以下の内容はhttps://taku6100.hatenablog.com/entry/2025/09/17/173415より取得しました。


一人読書会『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)⑮ ……第5部、21章~33章……

 

一人読書会『アンナ・カレーニナ』の15回目は、

第3巻の、

第5部の21章~33章を読んでみたいと思う。

 

21章

 

ベッツィ夫人やオブロンスキーとの話し合いから、自分に要求されているのは要するに自分の存在によって妻に負担をかけないよう、そっとしておいてやることであり、妻自身もそれを望んでいるのだということを理解して以来、カレーニンはまるで腑抜けのようになってしまった。彼を悩ましているのは、近い過去と現在との間の落差だった。すなわち病気の妻や他人の子を前にして感動や愛情を覚えたあのときの自分と、あたかもそのしっぺ返しのように、今こうして一人ぼっちで恥にまみれ、笑われて、誰にも必要とされず、みんなから軽蔑されている自分との間の折り合いが、さっぱりつかないのであった。カレーニンの絶望をさらに強めているのが、悲しみを分かちあえる相手が一人もいないという意識だった。カレーニンは孤児として育った。二人兄弟で、父親のことは二人とも覚えておらず、母親はカレーニンが10歳のときに他界していた。それで大物官僚の伯父のカレーニンが、二人の養育を引き受けてくれたのである。中学校も大学も優等で卒業すると、カレーニンは伯父の口利きでたちまち官界の出世コースに乗り、以来もっぱら勤務上の野心に身をゆだねてきた。兄がいちばん親密な相手だったが、カレーニンの結婚直後に外地で亡くなっていた。いわゆる人脈と呼ばれる間柄の者はたくさんいたが、友人関係は皆無だった。女性の知り合い達、とりわけその筆頭であるリディア・イワーノヴナ伯爵夫人のことは、カレーニンは考えに入れていなかった。あらゆる女性は女性というだけですでに、彼には恐ろしくまた疎ましかったからである。

 

22章

 

レーニンはリディア・イワーノヴナ伯爵夫人のことを忘れていたが、夫人のほうは彼を忘れてはいなかった。彼が一人ぼっちで絶望にくれていた、この最もつらい瞬間に、夫人が彼を訪れて、案内も請わずに書斎まで入り込んできたのである。「すっかりうかがいましたよ! カレーニンさん! お気の毒に!」彼の片手を両手でぎゅっと握りしめ、夫人は言った。「でも悲しみに負けてはいけませんわ。お悲しみは深いでしょうが、いつかきっと慰めを見出されるでしょうから」「わたしは負けました。命を絶たれました、わたしはもはや人間失格です! しかも恐ろしいことに、今のわたしの立場では、どこにも、自分自身の中にさえも、心の支えとなるものが見出せないのです」「わたしたちの心の支えとなるものは愛です。それも主がわたしたちに約束してくださった愛ですわ」夫人の言葉には高尚な感情に対する自己陶酔が含まれていたし、また最近ペテルブルグに広まった、カレーニンには行きすぎとも見える新しい、熱狂的な神秘思想の要素も混じっていたが、それにもかかわらず、こういう言葉を耳にすることが今のカレーニンには嬉しかった。カレーニンは夫人に、息子の視線が耐え切れないことを告げた。すると夫人は、「わかりますよ、カレーニンさん、わたしに任せていただけますか?」と言った。カレーニンは黙ったまま感謝の気持ちをこめて夫人の手を握った。「さて仕事に取り掛かりましょうか。わたし、息子さんのところへ行きます。よくよくの場合だけ、あなたの判断を仰ぎますわ」そう言って彼女は立ち上がり、セリョージャの部屋がある一角まで行くと、そこで怯える少年の頬を自分の涙でぐしょぐしょにしながら、あなたのお父さんは立派な人だ、お母さんはもう死んでしまったのだと告げたのだった。

 

23章

 

