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一人読書会『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)⑥ ……第2部、25章~35章……

 

一人読書会『アンナ・カレーニナ』の6回目は、

第2部の25章~35章を読んでみたいと思う。

 

第25章

 

レースに参加する将校は17名だった。コースは観覧席の前に広がる一周4000mの楕円形の馬場である。このコースには9つの障害が設けられていた。3回(誰かの馬が)フライングしたので、4回目でようやくスタートした。フル・フルは最初出遅れたが、軽々と三頭を追い抜き、先を行く二頭につけた。完全に馬を制御できるようになったヴロンスキーは、走りを抑え、相手を抜くタイミングを計っていた。ヴロンスキーがこのあたりでマホーティンを抜かなくてはと思ったまさにその瞬間、いち早く彼の考えを悟ったフル・フルが、何の合図もしないのに自分からぐいと加速し、坂路の途中で一挙にマホーティンを抜き去った。ヴロンスキーは先頭を走っていた。これはまさに彼が望み、(調教師の)コードが忠告してくれた通りの展開だった。残るはただひとつ、最後の140cmの水濠だけだった。フル・フルはまるで気にも留めないという風に水濠を飛び越えた。しかし、まさにその瞬間、馬の動きについていけなかったヴロンスキーは、恐ろしいことに、わけのわからぬまま鞍に腰を落とすという、とんでもない、なんとも許しがたい失態をしでかしてしまったのである。ヴロンスキーの片足が地面に触れ、その足の上に彼の馬が倒れ込んできた。彼がかろうじて足を引き抜くか引き抜かぬうちに、馬はどうとばかりに横倒しになった。馬はまるで撃ち落された鳥のようにもがいていた。ヴロンスキーの不用意な動きのせいで、馬の背骨が折れてしまったのだ。「あああ!」ヴロンスキーは頭を抱えてうめいた。「おれは何ということをしたんだ! レースは負けだ! しかも自分のミスで、恥ずかしい、許しがたいミスで! そしてこの哀れな馬が犠牲になったんだ!」。彼は怪我ひとつしていなかったが、馬は背骨を折っていたことから射殺の処置が決定された。このレースの思い出は、生涯で最もつらく苦しい思い出として、ヴロンスキーの胸に残ったのである。

 

26章

 

妻に対するカレーニンの態度は、外面的にはこれまで通りだった。彼の妻への態度には腹立ちの気配が見えるだけで、それ以上何もなかったのである。自分のおかれた本当の状況を知るのがあまりに恐ろしくて、家族への気持ちを、つまり妻と息子への気持ちを収めた胸の小箱をぴたりと閉ざし、鍵をかけて封印してしまっていた。カレーニンは妻の行状についても気分についても何ひとつ考えたくなかったし、実際そのことについては何も考えていなかった。その朝、カレーニンは大忙しだった。やたらと時間を奪うルーティーン・ワークが続いたからだ。その後、医者の訪問を受けた。友人のリディア夫人が今年の彼はどうも加減が悪そうだと見てとって、この医者を往診を依頼していたのだ。医者はカレーニンの状態に大いに不満を示した。肝臓がかなり肥大しており、栄養状態が悪く、鉱泉治療の効果はまるで見られなかった。できるだけ運動を増やし、頭脳の緊張を減らし、何よりも心労をなくすこと、というのが処方だったが、これはカレーニンにとっては息をするなというのと同じで、できない相談だった。だが、体の中で何かよからぬことが起きていて、しかもそれを治すことはできないのだという、不快な意識が残った。カレーニンのもとを辞した医者は、表階段でカレーニンの秘書スリューディンと出会った。二人は大学の同級であったので、スリューディンは医者にカレーニンの状態を訊いた。医者は言った。「いわば限界まで張られた弦のようなものだ。そこに指一本の重さでも加えると、プツンと切れてしまうのだよ」。

 

27章

 

