
一人読書会『アンナ・カレーニナ』の16回目は、
第3巻の、
第6部の1章~16章を読んでみたいと思う。
1章

この夏ドリーは子供たちと共に、リョーヴィン夫人となった妹のキティが暮らすポクロフスコエ村で過ごしていた。子供と家庭教師を含んだこのオブロンスキー一家の他に、この夏リョーヴィンの家には高齢のシチェルバツキー公爵夫人も滞在していた。身重の体になったうぶな愛娘の面倒を見てやるのが、自分の務めだと判断したのだ。その他にキティが外国で友達になったワーレニカも、キティが結婚したら訪ねて行くという約束を守って、同じく逗留していた。全員が妻の係累であり友人であった。リョーヴィンの係累では、この夏ただひとり兄のセルゲイ(コズヌィシェフ)のみが逗留していた。ドリーの子供たちは家庭教師やワーレニカと一緒に、どこに茸狩りに行こうかと計画を立てていた。するとコズヌィシェフまでが「ぼくも連れて行ってくださいよ」と言って、皆を驚かせた。「あら、わたしたちも大歓迎ですわ」ワーレニカが顔を赤らめて答えた。キティは意味ありげにドリーと目を見交わした。
2章

テラスにはこの家の女性陣が勢ぞろいしていた。今日はこのテラスでジャム作りがおこなわれていたのだ。しかもそれがアガーフィヤにとっては初めての水をまったく加えない方法で煮られているのだった。これはキティが実家で行われている新しいレシピを持ち込んだものだった。これまでずっとジャムを煮るのをまかされてきたアガーフィヤは、リョーヴィン家で行われてきた方法が間違っているはずがないと思い込んでいたので、水を加えたのだったが、それを見咎められ、いまやこうして皆の目の前でジャムが煮られ、アガーフィヤも水なしでちゃんとジャムが煮えるということを納得させられる破目になったのである。「ところでワーレニカのことだけれど」キティがアガーフィヤに聞かれないようにフランス語で母に言った。「あのね、お母さま、なぜかわたし、今日決まりそうな気がするの。何のことかわかるでしょう。ああ、うまくいってくれたら!」「それにしても、あなたの仲人の技は大したものね!」ドリーが口を出した。「それはもうこっそりと、上手に、二人を近づけるんだから……」「お母さま、お父さまはどんな風にプロポーズしたの? どんな風に決まったの?」急にキティが訊いた。「昔も今も同じこと、目と微笑(ほほえみ)で決まったのよ……」母親が答えた。
3章

夫と水入らずになれるのが、キティは嬉しくてたまらなかった。皆に先立って歩きだした二人が、もはや屋敷からは見えないところまで来て、よく乗りならされてほこりっぽい、麦の穂や殻粒が散った街道に出たとき、キティはいっそう強く夫の腕にすがりつき、ぎゅっと自分の体に引き寄せた。「セルゲイ兄さんとワーレニカさんのこと、あなた気がついていた? わたしとっても期待しているのよ。あなたはあの二人のことどう思う?」キティはそう言って夫の顔を覗き込んだ。「セルゲイ兄さんはそういうことに関しては、ぼくから見てもひどく変わっているからね。きみにも話しただろう……」「ええ、好きな娘さんがいたのに、その方が亡くなったってお話ね……」「それ以来兄さんの女の人たちとの付き合い方を見ていると、たしかに愛想はいいし、何人か気に入った相手もいたようだけれど、でもどうも兄さんにとってはみんなただの人間で、女性というのとは違うように感じられるんだ」「でも今度の相手はワーレニカさんよ」「でも、あの兄さんのことだからね、特別な、驚くべき人なんだよ。ひたすら精神的な生活をしているんだ。あまりに純粋で、高尚な心の持ち主なのさ」「あなたはセルゲイ兄さんは恋のできない人だって思っているのね」「恋ができないとは言わないよ。でも兄さんには、そういうことに必要な弱さがないんだ……。ぼくはいつも兄さんを羨んでいたし、いま自分がこんなに幸せになったのに、それでもまだ羨んでいるんだよ」
4章