リディア・イワーノヴナ伯爵夫人は、まだうら若い多感な娘時代に、裕福で、家柄もよくて、気立ても最高で、おまけにこのうえなく放埓な、陽気な男性のもとに嫁にやられた。だが二月とたたない間に夫は妻に愛想をつかし、うっとりと愛を誓う彼女の言葉にも冷笑をもって答え、さらには敵意さえ示すようになった。以来、夫婦は離婚こそしなかったものの別居を始め、夫は妻に会うたびに必ず、理由のわからぬ毒々しい冷笑を浮かべてみせるようになった。伯爵夫人はとうに昔の夫を愛することをやめていたが、この間ずっと途切れることなく、別の誰彼を愛しつづけてきた。一度に何人かに惚れていることもあったし、相手が男でも女でもかまわなかった。すなわちどこか秀でたところのある人物と見れば、ほとんど誰でも見境なく好きになってしまうのだ。ところがカレーニンを見舞った不幸な事件の後、彼を自分の特別な庇護の元におき、カレーニン家の家政にまで関与して彼の幸福に心を砕くようになって以来、伯爵夫人は、これまでの愛はすべて偽物だった、今や自分が本当に愛しているのはカレーニンだけだと感じるようになった。なので、何日もの間、はらはらしながら過ごしていた。アンナとヴロンスキーがペテルブルグに来ていることを知ったからだ。あんな女と出くわす危険からカレーニンを救ってやらねばならなかったし、それどころかあの忌まわしい女が同じ町にいて、いつ出くわすかもしれないという恐るべき情報そのものから、彼を救ってやる必要があった。そんな彼女に、ホテルのメッセンジャーが、なんとアンナからの手紙を届けにきた。そこには「カレーニンに内緒で、息子に会わせてほしい」と書かれてあった。手紙の内容も、文体も、何もかもがリディア伯爵夫人を苛立たせるものだった。「返事はないと言ってやりなさい」メッセンジャーにそう言うと夫人は直ちに便箋フォルダを開き、カレーニンに宛てて、「本日12時過ぎに宮廷の祝賀会でお目にかかりたい。ある重大な、憂うべき問題につき、ご相談する必要があります」と手紙をしたためた。

 

24章

 

祝賀会が終わろうとしていた。立ち上がろうとする人々は、お互いに顔を合わせると、本日の最新ニュースだとか、新しく下された褒章だとか、高官の人事異動だとかの話に花を咲かせていた。人々が延々とカレーニンの噂話をしては、こき下ろしたり笑いものにしたりしている間、当の本人は捕まえた国家評議会の重鎮の行く手をしっかりとふさぎ、逃がすものかという勢いで、ある財務法案の内容を一条一条、一瞬も口を休めずに解説していた。妻が出て行ったのとほぼ時を同じくして、カレーニンの身に国家官史にとっては最もつらい出来事が起こった。昇進が停まってしまったのだ。この昇進停止はもはや確定した事実で、誰の目にも明らかだったが、ただしカレーニン本人だけは、自分の出世が止まったのをまだ意識していなかった。ストレーモフとの確執が響いたのか、妻とのトラブルが原因か、それともカレーニンの昇進がもはや既定の限界まで達してしまったのかは定かでないが、ともかく今年になって誰から見ても、彼の出世街道が終わったことが明らかになったのである。彼はもはや持てる力を使い果たした抜け殻であり、これ以上何も期待されていなかった。カレーニンはリディア・イワーノヴナ伯爵夫人を見つけ出し、夫人の方へと近寄っていった。彼にとって夫人は、周囲を取り巻く敵意と嘲笑の海の中で、唯一好意ばかりか愛情をも寄せてくれる、すがるべき島のような存在だった。「家へいらしてください。あなたには憂鬱な問題でしょうが、相談すべきことがあるのです。あの方から手紙をもらいました。あの方はここに、ペテルブルグにいるのです」妻のことが話題に上ると、カレーニンはびくっと身を震わせたが、すぐにその顔は、死んだような不動の表情に固まってしまった。「それはわたしも覚悟していました」彼は言った。伯爵夫人は感動の面持ちで彼を見つめた。すると彼の精神の偉大さに対す賛嘆の涙が、彼女の目に湧いてきた。

 

25章

 