アンナが二階の鏡の前にいたとき、砂利を踏みしだく場所の車輪の音がした。「ベッツィにしては早すぎるわ」そう思って窓を覗くと、カレーニンだった。「なんて間の悪いこと。まさか泊っていく気かしら?」そう思った彼女は、もしそんなことにでもなったら、とんでもなく不都合な、恐ろしい結果になるかもしれないと恐れをなしながら、夫を迎えに行った。「あら、ようこそ! 泊っていってくださるんでしょう? でもあいにくとわたしはベッツィさんとご一緒する約束なの。あの方が迎えに来てくれることになっているのよ」。カレーニンはベッツィの名を聞くと顔をしかめた。「あなた、あまり顔色が良くないわね」アンナが言った。「ああ」夫は答える。「今日は医者が来て、一時間も取られたよ。きっと誰か友人の一人が、医者をよこしたんだな。わたしの健康はそれほど貴重だということらしいよ」「それで、お医者さんは何と言ったの?」彼女は夫に健康状態と仕事のことをたずねると、休みをとって別荘の自分のところへ来るように説得してみせた。彼はただ彼女の言葉を聞き取って、それにただ額面どおりに意味を与えるだけであった。そのうえで簡単に、ただ冗談めかして、返事をしたのである。どこをとっても何の変哲もない会話であったが、後々アンナはこの短い場面を思い起こすたびに、痛切な慚愧の念を覚えずにはいられなかった。

 

28章

 

レーニンが競馬場に現れたとき、アンナはすでにベッツィと並んで観覧席に坐っていた。夫が婦人席にちらちらと視線を向けているのを見て、アンナは相手が自分を探しているのを理解した。だが彼女はわざと夫に気がついていないふりをした。「カレーニンさん! 奥さまを探しているんでしょう。ほらここよ!」ベッツィ夫人が彼に向かって叫んだ。カレーニンは彼女たちがいる観覧席にやってきて、女性たちには冗談口を利き、男性たちとは簡単な挨拶を述べ合った。そして、カレーニンが尊敬する侍従武官長がいたので、彼と話を始めた。夫の甲高い平坦な声を一言も漏らさずに聞いていたアンナは、その一言一言が作りごとのように思え、痛いほど耳障りに感じられるのだった。「この人は何もかも知っていて、気づいているくせに、何一つ感じていないんだわ。だからこんなに淡々と話していられるのよ。もしこの人がわたしを殺し、ヴロンスキーを殺したら、わたしはこの人を尊敬したでしょう。でもそんなことは起こらない。だってこの人に必要なのは単に嘘と世間体だけなんだから」。「公爵夫人、賭けをしましょう!」下のほうからベッツィに呼びかけるオブロンスキーの声がした。「奥さまは誰に賭けますか?」「アンナとわたしはクゾヴレフ公爵ですわ」ベッツィが答える。「小生はヴロンスキーに賭けます。では手袋一組ということで」「乗りましょう!」この瞬間、発走となって、全員が立ち上がった。競馬自体には興味がないカレーニンは、アンナを見た。アンナの顔は青ざめて、厳しい表情になっていた。その目には明らかに一人の人物を除いて何ひとつ、誰一人映っていなかった。レースは散々な展開で、17人の騎手のうち半数以上が落馬して負傷していた。

 

29章

 

全員が大声で不満を表明していたので、ヴロンスキーまでが落馬してアンナが大声であっと叫んだのにも、とりわけ不自然なところはなかった。しかしそれに続いてアンナの顔に現れた変化は、もはや明らかに見るに耐えないものだった。すっかり取り乱し、まるで捕まった小鳥のようにじたばたともがきだした。そしてベッツィ夫人に向かって「ここを出ましょう、出ましょう」と呼びかけるのだった。カレーニンはアンナに近寄ると、慇懃に片手を差し伸べ、「よければ、ここを出よう」と言った。だがアンナは「いいえ、どうか放っておいてください、わたしは残りますから」と言って、泣きだし、嗚咽した。アンナを連れ出したカレーニンは、アンナのはしたない振舞いを責めた。「もしかしたら、わたしの誤解かもしれない。そうだったとしたら、どうか許してくれ」「いいえ、あなたの誤解じゃないわ」夫の冷たい顔を絶望の眼差しで見つめながら、アンナはゆっくりとそう言った。「誤解じゃありません。わたしはたしかにわれを忘れていましたし、今でもどうしようもなくうろたえています。あなたの話を聞きながらも、あの人のことを考えているのです。わたしはあの人を愛している、あの人の愛人なのです。あなたのことなんて大嫌い。怖い、憎いと思うだけです……。わたしをどうとでも、好きにしてください」そう言うと彼女は馬車の片隅に身を投げ、両手で顔を隠して泣きだした。「なるほど! だがわたしはとりあえず表向きの体面は保ってもらうように要求する。わたしがその、自分の名誉を守る措置を取り、それをきみに伝えるまでは」カレーニンはそう言って、妻を馬車から降ろすと、そのまま馬車に乗ってペテルブルグへと戻って行った。

