの家を訪ねたことで、

キティにいらぬ誤解を生み、仲違いしそうになる。

リョーヴィンがアンナにすっかり魅せられ、

その浮かれたような様子がキティにも伝わり、

「あなたはあのいやらしい女が好きになったのね。誑(たぶら)かされたんだわ。あなたの目でわかったわ」

と、キティが怒り、

リョーヴィンは妻をなだめることができず、

「自分は哀れみと酒の酔いが一緒になって正気を失い、アンナの狡猾な誘惑に負けた」のだと認め、「これからは彼女を避けるようにするから」と誓うことによって、ようやく妻の気を鎮めることができたのだった。

そして、私にとっての衝撃は、この後の12章で起きる。(笑)

リョーヴィンを送り出した後のアンナの様子が描かれるのだが、

ここでアンナの本性というべきものが描かれるのだ。

 

客を送り出すと、アンナは腰も下ろさず、部屋を行ったり来たりしはじめた。彼女は無意識に(このところ若い男性にはすべてそうしてきたとおり)一晩中ずっとリョーヴィンの心に自分への愛をかき立てようとあらゆる手を尽くし、そして既婚の誠実な男性を相手に、しかもわずか一晩で可能な限りにおいて、その目的を達成したのを意識していたし、しかも相手のことがとても気に入っていた(男の目で見た場合、ヴロンスキーとリョーヴィンは似ても似つかないのであるが、女である彼女は、まさにキティが二人をともに愛する要因となった、両者の共通点を見抜いていたのである)。だがそれにもかかわらず、リョーヴィンが部屋を出て行くやいなや、彼女は即座に彼のことを頭から追い出してしまった。

(中略)

「他の男の人たちが、あんなに家庭的で優しい人までもが、こんなわたしにまいってしまうというのに、いったいなぜあの人だけがわたしに冷たいんだろう?……」(91頁)

 

いやはや、ビックリ。

アンナは“魔性の女”だったのだ。(コラコラ)

私は、アンナを、「無意識のうちに“魔性の女”になっている」「結果的に“魔性の女”になっている」と思っていたのだが、「あんなに家庭的で優しい人までもが、こんなわたしにまいってしまうというのに……」と、はっきり自分のことをどんな男でも虜にする魅力ある女だと自覚する(している)場面には、心底驚いてしまった。

と同時に、ちょっと幻滅してしまった。

 

13章から16章は、

キティに陣痛がきて、出産するまでの様子が描かれる。

それは主にリョーヴィンのドタバタ劇なのであるが、

初めて赤ちゃんの誕生を経験する男の不安、葛藤が描かれる。

キティの叫び声に驚き、医者を呼びに行き、薬局へ走る。

キティ、助産婦、医者、キティの母親などの周りで右往左往するリョーヴィンの姿は、滑稽でもあるが、経験のある者には身につまされるあれこれだ。

そして、赤ちゃんの誕生。

 

皆が喜んでいる中、リョーヴィンひとりだけが不安を感じている。

そして16章は、

 

彼がこの小さな存在に対して感じたものは、予期していたものとはまったく違っていた。その感情には、楽しく嬉しい要素は何ひとつなかった。いやむしろそれは、新たな、耐え難い恐怖の感情だった。それは新たな弱点をひとつ抱え込んだという気持ちだった。そしてはじめのうちそれを意識するのがあまりにもつらく、この無力な存在が苦しい目に遭いはしないかという恐れがあまりに強かったものだから、赤ん坊がくしゃみをしたときに味わった他愛ない喜びに誇らしさの混じった不思議な感情も、そのせいでどこかに掻き消えてしまったのである。(129頁)

 

という言葉で結ばれる。

ここで一旦リョーヴィン夫妻の物語は中断し、

17章以降は、オブロンスキーの物語となるようである。

17章の書き出しが、

 

オブロンスキーは窮地に立たされていた。

 

となっているので、(笑)

(オブロンスキーは金に困っているようなので)今後が心配だ。

さあ、第7部の後半にとりかかろう。

 




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