リディア・イワーノヴナ伯爵夫人がアンナから受け取った手紙を、夫人はカレーニンに手渡した。手紙を読み終わると、彼は長いこと黙っていた。「わたしは、自分に妻の頼みを断る権利があるとは思えません」彼はおずおずとそう言った。「まあ、あなた! 誰が相手でも悪く考えようとはなさらないのね!」「それどころか、すべては悪だと思っていますよ。しかしそれが正しいかというと、どうでしょうか?……」彼はためらいを顔に浮かべ、どうしていいかわからぬ問題に対する助言を、助力を、支持をほしがっている表情をした。「いや、どんなことにも限度というものがあります。こういう残酷さは理解できません。しかも、あろうことか、あなたにこんな残酷な仕打ちをするなんて! だいたいあなたがいらっしゃる町に、どうして滞在することができるのでしょう!」「しかし、いったんすべてを許したわたしですから、妻にとって愛が、息子への愛が要求するものを、奪うわけにはいかないでしょう……」「しかしあなた、これは愛でしょうか? 本当の愛でしょうか? はたしてわたしたちは、あの天使の心にショックを与える権利を持っているのでしょうか? あの子は、お母さんは死んだと思っています。あの方のために祈り、あの方の罪を許してくれるよう、神さまにお願いしているのですよ……。そっとしておいてやるほうがいいでしょう。さもないと、あの子がどう思うでしょうか?」「そこまでは頭が回りませんでした」明らかに賛意を表してカレーニンは言った。「もしわたしに忠告をお求めでしたら申しますが、わたしは反対です。そしてもしお許しいただけるなら、わたしがあの方に手紙を書きましょう」カレーニンがこれに同意したので、夫人は次のような手紙をフランス語でしたためた。「前略 あなたさまを思う出させることは、ご子息に一連の疑問を呼び起こし、それに答えようとすれば、子供にとって神聖不可侵であるべきものへの糾弾の念を、ご子息の心に植えつけざるを得ない恐れがありますゆえ、ご主人がお申し出の件を拒絶されることを、キリスト教的な愛の精神において、どうかお認めいただきたく存じます。あなたさまに神のお慈悲がありますよう。 草々 伯爵夫人リディア」この手紙はリディア・イワーノヴナ伯爵夫人が自分自身にも隠していたひそかな目的を、まんまと達した。手紙はアンナを心底侮辱したのである。

 

26章

 

「どうだった、カピトーヌィチ? 包帯をした役人は来た? パパは面会した?」誕生日前日のお散歩から帰ってきたセリョージャは、背の高い年寄りの玄関番に語りかけた。「面会されましたよ」「それでパパはあの人の願い事を聞いてあげた?」玄関番はうんという風にうなずいた。話題になっている包帯をした役人は、何かの陳情ですでに7回もカレーニンのところに通ってきており、セリョージャも玄関番も気にしていたのだ。「それで大喜びしていた?」「もちろんですとも! ほとんどスキップしながら帰っていきましたよ」「それで、なにか届け物はある?」「伯爵夫人から届いています」玄関番がひそひそ声で答えた。セリョージャはすぐに、リディア・イワーノヴナ伯爵夫人からの誕生祝いのプレゼントだと察した。玄関番は近寄ってくる家庭教師のヴーニッチの足音を聞きつけると、ウインクしながら頭で家庭教師を示した。「ヴーニッチ先生、今行きます!」セリョージャはあまりにも愉快で、何もかもが楽しく思えた。パパがアレクサンドル・ネフスキー勲章をもらった朗報、例の役人に関する朗報、さらに誕生日のプレゼントが届いているという朗報が重なったため、今日という日は誰も彼もが嬉しく楽しく過ごすべき日だと思えたのだ。

 

27章

 

先生の授業のあとは父親の授業だった。父親がやってくるまでの間、セリョージャは机に向かってナイフをもてあそびながら、またもや考えだした。この頃のセリョージャの趣味のひとつは、散歩の折に母を探すことだった。彼はそもそも死というものを信じておらず、ましてや母が死んだなんて、いくらリディア・イワーノヴナ伯爵夫人に言われて父親もそう認めたとはいえ、まったく信じてはいなかった。だから母の死を告げられてからというもの、彼は散歩の時間に母の姿を探しつづけてきたのである。その後、たまたま乳母から、母が死んではいないことを知らされ、父やリディア・イワーノヴナ伯爵夫人が母が死んだと言ったのは、母が悪い人だからだと聞かされたが(母を愛するセリョージャには、母が悪者だなんて到底信じられなかった)、その後も彼は変わらずに母を探し、待ちつづけた。父親がやってくると、「ナーデニカ(リディア夫人の姪)がぼくに、パパが新しい勲章をもらったって教えてくれたんだ。嬉しかった、パパ?」と訊いた。カレーニンは言った。「大事なのはご褒美じゃなくて仕事のほうだ。もしもおまえが褒美をもらいたいために仕事をしたり勉強したりするとしたら、おまえは仕事をつらいと思うようになるだろう。しかしおまえが仕事を愛しながら仕事をするならば、おまえは仕事そのものがご褒美だと感じるだろう」父が自分にものを言うときはいつもこうだと、セリョージャは思っていた。まるで父は、架空の、本の中にしか出てこないような少年に向かって話しているみたいなのだ。それでセリョージャもほうも父が相手のときは、そうした本の中の少年になったようなふりをしようとするのだった。「おまえ、わたしの言っていることがわかるだろうね?」「はい、パパ」セリョージャは架空の少年になったつもりで答えた。彼は9歳で、まだ子供だった。しかし自分の心はわきまえていて、心を大切にし、ちょうどまぶたが目を守るように心をガードして、愛という鍵を持たないものは誰一人自分の心に受け入れようとはしなかった。母のことは晩の間忘れていたが、ベッドに入ったときふと思い出し、自分の言葉で祈った̶̶明日、自分の誕生日がきたら、ママがかくれんぼうをやめて、会いに来てくれますようにと。