 

30章

 

人の集まる場所はどこでもそうであるように、シチェルバツキー家の一行が訪れたドイツの小さな保養地でも、よくある社会の結晶化現象が起きて、それが保養客の一人一人に一定不変の位置を与えていた。ちょうど水の分子が冷却されると一定の形の雪の結晶となるのと同じように、この保養地を訪れる者は誰でも、すぐに自分に見合った位置に定着するのだった。シチェルバツキー家の人々も、借りた住居のグレードや、名前や、出会った知人の格によって、すぐさま一定の、彼らにふさわしい位置に結晶したのである。こうした環境がすべてしっかり定まってみると、キティは退屈でたまらなくなってきた。すでに知っている人たちのことには関心がなく、この保養地で彼女のいちばんの関心事は、見知らぬ人たちを観察し、彼らのことを推測する作業だった。そうした作業の中で、とりわけ彼女の注意を引いたのが、ある若いロシア人女性だった。これは病気のロシア婦人(シュタール夫人)に付き添ってこの保養地に来た娘で、人々は彼女をマドモアゼル・ワーレニカと呼んでいた。彼女はシュタール夫人の世話をしていたのだが、そればかりか、この保養地にたくさんいる重病の患者たちすべてと親しく交わり、きわめて自然な仕方で彼らの面倒を見ているのだった。キティはこのマドモアゼル・ワーレニカそのものにいわく言いがたい共感を覚え、また相手の目つきから自分も相手に気に入られているのを感じているのだった。朝の温泉場にまた二人、みなの冷ややかな関心をそそる男女が現れた。男のほうは背が高く猫背気味、背丈に会わぬ短いコートを着用し、女はあばた面で顔立ちは良かったが、服装は粗末で悪趣味だった。キティはすぐに空想の中で、二人の美しい、感動的な物語を作りあげた。だが母親が療養者名簿からこの二人がニコライ・リョーヴィンとマリア・ニコラエヴナであることを突き止め、キティに向かってこのリョーヴィンという人物がどんなに悪人かを説明したので、二人に関する夢物語はすっかり消えてしまった。母親の言葉のせいというよりも、この男性があのコンスタンチン・リョーヴィンの兄であるという事実のせいで、キティには二人が急に極度に不愉快な人物に思えてきたのだ。

 

31章

 