いつもの真っ白なスカーフで黒髪を包み、取り囲む子供たちを優しく楽しそうにあしらいながら、気に入った男性と気持ちを打ち明けあうチャンスが訪れるかもしれないと、見るからに心を高ぶらせているワーレニカの姿は、とても魅力的だった。並んで歩いているコズヌィシェフは、じっと目を離さずに彼女に見とれていた。彼は、自分がいま彼女に対して覚えている感情が、自分がはるか昔、青春の初めの頃にたった一度だけ味わったことのある、何か特別な感情だと意識するようになっていた。「こうなったからには、よく考えて決めなくてはいけないぞ。子供みたいに一時の感情に流されてしまうんじゃなくて」と彼は自分に言い聞かせた。「ただひとつ否定要因があるとしたら、それはマリーを失ったときおれが彼女の思い出をずっと裏切るまいと誓ったことだ。しかしそのことを別にすれば、自分の気持ちに反対する材料は、いくら探しても見つからない。もしも理性だけで選ぶとしたら、これほどの相手はけっして見つからないだろう」第一に、若い女性の魅力とみずみずしさを備えながら、大人の女性にふさわしい愛し方で愛してくれる。第二に、上流社会に通じていて、よき上流婦人のたしなみをすべて身につけていた。第三に、彼女は信仰心があつかった。コズヌィシェフはワーレニカのうちに、妻として望ましいあらゆる資質を見出していた。ただひとつの消極的な要因は、彼の年齢だった。だが彼は長生きの家系で、まだ一筋の白髪もなく、誰に聞いても40歳以下としか見られなかった。しかも彼はワーレニカが、「フランスあたりでは50歳は男盛り、40歳はまだ青年という気構えだ」と話していたのを覚えていた。自分の決心が自覚された。コズヌィシェフは決然とした足取りで彼女めがけて歩きだした。
5章

「ぼくはあなたが好きです。ぼくと結婚してください」コズヌィシェフが胸の中でこんな言葉を発していたとき、彼はすでにワーレニカから10歩の距離まで来ていた。「どうでした? 何か見つかりましたか?」彼女はたずねた。「ぜんぜんです」コズヌィシェフは答えた。二人は黙ったまま何歩か歩んだ。何もかも察していたワーレニカは、嬉しさと恐ろしさに身の縮むような思いだった。コズヌィシェフは一向に話を切り出そうとしなかった。ワーレニカとしては黙っているのが賢明であった。しかし意に反して、ほんのはずみのように、口を開いてしまった。「では、あなたは何も見つけられなかったのですね?」コズヌィシェフはため息をついただけで答えようとしなかった。彼もまた自分の意に反するかのように、しばし黙り込んだ後で、彼女の直前の発言に対してコメントしてしまった。「ぼくにはどれが白茸なのか見分けもつかないんです」今を逃したら二度と告白する機会はない̶̶そのことをコズヌィシェフも感じていた。ワーレニカのまなざしにも、伏せられた目にも、尋常でない期待がみなぎっていた。コズヌィシェフはプロポーズの意志の表現となるべき言葉を、胸のうちで反芻した。しかし不意に何かの考えが頭に浮かんで、肝心の言葉を口にするかわりに、ふとこんな質問を発してしまったのだ。「白茸と白樺茸とではそこが違うんですか?」答えるワーレニカは、興奮に唇をふるわせていた。「傘はほとんど差がありませんが、柄のところが違います」そしてこの言葉が発せられた瞬間に、彼も彼女も理解したのだった̶̶問題にけりがついたこと、言われるはずだった言葉はもはや言われることはないだろうということを。コズヌィシェフは結局マリーの思い出を裏切ることができなかったのである。森から出てきたコズヌィシェフとワーレニカの表情を見て、キティは自分の計画が頓挫したことを悟ったのだった。
6章

コズヌィシェフとワーレニカの間にきわめて重大な出来事が起こったのを十分に意識しながら、大人たちはバルコニーに坐って、まるで何事もなかったかのように談笑していた。この晩、オブロンスキーとキティの父の老公爵がやってくることになっていたが、まだ姿を現していなかった。彼らの話の途中で、並木道に馬のいななきと砂利を踏みしだく車輪の音が聞こえた。「スティーヴァ(オブロンスキー)ですよ!」リョーヴィンが叫んだ。「もう一人誰かいる。きっとお義父さんだ!」だが、オブロンスキーの隣にいたのは、美男で肉付きの良いワーセニカ・ヴェスロフスキーという名のキティたちの又従兄で、ペテルブルグでもモスクワでも社交界の花形、オブロンスキーの紹介によれば「素晴らしい青年で、大の狩猟好き」であった。リョーヴィンは、まったくよそ者で余計者のワーセニカ・ヴェスロフスキーなどという人物が現れたことが、彼にはいささか腹立たしかった。しかも、公爵夫人も、コズヌィシェフも、ワーレニカも、キティも、彼を歓迎している風なのも気に食わなかった。一同はがやがや騒ぎながら家に入ったが、みんなが席に着いたところで、リョーヴィンはくるりと向きを変えて出て行った。
7章

