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人生の一日(19) …今日は本当に生きた日であったか…

 

若い頃は、寝るのがもったいないと思うことが多かった。

エネルギーに充ち溢れ、毎日楽しいことを貪欲に追及していた。

ところが、高齢者になると、寝るのが楽しみになってくる。

エネルギーは枯渇し、(笑)

「寝れば極楽」の境地に至る。(爆)

一日が終わり、蒲団に横になり、

音楽を聴いたり、本を読んだりする時間は、至福のひとときである。

読む本が何も思いつかない日は、

セネカ『人生の短さについて』(岩波文庫、茂手木元蔵訳)

を手に取ることが多い。

そして、次の一節を読んで、本を閉じ、眠る。

 

諸君は永遠に生きられるかのように生きている。諸君の弱さが諸君の念頭に浮かぶことは決してない。すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。充ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。多数の人々が次のように言うのを聞くことがあるだろう。「私は五十歳から暇な生活に退(しりぞ)こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおりに事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。人生の残り物を自分自身に残しておき、何ごとにも振り向けられない時間を良き魂のために当てることを、恥ずかしいとは思わないのか。生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか。有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。(15~16頁)

 

「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」という箇所は、現代では、

「私は六十歳から暇な生活に退こう。七十歳になれば公務から解放されるだろう。」と、10歳くらいプラスして考えた方がいいだろう。

 

昔から賢者たちは、自分の時間が他人や社会から奪われることを嫌った。

なぜなら、哲学したり、自分の心と向かい合って対話するには、

心を完全に自由な、閑暇、静寂の中に置くことが必要だったからだ。

70歳になったらそうしようとか、

今は働いて蓄えを作り、余裕ができたらそうしようとか、

心の事柄はついつい先送りにしてしまう。

そうして、“真に生きる”ことがないまま、死を迎える。

 

H・D・ソローの『森の生活』に、

 

死ぬ時に、

実は本当には

生きていなかったと

知ることがないように

 

という言葉があった。

そして、茨木のり子の詩「ぎらりと光るダイヤのような日」にも、

 

世界と別れを告げる日に

ひとは一生をふりかえって

じぶんが本当に生きた日が

あまりにすくなかったことに驚くだろう

 

という一節があった。

 

人生は短く、儚い。

〈今日は本当に(真に)生きた日であったか……〉

そう自問、自省しつつ、私は眠りにつくのである。

 




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