あいにくの悪天候で午前中ずっと雨が降り続いていたある日のこと、キティは母親とモスクワの大佐との三人連れで歩いていた。彼女たちはもっぱら遊歩道の片側を歩き、別の側を歩いているリョーヴィンを避けていた。ワーレニカは盲目のフランス女性に付き添って遊歩道の端から端まで散歩していたが、キティと行き会うたびに、二人して好意のこもった視線を交わし合うのだった。「ママ、あの方とお話ししてもいいでしょう?」キティがそう言うと、母は、「そうね、もしあなたがそんなに望むなら、まずわたしがあの方のことを調べて、話しかけてみましょうか?」と答えた。「あなたの熱中ぶりったら、おかしいくらいね。さあ、もう引き返しましょう」ちょうど向こうからニコライ・リョーヴィンが、連れの女性とドイツ人の医者を伴ってやってくるのを見かけた母親はそう言い添えた。彼女たちが回れ右をしたとき、不意に、もはや声高な議論の域を超えた、怒号のようなものが聞こえた。リョーヴィンは足を止めたまま怒鳴りまくり、医者もむきになって言い返している。公爵夫人とキティは急いでその場をはなれ、大佐は事情を知るために見物人の群れにもぐりこんだ。大佐によると、リョーヴィンは治療法が間違っていると罵ったあげく、杖まで振り上げたとのこと。幸い女性が一人、間に入ってくれて、言い争いは治まったそうだ。「マドモアゼル・ワーレニカね?」「そう、そうです。あの女性がいち早く機転を利かせて、あの紳士の腕を取って連れ去ったのですよ」。キティは母親に対していっそう強く、ワーレニカと近づきになるのを許してくれるようにせがみ、その願いは叶えられた。

 

32章

 

ワーレニカの過去について、公爵夫人が知りえた詳細は次のようなものであった。常に病的な興奮症であったシュタール夫人は、夫と別れた後に最初の子供を産んだのだが、子供は生まれた直後に死んでしまった。彼女の過敏な神経をわきまえた親族は、子供の死を知らせれば彼女まで死んでしまうだろうと恐れて一計を案じ、同じ晩にペテルブルグの同じ建物で生まれた宮廷の料理人の娘とすり替えた。それがワーレニカだったのである。後になってシュタール夫人は、ワーレニカが自分の娘ではないと知ったが、そのまま彼女を養育し続けた。こうした事情を知った公爵夫人は、自分の娘とワーレニカが近づきになることに何も警戒すべき要素はないと考えた。公爵夫人はワーレニカが歌が上手だということを聞きつけると、晩に自分の家に来て歌ってくれるように頼んだ。ワーレニカは譜面を見ながら見事な声で歌った。ピアノが得意なキティが伴奏したのだが、キティは誇らしい気持ちで友を見た。彼女は相手の技術にも、声にも、顔にもうっとりと魅了されていたが、なにより彼女の胸を打ったのはその物腰であった。ワーレニカは明らかに自分の歌をなんとも思っておらず、褒められてもまったく平然としていて、ただ単に、もっと歌う必要があるか、それともこれで十分かとたずねているようであった。そのことにキティは感動したのである。次の曲はイタリアの歌謡であった。キティが序奏を演奏し、ワーレニカを振り返ると、相手は顔を赤らめて「これは飛ばしましょう」と言った。キティはとっさに今の歌には何かこだわりがあるんだなと察した。お茶の時間にそのことを訊くと、「じつはわたしはある男の方を愛していて、あの曲をその方のために歌ったことがあるのです。わたしたちはお互い愛しあっていました。でもその方のお母さまが反対なさって、その方は別の人と結婚したのです」とワーレニカは答えた。「どうしてその方はお母さまの言うままにあなたを忘れ、あなたを不幸にすることができたのか、きっと心の冷たい方でしたのね」「いえいえ、とても善い方でしたし、わたしだって不幸になったわけではありません。それどころか、わたしはとても幸せですよ」「あなたはなんて素敵な方なんでしょう!」キティはそう叫ぶと、ワーレニカにキスをした。「ああ、ほんの少しでもあなたみたいな人になれたなら!」「なぜ誰かのまねをしなくてはいけないの? あなたはそのままですばらしいわ」特有の控えめな笑みを浮かべてワーレニカは言った。「教えてください、だって男性があなたの愛をないがしろにして、拒絶したのだと思うのは、悔しくはならないのですか?」とキティが問うと、ワーレニカは、悔しくはないし、屈辱も感じないと答えた。キティはヴロンスキーを思い出したのか、「わたしは相手を憎んでいます」と言った。「でもどうして?」「恥が、恥辱が」「でもそんなことはすべて大事なことではありませんわ」「では大事なことって何ですの?」そのとき公爵夫人の呼ぶ声が聞こえた。キティは相手の手を放さず、燃えるような好奇心と祈りを込めて、目で相手に質問した。「あなたにそれほどの落ち着きを与えているいちばん大事なこととは、いったい何、どんなものなの? きっと、いつか教えてくださいね!」