使いの者に夜食の始まりを告げられてからようやく、リョーヴィンは母屋に帰ってきた。「ねえきみ、明日猟に出かけないかい?」オブロンスキーが言った。「ぜひ出かけましょうよ」ヴェスロフスキーが言った。「喜んでご一緒しましょう」リョーヴィンは嬉し気な口調を装って答えた。「ヴェスロフスキー君はアンナの家に行ってきたんだよ。しかももう一度行こうとしているんだ。だいたいが、アンナたちはここからわずか70キロしか離れていないところにいるんだからね。ぼくも必ず行ってみるつもりだ」オブロンスキーが言った。「おまえも行くか?」オブロンスキーがドリーにたずねた。「わたし、ずっと行こうって思っていたのよ。必ず行くわ」ドリーが答える。「それはいい。キティ、きみは?」「わたし? どうしてわたしが?」顔を真っ赤にしてそう答えると、キティは夫のほうを振り向いた。リョーヴィンの嫉妬心は、この数分の間で、とりわけヴェスロフスキーと語り合っていた妻の頬が真っ赤に染まったのを見たせいで、常軌を逸したところまで深まっていた。妻はすでにヴェスロフスキーを愛しているものと、すっかり思い込んだのである。一同が解散した後、リョーヴィンはキティの寝室の肘掛け椅子に眉をひそめて坐り込んだまま、どうしたのかと妻がたずねてもかたくなに口を開こうとしなかった。「もしかしてあのヴェスロフスキーさんのことで何か気に入らないことがあるの」とキティがほのめかすと、リョーヴィンはついに堰を切ったようになって、心のたけをぶちまけたのだった。そしてしゃべってしまったことを屈辱と感じて、なおさら気持ちがささくれ立ったのだったのである。「いいかい、ぼくは嫉妬しているんじゃない。ただ自分が侮辱され、踏みつけにされた気がするんだ。どこかの誰かがいい気になって、あんな目つきでおまえを見やがったと思うと……」「まったくあなたったら、どうしてそんなことを思いつくのかしら? だってわたしには世間の男なんて、いないも同然なのよ、そうよまったく存在しないのよ! じゃあなたは、わたしが誰にも会わずにいれば気がすむのね?」「カーチャ、どうか許してくれ! まったく狂気の沙汰だ! これは何から何までぼくのせいだ。まったく、そんなくだらないことで苦しむなんて、ありえるだろうか? 気が狂っているに違いない!……つまらないことできみを苦しめて。でも考えるだけで恐ろしいんだ」
8章

翌朝、まだ女性たちが起きだす前から、猟人たちのための乗用馬車と荷馬車がそろって車寄せに並び、早朝から狩猟日だと嗅ぎつけた犬のラスカが、一向に猟人たちが出てこない玄関扉を、今か今かと咎めるようなまなざしで見つめていた。最初に出てきたのはヴェスロフスキーで、次にオブロンスキーが銃を片手に葉巻をくわえて登場した。最後に、「みなさん、すみません!」と、リョーヴィンが表階段に駆け出してきた。リョーヴィンは、猟の場に向かっている猟師なら誰でも感じる、張り詰めた高揚感を味わっていて、もはや口を利きたいとさえ思わなかった。オブロンスキーもまったく同じような気分を味わい、同じく口数が少なかった。ただヴェスロフスキー一人だけが、絶え間なく楽しそうにしゃべり続けていた。3キロばかり行ったところで、ヴェスロフスキーは突然、葉巻と財布がないと言って慌てだした。財布には370ルーブリもの金が入っているという。「ぼくがこのドン産の副馬に乗って、ひとっ走りお宅まで往復してきます」とヴェスロフスキーが言ったが、「いや、まさかそんな」リョーヴィンはヴェスロフスキーの体重が優に100キロ近くありそうだと踏んで答えた。「御者を使いにやりますから」
9章

