
(2025年)9月14日に放送された「日曜美術館」を観た。
タイトルは、
「だからあんな不思議な絵を 〜夭折の画家・有元利夫と家族〜」

日本の高度成長期に、
絵画世界で一世を風靡した画家・有元利夫(1946-1985)。
東西の古典を融合した独自の画風を確立し、
画壇の寵児として将来を期待されながらも38歳という若さで世を去っている。

私が有元利夫という画家を知ったのは、
宮本輝の小説の表紙においてだった。
若い頃、宮本輝の小説をよく読んでいたのだが、
彼の多くの作品の表紙を飾っていたのが有元利夫の絵で、
その幻想的で文学的な絵に魅かれ、
画家・有元利夫にも興味を持ったのだった。

それ故に「日曜美術館」を観たのだが、
番組では、有元利夫の早すぎる死から40年、
残された(東京藝術大学で知りあった)妻と、
(生後間もなく父・有元利夫を亡くした)長男の人生をたどりつつ、

有元が遺した不思議な絵画の秘密に迫る番組であった。

この番組を観ていて、
有元利夫と同じくらい興味を持ったのが、
有元利夫の妻だった有元容子が描いた“山の絵”だった。
番組では少ししか紹介されなかったが、
垣間見たその“山の絵”に、強く魅かれるものがあった。

【有元容子】
愛媛県に生まれる。1971年東京藝術大学美術学部日本画科を卒業。1976年の初個展を経て、1977年より創画会に出品、翌年の春季創画会展で春季展賞を受賞、この賞は2年連続受けることになります。1988年唐津・隆太窯に内弟子として入り、陶芸を学ぶ。1990年には東京に戻り、岡本工房にて陶芸を中心に仕事を進めます。1994年両洋の眼展に出品、1998年には河北倫明賞を受賞する。1999年に菅楯彦大賞展(倉吉博物館)にて佳作賞受賞。またこの年より4年間朝日新聞にて落合恵子「午後の居場所で」の挿画を担当します。2000年の彌生画廊の個展をはじめとして、「輪の会(和光ギャラリー)」「JR東日本の美・山(東京ステーションギャラリー)」といったグループ展といった展覧会に日本画にて出品を続け、2009年には平野古陶軒で個展、またアートフェア東京にも出品。2014年、日本橋三越にて「有元容子」展開催。

一旦は夫の利夫を支えようと、妻・容子は絵をやめたという。
「夫の方がはるかに才能があったからだ」そうだ。
このとき、利夫は、
「ぼくが死んだら、また始めたらいいよ」
と、(今となっては未来を予言していたような言葉であるが)ドキッとするようなことを言ったという。
そして、それが現実となる。
夫・有元利夫は38歳の若さで亡くなるのである。

その後のことを、有元容子は、
出身校の今治西高の関東地区OB会(東京蛍雪会)に寄せた便りで、
「私の故郷」と題し、次のように語っている。(2022年)
私は今治から約20キロ沖合の住友別子銅山の製錬所のある四阪島で生まれ育ちました。
高校へ進学し、高階重紀先生が指導されていた美術部に入りました。初めて経験する石膏デッサンというものを毎日描くことになり、その後3年間授業時間以外ずっと描き続けました。
(中略)
そして芸大で日本画を勉強しました。卒業後本格的に絵を描く前に結婚したので、間があきましたが、夫有元利夫(油画作家)が早世したのち、38歳でまた創造の世界に戻りました。
まず子供を連れて九州で陶芸を学びました。つまり弟子入りしたのです。そこでの生活はそれまでの生ぬるい生き方を360度ひっくり返されたような修行でした。なんとかそこを終え、陶芸で生計を立てていましたが、やはり絵を描くということが忘れられませんでした。
私の中で、瀬戸内海の風景や、木々の緑が常に記憶にあり、東京にいても結局は探していたのでしょう。ついに自然を求めて山に登るようになりました。山頂に辿り着き、そこからの眺めったら、なんとも言いようのない気持ちよさなのです。そしてその山の風景を長年描き続けていました。
ある年、もう人が住んでない四阪島に行くことが出来ました。
ずっと東京で生きていくことばかり考えて故郷を思い出すこともなかったのに、島の坂を登り、蔦が這い上がる小学校の真っ黒になった建物を見て、懐かしさが胸いっぱいに溢れました。私はこの島のことを忘れてはいけない。生まれ育った美しい瀬戸内海の風景を描きたいと心の底から思いました。
山や海のある風景を、これからも多くの失敗や感動と共に描きたいと思っています。
「子供を連れて九州で陶芸を学びました。つまり弟子入りしたのです」とあるが、
これは、(佐賀県)唐津にある隆太窯で、ここで2年間修業したそうだ。
※後から気が付いたけど、和田明日香さんが「遠くへ行きたい」で訪ねたのも、
隆太窯だった。
2017年11月に東京の画廊で「有元容子 展」を開いているのだが、
そのときの個展開催の言葉で、有元容子は次のようにも述べている。

四国で一番高い山である石鎚山に登った。その日登山口は濃霧で登るのを中止する人がほとんどだった。途中で引き返してもいいと思いながら進むとだんだん晴れてついに山頂では快晴になった。
山頂では眼下に四国山地の山々がどこまでも続いているのが見え、やっぱり来て良かった、と心の底から思った。
石鎚に続く西ノ冠岳、二の森、鞍瀬の頭、堂が森と笹原の緑が続き広々としてとても気持ちが良かった。
次は逆から堂が森に登って西ノ冠岳まで縦走したいと思いながら翌年になった。
その年は友人と九州の九重連山に行こうと決めていたので5月の終わりに九重へ行き、その後一人で堂が森に登ったのだった。
ところが、九重の疲れが取れていなかったと見え、堂が森山頂へ登るのがやっとでそこから縦走するなどとてもじゃないが行けない。
堂が森山頂でお弁当を食べ、しばし目の前に見える鞍瀬の頭をスケッチした。花はほとんどないが見晴らしの良さはここならではだと思う。

そこからの石鎚はかなり遠くにあった。
下山は殊の外きつくて、膝を痛めてしまいこれが私の最後の登山になった。
東京に長く住んで故郷への思いが募り、いつか四国の山を端から踏破したいと思っていたが、志半ばで頓挫してしまった。
今回は九重の山、四国の山、そして瀬戸内の島や植物など20点あまりの作品を展示します。

「日曜美術館」を観たことで、有元容子の“山の絵”に魅せられ、
有元容子(及び彼女の絵)についてネット検索し、
(情報は多くなかったが)情報を拾い集め、
ここに紹介してみた。
私はこれまで山岳誌などで、
登山家が描く“山の絵”を多く見てきたが、
魅かれる絵に出逢えることは稀であった。
それが、有元容子の“山の絵”を見た途端、
一目で気に入ってしまった。
ただ単に山を描いているのではなく、
山を大地の巨大な塊として把握し、
その山塊を包む、大気、光などをも温もりのある筆致で描いている。
どこか懐かしく、
自分もかつてその絵の中にいたような錯覚を起こさせてくれ、
ずっと見ていたいと思わせる。
機会があれば、本物の絵も見てみたいと思っている。