 

33章

 

キティはシュタール夫人とも知り合いになったが、その関係はワーレニカとの友情とともに、彼女に強い影響を及ぼしたばかりでなく、彼女の悲しみを慰めてもくれたのであった。それは、こうした関係のおかげで、まったく新しい、高尚な美しい世界が開け、その高みに立つと、自分の過去を平然と眺めることができるからであった。ワーレニカから聞いたシュタール夫人の生涯の物語にもキティは例の「大切なこと」を見出したが、また否応なく夫人のうちに自分を当惑させるような特徴をも見出してしまい、シュタール夫人への疑惑を生んだ。だが、そのかわりワーレニカは、まさにキティがそうでありたいと夢見る完成の極致に他ならなかった。ワーレニカという手本から彼女が理解したのは、ただ自分のことを忘れて他人を愛しさえすれば、穏やかで、幸せな、すばらしい女性になれるということだった。そしてキティもそんな女性になりたかった。何がいちばん大事なことかを知った今、キティはその大事なものに見とれて満足しているのではなく、すぐさま目の前に開けたその新しい生活に全身全霊をささげることにしたのであった。キティは夜な夜なシュタール夫人にもらったフランス語の福音書を読み、さらに社交界の知人たちを避けて、ワーレニカの世話になっている病人たちと交わるようになり、とりわけペトロフという病気の絵描きの貧しい家族と親密な関係を結んでいた。これはすべて結構ずくめであったが、ただしそれも行き過ぎない範囲での話だった。母親の公爵夫人は娘が極端に走ろうとしていたので、ひとこと注意した。「何事においてもけっして行き過ぎてはいけませんよ」と。しかし母親の心配は杞憂に終わらなかった。キティがペトロフに(肩掛けをあげるなど)必要以上に親切にしたため、ペトロフがキティに特別な感情を抱くようになり、妻のアンナがキティと距離を置くようになったのだ。

 

34章

 

すでに鉱泉治療のコースも終わりに差し掛かった頃、シチェルバツキー公爵が家族のもとへと帰ってきた。帰ってきた翌日、公爵は娘のキティを伴って温泉場に出かけた。すばらしい朝で、明るい家並、陽気に働いているドイツ人の女中たち、明るい陽光が胸を楽しませてくれた。だが温泉場に近づけば近づくほど、病気の人たちの姿が目立つようになった。ついさっきまで愛娘と腕を組んで歩いていることに誇らしさを覚え、うきうき気分でいた公爵だったが、丸々と肥えた大柄な肢体を、何かきまりの悪い、恥ずかしいものと感じていた。遊歩道で二人はワーレニカと出会った。「やっと父が帰ってきましたの」キティが彼女に言った。ワーレニカはお辞儀と腰をかがめる挨拶との中間のような仕草をし、早速公爵と自然で素朴な口調で話を始めた。「もちろん、存じ上げています」公爵は笑顔で彼女に言ったが、キティはその口ぶりから友が父の気に入ったのだと知って喜んだ。「あれは誰だ? なんて哀れな顔をしているんだろう!」ベンチに坐っている小柄な病人に目を留めた公爵はたずねた。「あれはペトロフさん、画家さんよ。そしてあちらが奥さま」キティは顔を赤らめて答えた。「昨日はお待ちしていましたんですよ、お嬢さま」ペトロフが言った。「ワーレニカの話では、アンナ奥さまがお出かけは取りやめになったと言ってよこされたということで」「取りやめになったって?」ペトロフは目で妻を探しながらそう言い、妻を呼んで問い詰めた。「あらまあ、出かけるのは中止にしたと、つい思い込んだものですから」妻は忌々しそうに答えた。「どうしてだ、いったいいつ……」ペトロフは咳き込んで片手を一振りした。公爵は帽子を上げて別れを告げると、娘を連れてその場を後にした。「あら、シュタール夫人ですわ」そう言ってキティは小さな車椅子を指さした。公爵は夫人に近寄っていって、挨拶を交わした。会話の途中、ワーレニカが肩掛けで足をくるむ仕方が間違っていたとみえて、シュタール夫人が「反対側からするのよ!」と叱った。シュタール夫人と別れた後、「おまえのワーレニカはひどい目にあっているな」公爵はそう言った。「そんなことありませんわ、お父さま!」キティは熱くなって反論した。「ワーレニカはあの方を崇拝しています。それに、あの方がどれほど善行を積んでいられることでしょう!」「そうかもしれないが、しかしね、慈善をするなら、むしろ誰にたずねても知らないという形でしたほうがいいのだよ」キティは黙り込んだ。決して父親の意見には従うまい、大事な心の深奥には触れさせまいと決心していたにもかかわらず、いま彼女が味わっているのは、この一月間胸にはぐくんできたシュタール夫人の神々しい面影がすっかり失われ、二度と取り戻せないという感覚だった。