小さな沼に差し掛かったとき、リョーヴィンは黙って通り過ぎようとしたが、「寄っていかないのか?」とオブロンスキーが言った。「リョーヴィンさん、寄りましょうよ!」ヴェスロフスキーもせがみはじめたので、リョーヴィンは承知しないわけにはいかなかった。「3人には場所が狭いから、ぼくがここに残ろう」とリョーヴィンは言った。馬車に残ったリョーヴィンは猟人たちを見ていたが、ヴェスロフスキーがタゲリを1羽しとめたにとどまった。二つ目の沼に差し掛かったが、ここはかなり大きくて時間がかかりそうなので、リョーヴィンは素通りしようと主張した。しかしまたもやヴェスロフスキーのせがみで寄ってみることになった。ここでもリョーヴィンは馬車に残ったのだが、タシギを1羽しとめたヴェスロフスキーが馬車へ戻ってきて、「今度はあなたがいらしてください」とリョーヴィンに言った。リョーヴィンは手綱をヴェスロフスキーに渡すと、彼は沼に向かった。リョーヴィンがコシギに狙いをつけようとした瞬間、水をはね散らす音がして、そこに何か異様な調子で叫んでいるヴェスロフスキーの大声が混じった。リョーヴィンが振り向くと、馬車と馬が丸ごと道を外れて、沼に落ちているのが見えた。射撃を見たいと思ったヴェスロフスキーが馬車を沼地に乗り入れて、馬を動けなくしてしまったのだ。そしていちばん腹立たしかったのは、馬を救い出すにも、馬車から外すのにも、オブロンスキーもヴェスロフスキーもまったく自分と御者の役に立たなかったことだった。すべてが復旧し、馬車が無事道路に戻ったとき、リョーヴィンは弁当を出すように命じた。こうして弁当をすませた後の彼らは、大変な上機嫌でグヴォズジェヴォに着いたのだった。
10章

今度の猟の旅の最大目標である大事な沼地に近づくにつれて、リョーヴィンは無意識のうちで、ヴェスロフスキーをなんとか振り切って邪魔されずに猟をする算段をめぐらせていた。オブロンスキーも明らかに同じことを望んでいるようだった。「犬が2頭いますから、二手に分かれて、あの水車小屋で落ち合うことにしましょう」リョーヴィンがそう言うと、「右手のコースのほうが広いから、きみたちが二人で行きたまえ。ぼくは左に行こう」とオブロンスキーが言ったので、リョーヴィンは反対するわけにもいかず、ヴェスロフスキーと組むことになった。しかしこれが失敗だった。ヴェスロフスキーにペースを乱され、焦り、抑制を失って、ただ撃っているだけという状態になった。リョーヴィンの猟には決まったパターンがあって、最初の何発かを失敗すると、ついつい熱くなりカッとしてしまって、一日中へまばかりしている破目になるのだった。この日もちょうどそんな調子だった。途中、百姓たちの一人が「一緒に昼飯を食べていきなさらんか! 酒も飲めるよ」と呼び止めたので、一人になりたかったリョーヴィンはヴェスロフスキーに「行ってごらんなさいよ」と勧めた。ヴェスロフスキーが百姓たちの方へ行ったので、リョーヴィンは喜んだ。ところが疫病神と見なしていたヴェスロフスキーがいなくなっても、事態は改善しなかった。リョーヴィンは失敗に失敗を重ね、結局、収穫は5羽だった。オブロンスキーの獲物は14羽だった。「きっときみは、ヴェスロフスキーに邪魔されたんだろう」と、自分の勝利にわざと水をさすように、オブロンスキーはそう言った。
11章