 

28章

 

ペテルブルグに帰ってきたヴロンスキーとアンナは、最高級ホテルのひとつに落ち着いた。到着した当日に、ヴロンスキーは早速兄の家を訪れた。兄の家にはたまたま用事でモスクワから出てきていた母がいた。母と兄嫁は普段と変わらずに彼を迎えた。アンナとの関係にはひとことも触れなかった。兄のほうは翌朝ホテルまで会いにきて、自分からアンナとの関係をたずねたので、ヴロンスキーははっきりと、自分はすでにアンナとの関係を結婚とみなしていると答えた。その旨母と兄嫁にも伝えておいてほしいと告げたのだった。社交界はヴロンスキー個人にとっては開かれていても、アンナにとっては閉ざされているのだ。ペテルブルグの社交界の貴婦人のうちで、帰国したヴロンスキーが最初に会った一人が、従姉のベッツィであった。ベッツィは嬉しそうに彼を迎えたが、離婚がまだ成立していないと知ると、ベッツィの熱狂ぶりに水が注されてたようになったのを、ヴロンスキーは見逃さなかった。ヴロンスキーは兄嫁のヴァーリャに大きな期待を寄せていた。ヴァーリャならアンナに石を投げるようなまねはしないだろうし、素直できっぱりとした態度でアンナを訪問もすれば、彼女を客にも受け入れてくれそうに思えたからだ。しかし、彼の話を聞き終わったヴァーリャは、「いいこと、アレクセイさん。それはわたしはあなたのことが好きだし、あなたのためなら何でもする覚悟よ。でもわたしが今まで黙っていたのは、今のあなたとアンナ・アルカージエヴナの役に立ってはあげられないということがわかっていたからなの」と、「アンナ・アルカージエヴナ」という他人めいた呼び方をとりわけ強調するように言った。そして、「わたしにはあの方を救い上げるだけの力がないの……」と続けた。

 

29章

 

アンナがロシアに戻ってきた目的のひとつは、息子に会うことだった。ペテルブルグに着いてからすでに二日が過ぎていた。カレーニンがリディア・イワーノヴナ伯爵夫人と親しく付き合っていることを知ったアンナは、三日目に思い切って、夫人宛に手紙をしたためた。手紙を届けたメッセンジャーは、彼女にとってもっとも残酷で思いがけない、ノーコメントという返事を持ち帰った。一日中部屋に閉じこもって息子と会う手段を思い巡らしていたアンナは、ついに夫の手紙を書こうという結論に落ち着いた。ところがすでにその手紙を書きかけていたところへ、リディア・イワーノヴナ伯爵夫人の手紙が届けられた。受け取った手紙の文面と行間に読み取られるもののすべてがあまりにも彼女を苛立たせ、母としての自分がまっとうに息子を熱愛する気持ちと比べて、夫人の悪意があまりにも理不尽なものと思えたので、彼女は世の他人に対する憤りに燃え、自分を責めることをやめてしまった。「絶対に負けないわ! 明日はセリョージャの誕生日だから会いに行こう」と彼女は決心したのだった。翌朝8時、アンナは一人辻馬車から降り立つと、かつて住んでいた家の大きな表玄関のベルを鳴らした。玄関番のカピトーヌィチが「どなたにご用ですか?」とたずねると、アンナは「セリョージャ……セルゲイ・アレクセーヴィチに」と言って、奥へ入って行こうとした。「まだご起床ではありません。しばらくお待ちいただけますか?」と止めるが、顔を覗き込み、相手の正体に気づいたカピトーヌィチは「どうぞ、奥さま」と言った。「セリョージャ!」アンナは音もなく息子に近寄ってささやいた。セリョージャは身を起こし、にっこり笑い、母の手に向かって身を投げたのだった。「ぼく、わかっていたんだ。今日はぼくの誕生日だもの。ママが帰ってきてくれるってわかっていたんだ」