 

35章

 

公爵は自分の上機嫌を家族にも知人にも、さらにはシチェルバツキー一家が滞在している家のドイツ人家主にまで感染させた。キティと一緒に温泉場から戻り、大佐、ルティシュヴァ夫人およびワーレニカを自宅でのコーヒーの会に招待すると、公爵はテーブルと椅子を自宅の小庭園の栗の木の下に出して、そこにランチの支度をするように命じた。公爵は旺盛に食べながら大声で楽しげに話をしている。公爵夫人は夫のロシア式大盤振舞いを茶化していたが、彼女もやはりこの保養地に来て以来見たことがないほど、元気で楽しそうだった。ルティシュヴァ夫人は公爵が滑稽な冗談を言うたびに笑い転げ、ワーレニカさえもが公爵の冗談に当てられて、クスクスと小声ながらいつまでも後を引く笑いに身をもんでいたが、これはキティがこれまで見たことがない光景だった。こうした陽気さはキティにも伝わったが、しかし彼女はどうしてもひとつのことに気をとられていた。自分の友人たちについて、自分があんなにも気に入っていた彼らの生活ぶりについて、父親が自分に無意識に投げかけた問題を解決できずにいたのだ。ワーレニカがいとまごいをし、帽子を取るために屋内へ戻っていったとき、キティもその後についていった。ワーレニカさえもがいまの彼女には別人のように見えた。別に悪くなったというわけではないが、かつて彼女が勝手に想像していたのとは違う人間になっていたのだ。「母がペトロフさんのお宅にお寄りしたいと言っていましたが、あなたはあそこにはいらっしゃらない?」キティはワーレニカを試すつもりで、そんな風にかまをかけた。「行きます。あの方たちはここを去ろうとしています。わたしは荷造りを手伝うと約束していますから」「では、わたしもうかがいましょう」「いいえ、それには及びませんわ」「なぜ? なぜ? どうして?」キティは激しく問い詰めた。「すっかり言えとおっしゃるの?」「すっかりよ、すっかり!」。ワーレニカは仕方なく話し出した。以前は早くここを去りたがっていたペトロフが、今では残りたがっていて、(妻のアンナによると)ここを離れたがらないのはキティがいるからなのだと。それで喧嘩にもなったとのこと。「ですから、あなたは近寄らないほうが良いと思うの。どうかおわかりになって、気を悪くしないでね……」「わたし、罰が当たったんだわ!」「何で罰が当たるの?」「なぜって、何もかもすべて見せ掛けの作り事で、心からしたことではなかったから」「でも、いったい何のため?」「本当に自分より善い人間に思われたかったからよ。他の人からも、自分からも、神さまからも。みんなを騙すつもりだったんだわ。でもこれからはもう、そんな誘惑には負けないわ! たとえ悪い人間でもいいから、少なくとも自分に正直でいたい。嘘つきなんかになりたくないから!」「あら、嘘つきっていった誰のこと?」ワーレニカは咎めるような口調で言った。「あなたの言い方だと、まるで……」だがカッとなってわれを忘れたキティは、相手に終いまで言わせなかった。「わたしが言っているのはあなたのことじゃない。あんたは完璧な人よ。でも、残念ながら、わたしは出来損ないだった! でも仕方がない、わたしはありのままで生きていきます。もう見せかけはやめて。自分以外の人間にはなれない……それに、何もかも間違っていたのよ!」「何が間違いなの?」「わたしはただ気持ちのままに生きていくことしかできないけれど、あなたは原則に従って生きている。わたしはただ単にあなたを好きになったのだけれど、あなたの場合はきっと、ただわたしを救いたい、教えたいというつもりで愛してくれたんでしょう!」「それは違うわ」ワーレニカは答えた。そのとき、母親の呼ぶ声が聞こえ、友達と仲直りもしないまま、母親のところへ向かった。戻ると、ワーレニカはまだそこにいた。「ワーレニカ、わたしを許して! 何を言ったのか、覚えていないの。わたし……」「わたしだって、本当に、あなたを悲しませるつもりはなかったのよ」ワーレニカは微笑みながら答えた。和解が成立した。別れ際キティは、ワーレニカにぜひロシアの自分たちのもとを訪れてくれとせがんだ。「あなたがご結婚されるときにうかがいましょう」ワーレニカは答えた。「わたしはけっして結婚なんてしません」「では、わたしもうかがうことはないわね」「そんなことをおっしゃるなら、あなたをお招きするためだけ結婚するわ。きっとよ、約束を忘れないで!」キティは言った。キティは完治してロシアに帰国した。モスクワでの不幸な出来事は、過去の思い出と化していた。