リョーヴィンがオブロンスキーと連れ立って、いつも立ち寄ることにしている百姓の家にやってくると、ヴェスロフスキーはもうそこに着いていた。3人は心ゆくまで茶を飲み、猟のときにしか味わえないほどうまい夕食をとった。洗面もすんできれいになった彼らは、掃除のすんだ干草小屋へ移ったが、そこには御者の手で主人たちのために寝床がしつらえられていた。すでに宵闇がおとずれていたが、猟人たちは誰一人眠る気にはなれなかった。オブロンスキーがふと、去年の夏に行ったマルトゥスという人物の領地での猟のすばらしさを語りはじめた。マルトゥスというのは有名な鉄道成金だった。オブロンスキーは、このマルトゥスが所有している沼地や馬車や昼食用のテントの豪華さを語った。「ぼくはきみの気持ちが理解できんね」リョーヴィンが言った。「どうしてきみはああいう連中といて平気なんだい? ああいう連中はかつてのわが国の酒類専売業者たちのように、濡れ手に粟の荒稼ぎをしていて、その稼ぐ課程でいくら人から蔑まれようと、平気な顔で無視している。そうして後になってから、破廉恥に稼いだ財産にものをいわせて、昔蔑まれた思い出を埋め合わせるわけだ」オブロンスキーはフフッと笑って、「ぼくは別にあの人物が汚い人間だとは思わないよ。どちらも同じように労働と知恵によって金を稼いできたんだからね」と言った。「でもね、つぎ込まれた労働にそぐわない利益はすべて、不当な利益だよ。つまり銀行の利益のようなのは、すなわり悪であり、かつて酒類専売業者がいた時代に行われていたような、濡れ手に粟のぼろもうけが、単に形を変えただけさ」「だけどきみは、まっとうな労働と不当な労働の違いをちゃんと区別できていないじゃないか。きみが農業経営の労働によって、たとえば5000ルーブリの収益を得るのに対し、この家の主人である百姓は、いくらしゃかりきに働いても、せいぜいが50ルーブリの収入しか得られない。このことは不当なことじゃないか。ところが世間はマルトゥスのような人たちに対してだけ、何かまったく根拠のない敵意を抱いているんだ」「いや、ちょっと待ってくれ」リョーヴィンが言った。「それはそのとおりだ。ぼくもそう感じている。だがね……」「でもだからといって百姓に自分の領地をくれてやりはしないだろう」まるでわざとリョーヴィンに突っかかるような口調でオブロンスキーが言った。「所詮二つに一つなんだ。現存の社会体制を正当なものと認めて、自分の権利を守ろうとするか、それともこのぼくがしているように、自分が不当な特権を享受しているのを認めながら、その特権を喜んで享受するかしかないのさ」そんな会話をしているとき、外からお屋敷奉公の娘たちの歌声が聞こえてきて、ヴェスロフスキーとオブロンスキーは娘たちのところへ行ってしまった。リョーヴィンは長いこと寝つけなかった。夢うつつのまま、彼の耳にヴェスロフスキーとオブロンスキーの笑い声と楽しげな会話が聞こえてきた。
12章

朝が白みはじめた頃に目を覚ましたリョーヴィンは、仲間を起こしにかかった。だがヴェスロフスキーはぐっすり寝込んでいて、オブロンスキーのほうは、夢うつつながら、こんなに早くは行けないと断った。犬のラスカさえ、不承不承といった感じで起き上がり、面倒くさそうに後脚を交互に突き出して伸びをした。靴を履き、銃を持つと、リョーヴィンは干草小屋の扉を開け、表に出て行った。母屋から出てきたこの家の主婦に沼への道を教えてもらい、最初の湿地まで来ると、リョーヴィンは銃の発火装置を確かめてから犬を放してやった。ラスカはさも嬉しげな、そわそわした様子で、不安定な沼地の上を駆け出した。ラスカは鼻孔を広げて大気を吸い込むと、すぐにやつらの痕跡ばかりか、やつらそのものが目の前にいること、しかも1羽どころではなくたくさんの鳥がいることが感じられた。ラスカが全身をぴったりと地面につけて、後脚を水をかくように大きく動かし、軽く口を開くという特殊な追跡姿勢に入っているのを見たリョーヴィンは、タシギを狙っているのだと察して、胸の中で神に猟の成功を、とりわけ最初の1羽の成功を祈ってから、犬のもとに駆けつけた。「かかれ、かかれ」リョーヴィンはラスカの尻を突っついて叫んだ。ラスカは全速力で突進していった。1羽のタシギが飛び立った。そして銃声が響くと、真っ白な胸を下にして落下した。さらにあわてたもう1羽が、犬を待たずにリョーヴィンの背後から飛び立った。リョーヴィンが振り返ったときには、鳥はすでに離れたところにいた。だがそれでも弾は届いた。この2羽目のタシギは、20歩ほどの距離を飛んでから棒立ちになったように上昇し、それからとんぼ返りを打って、放り投げられたボールのようにどさりと落ちた。一人の少年がリョーヴィンのところに駆け寄ってきた。「おじさん、ゆうべあそこにカモがいたんだよ!」そんな声をかけた後、少年は彼の後に離れてついてきた。そしてリョーヴィンは、賞賛の表情で見守るこの少年の前で、さらに立て続けに3羽のコシギをしとめて見せて、二重の喜びを味わったのだった。
13章