 

30章

 

家庭教師のヴーニッチは、はじめこの女性客が何者かわからなかったが、会話の様子から、少年の母親だと察した。彼女が出て行った後で雇われたヴーニッチは、彼女に見覚えがなかったのだ。ドアを開けると、母と子の睦み合う光景を目にし、「10分待とう」そう独り言を言い、咳払いをしてドアを閉めた。この間に使用人たちの間では大騒ぎが持ち上がっていた。奥さまと旦那さまが鉢合わせになるのではないかという一触即発の状況がみんなに知れ渡ったからだ。主人つきの従僕コルネイは、玄関番のカピトーヌィチがアンナを家に入れ案内までしたと聞き、この老玄関番を𠮟りつけた。ばあやが「コルネイさん、あなたはなんとかその、旦那さまをお引止めしてちょうだい。わたしは急いで行って、なんとか奥さまを連れ出しますから。さあ、早く、早く!」と言い、子供部屋に入って行った。アンナは家庭教師が戸口に近寄ってくる足音も、咳をする音も聞こえたし、近寄ってくるばあやの足音も聞こえていたが、まるで石になったようにじっと坐ったままだった。ばあやが小声でアンナに何かを告げると、アンナの顔に怯えと、何か羞恥のような表情が浮かんだ。「坊や! かわいいクーチク! ママを忘れないでいてくれる?」アンナは続けて、「セリョージャ、いい子ね。パパを愛しなさい。パパはママよりも良い人、優しい人だから。ママはパパに悪いことしたの。大きくなったらおまえにもわかるわ」と言った。このときドアが開いて家庭教師が入ってきた。別のドアのすぐそばでも足音がしたので、ばあやは動転したようなささやき声で「お見えです」と告げ、アンナに帽子を渡した。アンナは足早にドアに向かった。向こうからカレーニンがやってきた。彼女に気づくと彼は足を止め、軽く頭を下げた。夫の全姿を細部までくまなくとらえたアンナは、相手への嫌悪と憎悪、そして息子をとられた嫉妬の念に、たちまち身を焼かれるのを覚えた。すばやい動作でヴェールを下ろすと、彼女は足を速め、ほとんど駆け出すようにして部屋を出て行った。

 

31章

 

息子との再会をあんなにも切望し、あんなにも長い間そのことばかり考え、準備してきたにもかかわらず、アンナはこの再会が自分にこれほど強く作用しようとは、夢にも思っていなかった。ホテルの孤独なフラットに戻ってきた彼女は、なぜ自分がここにいるのか、長いこと理解できなかった。イタリア人の乳母が、おめかしした赤ん坊を抱いて入ってきて、アンナのそばまで連れてきた。この赤ん坊を見るにつけ、彼女は、自分がセリョージャに対して抱いている気持ちに比べたら、この子への感情など愛とさえ呼べないものなのだということを、ますますはっきりと実感してしまうのであった。たとえ愛していない夫の子だとはいえ、初めての子供には、満たされることを知らない愛の力がことごとく注ぎ尽くされた。それに対して娘のほうは、最初の子供にかけた手間の百分の一もかけていないのだった。セリョージャの写真を見ているうちに、アンナは今の自分の悲しみの原因が誰なのかということを思い出した。今朝からずっと彼女は一度もヴロンスキーのことを思い出さなかった。しかしいま突然に、彼への愛情が不意に大波のように押し寄せてくるのを覚え、彼の部屋に使いをやって、すぐに自分の部屋に来てくれるように伝えた。使いが持ち帰った返事は、目下来客中で、すぐに行くが、ついでにペテルブルグから来たヤーシュヴィン公爵をお連れしてもよいかという質問がついていた。「一人では来てくれないのね」と思ったアンナに、突然奇妙な考えが頭に浮かんだ。もしもあの人が自分のことを嫌いになったらという考えだった。

 

32章

 