 

25章から29章は、

ヴロンスキーが参加した競馬を中心とした展開で、

ヴロンスキー、アンナ、アンナの夫カレーニンの、

それぞれの心理が息つく暇もないほどに矢継ぎ早に描かれる。

そして、29章で、アンナはついに、カレーニンに、

 

「わたしはあの人を愛している、あの人の愛人なのです。あなたのことなんて大嫌い。怖い、憎いと思うだけです……。わたしをどうとでも、好きにしてください」(529頁)

 

と言ってしまう。

いやはや、これからどうなってしまうか……

 

一方、30章から35章は、

シチェルバツキー家の一行が訪れたドイツの保養地の様子が描かれる。

キティが出会うシュタール夫人とワーレニカ、

特にワーレニカという女性のなんと魅力的なことか!

私はすっかりワーレニカのファンになってしまった。(コラコラ)

キティもワーレニカに心酔し、

ワーレニカのように生きてみたいと思うようになる。

社交界の知人たちを避けて、

ワーレニカの世話になっている病人たちと交わるようになり、

とりわけペトロフという病気の絵描きの貧しい家族と親密な関係を結ぶ。

キティの母親の公爵夫人は、

娘が極端に走ろうとしていたので、ひとこと注意する。

「何事においてもけっして行き過ぎてはいけませんよ」と。

しかし母親の心配は的中する。

キティがペトロフに(肩掛けをあげるなど)必要以上に親切にしたため、

ペトロフがキティに特別な感情を抱くようになり、

妻のアンナがやきもちをやき、キティと距離を置くようになったのだ。

キティの父シチェルバツキー公爵が帰ってきてから、

キティがシュタール夫人やワーレニカに抱いていた理想形が、

「もしや幻想ではなかったか……」と、疑問を抱くようになる。

そして35章において、ワーレニカとも対峙することになる。

最終的には和解し、別れ際にキティが、

ぜひロシアの自分たちのもとを訪れてくれとせがむと、

「あなたがご結婚されるときにうかがいましょう」

とワーレニカが言い、再会を約束する。

 

第1巻を今回で読了したことになる。

約半世紀前に『アンナ・カレーニナ』を読んだときは、

アンナとヴロンスキーを中心に読んだような気がするが、

70代の今は、キティとリョーヴィンの方が気になって仕方がない。

次回は、第2巻、第3部、1章~12章を読みたいと思う。

 




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