30キロの距離を踏破したあげく、朝の9時過ぎに、疲れ切って腹ペコながら幸せそうな顔で宿に戻ってきたリョーヴィンは、19羽の立派なシギ類と1羽のカモを携えていた。彼の連れたちはとうに目を覚ましていて、空腹に耐え切れず、すでに朝食をすませていた。羨ましそうなオブロンスキーの様子がリョーヴィンには心地よかった。おまけに嬉しいことに、宿に着くともうキティの使いの者が手紙を持って到着していた。猟の上首尾と妻の手紙という二つの喜びが大きかったおかげで、続いて生じた二つの小さな不快事も、リョーヴィンはたやすくやり過ごすことができた。問題のひとつは、例の栗毛の副馬が、昨日無理をさせたのがたたって、飼葉も食わずにしょんぼりしていることだった。もう一つの不快な出来事は、キティが気前よくたっぷりと持たせてよこして、1週間かけてもとても食べきれないほどに思えた食料が、すっかり跡形もなく食べ尽くされていたのである。「まったく、ものすごい食欲だよ!」オブロンスキーがニヤニヤ笑ってヴェスロフスキーを示しながら言った。「ぼくもけっして小食のほうじゃないけれど、この御仁はもう底抜けだね」リョーヴィンはひどく悔しい気持ちになって、いらいらした声で、「せめて何かおれに残しておかなかったのか!」と言った。彼は泣きたい気分だった。リョーヴィンは仕方なく牛乳を飲み、腹がくちると、彼は他人に向かって腹立ちをむき出しにしたのが恥ずかしくなったので、自分で自分の空腹まぎれの癇癪ぶりを笑いものにしだしたのだった。その晩一行はもう一度猟をしたが、今度はヴェスロフスキーも何羽かをしとめた。そうして家に帰ったのは真夜中だった。「総じてぼくは、今回の旅行にはすっかり満足していますよ。あなたはどうですか、リョーヴィンさん?」ヴェスロフスキーから訊かれて、「ぼくも大満足です」とリョーヴィンは答えた。家にいる際に味わったヴェスロフスキーへの敵意を感じないばかりか、反対にこの人物に対してきわめて好意的な感情を覚えていることが、彼には格別嬉しかったのである。
14章

ヴェスロフスキーと一緒に庭を回り、馬小屋のも寄り、平行棒で運動までしてから、リョーヴィンは家に戻り、そのまま一緒に客間に入っていった。「すばらしい猟でしたよ。珍しいものもたくさん見ましたし!」サモワールの置かれた席に坐っているキティに歩み寄りながら、ヴェスロフスキーはそんな風に話しかけた。「あんなに楽しいことが女性に禁じられているなんて、いかにも残念ですね!」〈しかたがない、あの男だって何か女主人と話をしなくてはならないんだからな〉リョーヴィンはそう自分に言い聞かせた。客がキティに話しかける際の笑顔や得意そうな表情のうちに、彼はまたもや何か気になるものを感じてしまうのだった。公爵夫人がリョーヴィンを呼び寄せると、彼を相手に、キティを出産のためにモスクワへ移す話や、そのために住まいを用意する話をはじめた。出産は神秘的な出来事であるのに、人為的な出来事に備えるかのように準備することは、彼には腹立たしくも屈辱的なここと思われた。だがそんな気持ちを知らぬ公爵夫人は、彼がこの問題を考えようとも語ろうともしないのは軽薄で冷淡なせいだと決めつけ、なおさらうるさくせっつくのだった。たしかに夫人との会話は彼の気分を損ねたが、しかしこんなに暗澹たる気持ちになったのは会話のせいではなく、サモワールのそばで展開されている光景に目をやったからだった。ヴェスロフスキーの姿勢にも、目つきにも、笑顔にも、何か不純なものがあった。「あらどこへ行くの、あなた?」決然とした足取りで脇を通り過ぎようとした夫に、キティは疚しそうな顔でたずねた。その疚しそうな表情が彼の疑念をすべて裏書きしていた。1階に降りた彼がまだ書斎から出ないうちに、危なっかしい早足で後を追ってくる、聞きなれた妻の足音が聞こえた。「こんなんじゃ生きていけないわ! まるで拷問よ! わたしも苦しんでいるし、あなただって苦しんでいるじゃない。いったいなぜ?」キティが言った。「でも、ひとつだけぼくに答えてくれ。あの男の態度にはみだらな、不純な、侮辱的でいかがわしいところはなかったか?」彼がこう言うと、「あったわ」彼女は震える声で答えた。「でも、あなた、それがわたしのせいじゃないっていうことを、わかってくださらないの? あんな人どうして来たのかしら? わたしたちあんなに幸せだったのに!」ふくらんできた腹や胸を波打たせる嗚咽に息を詰まらせながら、彼女は言った。
15章