ヤーシュヴィンと出かけたヴロンスキーが戻ったときには、アンナはまだ外出中だった。聞いたところでは、彼が出かけてすぐにどこかの女性がアンナをたずねて来て、一緒に出かけたらしい。戻ってきたアンナは、彼女の叔母にあたるオブロンスキー公爵家の未婚の中年女性ワルワーラと一緒だった。4人分の夕食が用意された。全員が食堂へ移ろうとしていたとき、トゥシケーヴィチが公爵夫人ベッツィからアンナへの言伝を届けに訪れた。ベッツィ夫人は、体調が悪いためお別れにうかがえない旨許しをこい、かわりにアンナが6時半から9時までの間、自分のうちに来てくれるようにと招いていた。アンナが、「その6時半から9時までのあいだ、都合が悪いから」と断ると、「あなたはきっと、パッティを聴きにいかれるのでしょう?」とトゥシケーヴィチは言った。「パッティですって? それはいい考えですわね。ボックス席が取れさえしたら、出かけたいものですわ」とアンナが言うと、「ぼくならお取りできますよ」とトゥシケーヴィチが言ったので、アンナは彼に切符の手配を頼んだ。夕食の席でのアンナは攻撃的なまでに陽気だった。「本当に劇場へ行くつもりかい?」とヴロンスキーが訊くと、「なぜわたしが行ってはいけないのかしら?」と、アンナはまるで彼の言葉の意味がわかっていないかのようだった。「行くことはできないってことは、わかりきっているじゃないか」「いいえ、わかりたくもありません! いったいわたしが自分のしたことを後悔しているとでもいうの? いいえ、けっして。だから同じことをもう一度最初からくりかえされたとしても、きっとまったく同じことをするわ。大事なことはただひとつ、お互いが愛し合っているかどうかっていうことでしょう。他の事なんかどうでもいいの」「君も知っているとおり、ぼくの気持ちは変わりようがない。だけど出かけるのはやめてくれ。お願いだ」「わたしのほうもお願いします、どうして出かけてはいけないのか、はっきり言ってください」「なぜって、そんなことをすればきみが、その……」彼は口ごもった。

 

33章

 

わざと自分の立場を理解しようとしないアンナに対して、ヴロンスキーははじめて怒りの感情を、ほとんど憎しみに近い感情を抱いた。「そんな恰好をして、あの札付きの公爵令嬢と一緒に劇場に顔を出したりすれば、滅びた女という自分の立場を認めることになるばかりか、上流社会に挑戦状を投げつけることになる。つまり永久に上流社会と絶縁することにnなるんだ」アンナに向かってそう言いたかったが、言えなかった。アンナは劇場へ出かけ、ヤーシュヴィンから「われわれも行こうじゃないか」と言われたが、「ぼくは行かないよ」とヴロンスキーは答えた。一人残されたヴロンスキーは、部屋の中を歩き回り、「おれはどうした? 怖がっているのか、それとも彼女のお守りをあのトゥシケーヴィチにゆだねるわけか? どう見たってばかげている。それにしてもなぜ彼女はおれをこんな立場に追い込むんだ?」と自問した。そして燕尾服を用意させ、ヴロンスキーは8時半に劇場に入った。1階席の中央まで進み出て、あたりを見回した。人々の視線の方向で、アンナがどこにいるかはわかったが、彼が探しているのはアンナではなくカレーニンだった。だが彼にとって幸いなことに、カレーニンは今回劇場には来ていなかった。ヴロンスキーはオペラグラスを動かしてアンナを見つけた。左隣のボックス席にはカルターソフ夫妻がいた。カルターソフ夫人が立ち上がり、アンナに背を向けて、夫の差し出すケープを羽織ろうとしているところだった。怒りのために顔を真っ青にして、なにやら興奮してしゃべりたてている。カルターソフ夫妻とアンナの間にいったい何があったのか? 何かアンナにとって屈辱的なことが起きたのはわかった。兄嫁のヴァーリャに訊くと、「あの方、カレーニン夫人を侮辱したらしいの。ご主人がボックス越しにカレーニン夫人と話し始めたところが、奥さまがひどく腹を立てて、大きな声で何か失礼なことを言って、出て行ってしまったらしいわ」と教えてくれた。第二幕が始まってもアンナのボックスが空っぽだと気づいたヴロンスキーは、ホールを出て帰途に就いた。アンナはすでに戻っていた。「あなたが全部悪いのよ!」「だから行くなって、ぼくがあれほど頼んだじゃないか。わかりきっていたさ、行けば嫌な思いをするって……」「嫌な思いですって!」アンナは叫んだ。「それどころか最悪よ! わたしこの先ずっと、死ぬまでこのことを忘れないわ。あの女は、わたしなんかの隣に坐るのは恥だと言ったのよ」「馬鹿な女の言ったことじゃないか」「わたしは、あなたのそういう落ち着き払ったところが大嫌い。わたしを引き止めてくれればよかったでしょう。もしもわたしのことを愛しているのなら……」彼には彼女が哀れだったが、しかしやはり腹立たしかった。かれは(胸のうちでは彼女を責めながら)何度も何度も彼女を愛していると誓った。アンナはその言葉をまるでむさぼるように飲み込み、少しずつ落ち着きを取り戻していった。その翌日、すっかり仲直りした二人は、田舎へと旅立った。