妻を2階まで送り届けると、リョーヴィンはドリーの住んでいる棟へと出かけた。「あなた、なんだか気が滅入っているみたいね。どうしてここにいらしたの?」ドリーはたずねた。「キティと喧嘩をしました。これでもう2回目ですよ。あの……スティーヴァが来てから。だから、ひとつ素直な意見を聞かせてほしいんですよ。つまり……キティじゃなくてあの紳士のことですが、あの男には、なにか夫にとって不愉快な、なにかいかがわしくて侮辱的だと感ずべきものがあるんじゃないでしょうか?」「そうね、社交界流の意見に従えば、きっとあの方は、若い男ならだれでもするようにふるまっているだけということになるでしょうね。だって若くてきれいな女性を口説こうとしているわけで、社交界の夫だったらうれしがって当然のことですから」「なるほど」リョーヴィンは暗い顔で答えた。「ということは、あなたも気づいていたんですね?」「わたしだけではなく、夫だって気づいていますよ。『ヴェスロフスキーのやつ、キティに色目を使っているようだな』って言っていましたから」「そうだったんですか。それでぼくも安心しましたよ。ひとつあいつを追い出してやりましょう」リョーヴィンは言った。「どうしたの、あなた気でも狂ったの?」ドリーがぎょっとして叫ぶ。「だめよ、もしあなたがそうしてほしければ、わたしから夫に頼むわ。夫があの方を連れて帰ってくれるから」「いやいや、ぼくが自分でします」「だって、それじゃ喧嘩になるでしょう?」「とんでもない。そうしたほうがぼくも愉快ですから」リョーヴィンはヴェスロフスキーのところへ行き、「あなたのために馬車を用意するように命じておきました」と言った。「それはつまりどういうことですか?」ヴェスロフスキーは面食らって答えた。「あなたにね、駅へ行っていただきたいんですよ。ぼくはあなたにお引取り願いたいのです」ヴェスロフスキーから家を追い出されると聞いたオブロンスキーは、「やれやれ、まさか君がこんなことをするなんてね! 焼餅もいいけれど、ここまで来ると、これはまったく愚の骨頂だよ!」と言った。
16章

ドリーは自分の意図を実行に移して、アンナのところへ出かけることにした。妹につらい思いをさせたり、その夫に不快な思いをさせたりするのは、彼女にはまったく不本意だった。リョーヴィン夫妻がヴロンスキーと一切の付き合いを絶とうとしているのは、賢明なことだと理解していたからだ。だが彼女は、アンナをしばし訪問して、相手の境遇は変わっても自分の気持ちは変わりえないということを示すのが、自分の務めだと思っていたのである。この小旅行でリョーヴィンたちの世話にならないようにと、ドリーは馬を賃借するっために村に使いを出した。だがこれを聞きつけたリョーヴィンが、「ぼくの馬を使ってくれないことのほうがぼくには不愉快ですよ」と、自分の馬を使ってくれるように言ってきたのだった。ドリーはリョーヴィンの助言どうりに夜明け前に出発した。家にいるときは子供たちの世話に追われて、彼女は一切ものを考える暇がなかった。それだけに今、こうしてひたすら旅をしていると、これまでたまりにたまっていた思いの数々が不意に頭の中にひしめいて、自分の全生涯を、かつて一度もなかったような勢いで、ありとあらゆる側面から考え直すことになった。人々はアンナさんのことを悪く言う。何で? いったいこのわたしのほうがましかしら? 少なくともわたしには夫がいて、わたしは彼を愛している。でもアンナさんは自分の夫を愛せなかった。あの人のどこが悪いんだろう? あのつらかったころ、アンナさんがモスクワのわたしのところまで訪ねて来てくれたとき、あの人の言うことを聞いたのがよかったのかどうか、いまだにわたしはわからない。あの時わたしは夫を捨てて、人生を最初からやり直すべきだったんだ。あの時ならまだわたしを好いてくれる人もいただろう。まだ美しさが残っていたから。そんなことを思うドリーの唇には、小ずるそうな笑み皺が浮かんでいた。アンナのロマンスのことを考えながら、それと並行して自分を愛してくれる架空の集合的男性像との間のほぼ同様なロマンスを空想していたせいであった。空想の中で彼女はアンナと同じく、すべてを夫に打ち明ける。そしてそれを聞いたオブロンスキーの驚きうろたえる様子が、彼女を微笑ませたのだった。
今回は、第6部の1章から16章までを一気に読んだ。
1章から、リョーヴィン家での出来事が描かれるのだが、
これがなかなか終わらない。(笑)
甘い新婚生活を描くだけなら、数章ですむと思うのだが、
このリョーヴィンとキティが暮らす家には多くの人々が滞在しており、
これによって様々な問題が次々と発生するのだ。
子供と家庭教師を含んだオブロンスキー一家、
高齢のシチェルバツキー公爵夫人、
キティが外国で友達になったワーレニカ、
リョーヴィンの兄のコズヌィシェフなどが滞在していたし、
オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーという問題人物もいて、
リョーヴィンとキティの新婚生活は「ひっちゃかめっちゃか」となる。(爆)
1章から5章は、
リョーヴィンの兄のコズヌィシェフと、キティの友人・ワーレニカとの恋模様。
けっこうドキドキさせられる。
でもトルストイなので、結果はある程度予想できたけどね。
6章で、オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーが登場する。
キティたちの又従兄で、美男で肉付きが良く、
ペテルブルグでもモスクワでも社交界の花形。
オブロンスキーの紹介によれば「素晴らしい青年で、大の狩猟好き」。
このヴェスロフスキーは、リョーヴィンの妻・キティに色目をつかう。
大の「やきもちやき」のリョーヴィンにとっては、
実に腹立たしい相手だが、
オブロンスキーの友人なので無下にはできない。
7章は「やきもち」が高じて、リョーヴィンとキティの喧嘩。
8章から13章は、
リョーヴィンとオブロンスキーとヴェスロフスキーと3人で、
泊まり込みで猟をする様子が描かれる。
6つもの章を使って、猟の様子を描くのも、
8章から13章を読みながら、
〈これ本当に『アンナ・カレーニナ』?〉
と思ってしまう。
12章では、猟犬のラスカの目線で描かれる箇所があり、
この犬(ラスカ)の考えや思いが語られ、面白い。
猟から帰ってきたら、ヴェスロフスキーがまたキティに色目を使い、
14章で、ついにリョーヴィンの怒りが頂点に達し、
15章で、リョーヴィンはヴェスロフスキーを家から追い出す。
16章は、アンナのところへ行く決心をしたドリーが、
アンナのところへ行くまでが描かれる。
ここまで(第6部の1章から16章まで)アンナは一切登場せず、
17章からアンナが登場するようなので、
今回の一人読書会は、範囲を1章から16章までとした次第。
『アンナ・カレーニナ』を読書中に、
気分転換にと図書館から借りた現代小説も読んだりするのだが、
(『アンナ・カレーニナ』があまりにも重層的で濃い作品なので)
どんな話題作も、ペラペラのうっす~い小説に思えてきて、
最後まで読めなくて困っている。
もう私の残りの人生は「世界の名作」だけを読んでいればいいのかもしれない。
それほど面白くて仕方がないのだ。