 

21章から25章は、カレーニンと、

彼を支えようとするリディア・イワーノヴナ伯爵夫人の様子が描かれる。

21章は、カレーニンの不幸な生い立ち、

22章は、カレーニンがリディア・イワーノヴナ伯爵夫人に、

「息子の視線が耐え切れない」

と告げ、夫人が、

「わかりますよ、カレーニンさん、わたしに任せていただけますか?」

と言って、セリョージャの部屋へ行くところまで。

23章は、リディア・イワーノヴナ伯爵夫人の生い立ちと、不幸な結婚生活が描かれ、アンナから彼女宛に、

「カレーニンに内緒で、息子に会わせてほしい」

という内容の手紙が届くところまで。

24章は、カレーニンの昇進停止が確定し、

リディア・イワーノヴナ伯爵夫人がカレーニンにアンナから手紙が来たことを告げるまで。

25章は、手紙を読んだカレーニンが、

「わたしは、自分に妻の頼みを断る権利があるとは思えません」

と言ったのに対し、リディア・イワーノヴナ伯爵夫人が、

「もしわたしに忠告をお求めでしたら申しますが、わたしは反対です。そしてもしお許しいただけるなら、わたしがあの方に手紙を書きましょう」

と言うところまで。

 

26章と27章は、アンナが来るのを無邪気に待っているセリョージャの様子。

 

28章は、ペテルブルグに帰ってきたヴロンスキーとアンナの様子。

29章は、リディア・イワーノヴナ伯爵夫人から届いた手紙の悪意ある内容に激怒したアンナが、世の他人に対する憤りに燃え、自分を責めることをやめ、

「絶対に負けないわ! 明日はセリョージャの誕生日だから会いに行こう」

と決心し、翌朝、セリョージャに会いに行く様子が描かれる。

30章は、アンナと息子のセリョージャが再会を果たしているときに、

レーニンがやってきて、アンナが駆け出すようにして部屋を出て行くまで。

31章は、息子セリョージャと再会したことで、

自分がセリョージャに対して抱いている気持ちに比べたら、

ヴロンスキーとの子(娘)への感情など、

愛とさえ呼べないものなのだということを実感するまで。

32章は、劇場へ行くと言うアンナを、ヴロンスキーが止めるところが描かれ、

33章は、ヴロンスキーの言うことを聞かずに、劇場へ出かけ、

案の定、隣のボックス席にいたカルターソフ夫人から侮辱され、

途中退席して帰宅したアンナをヴロンスキーが慰め、仲直りするまでが描かれる。

 

レーニンとリディア・イワーノヴナ伯爵夫人、

アンナと息子のセリョージャ、

アンナとヴロンスキー、

この他、脇役の多くの人物も入り乱れて、

ダイナミックに物語が展開していく。

若い頃に読んだときは、(半世紀以上前なのでもうほとんど忘れているが)

アンナを中心に物語を読み進めていたように思うのだが、

70代になった今は、

アンナの身勝手さにイライラし、(笑)

レーニンやヴロンスキーの哀れさが身に沁みて、

彼らに同情しながら読んでいる。

変われば変わるものである。(爆)

 

これで第5部は終了するのだが、

第6部では、リョーヴィンとキティの物語から始まるようなので、

「キティ」ファンの私としては、とても楽しみ。

 

さあ、第6部の読書にとりかかろう!

 




以上の内容はhttps://taku6100.hatenablog.com/entry/2025/09/17/173415より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14