
一人読書会『アンナ・カレーニナ』の5回目は、
第2部の12章~24章を読んでみたいと思う。
第12章

モスクワから帰った最初のころ、まだプロポーズを断られた恥辱を思い起こしてはびくっとして顔を赤らめていたとき、リョーヴィンは自分にこう言い聞かせたものだった。「時がたちさえすれば、きっと今度のことも平気に思えるようになるさ」と。しかし三か月がすぎても、彼はこの出来事を平気に思えるようにはならず、相変わらず最初のころと同じように、つらい気持ちで思い越しているのだった。あのときの自分の振舞いに何も疚しいところはなかったと、いくら自分に言い聞かせても、その思い出は他の同種の恥辱の記憶と同じように、彼を身震いさせ、赤面させるのであった。恥の記憶は決して癒えることがなかった。だが時間と労働がそれなりの効果を発揮した。村の日常に含まれる、目には見えぬが重要な仕事の数々が、つらい思い出をだんだんに覆い隠してくれたのである。週を数えるごとに、彼がキティを思い出す回数が減っていった。彼女がすでに結婚した、あるいは近日中に結婚するという便りを、彼は心待ちにしていた。そんなニュースが虫歯を引き抜くように自分を全快させてくれるのではないかと期待していたのである。そしているうちに春が訪れた。このすばらしい春のおかげでリョーヴィンの気持ちはいっそう発奮し、思い切って過去のあらゆる習慣を捨てて、独り身の暮らしをしっかりと自分の手で打ちたてていこうという決意を固めたのだった。
13章

リョーヴィンは大きな長靴を履き、今年初めて毛皮コートではなくラシャの半コートを着込んで、農場の見回りに出かけた。春は計画や企画の季節である。手始めに彼は家畜小屋へ行った。今年の子牛はとびきり生育がよく、リョーヴィンはその姿を堪能した後で、子牛たちの飼葉桶を外に出して、柵越しに干草をやれと命じた。だが調べてみると、秋に作った柵が壊れていた。大工を呼びにやったが、彼らは言われたことはせずに別のことをしていた。リョーヴィンはそれを知ってカッとなった。まさにこうした永遠の怠慢な農場労働のあり方を一掃しようと、彼が何年もかけて戦ってきたのにもかかわらず、また同じことがくりかえされているのに腹が立ったのである。リョーヴィンは管理人を呼び、大工の仕事ぶりを問いただすと、「あの連中ときたら、まったく役立たずで!」と言ったので、「役立たずはあの連中ではなくて、管理人だろう!」とリョーヴィンは言った。「何のためにきみにいてもらっているんだ!」彼は叫んだ。種蒔きに関しても彼の言いつけは守られていなかった。管理人を仲直りのつもりでもう一度呼びつけ、これからの春の仕事と農事上の計画について話したが、管理人はじっと耳を傾けていたものの、その顔には夢も希望もない暗い表情が浮かんでいた。その顔はこう言っているかのようだった。「何もかも結構、でもなるようにしかなりませんが」。これこそが管理人に共通した調子で、何人雇っても、みな同じだった。もはや怒る気にもならず、ただげんなりするとともに、こうしたいわば得体の知れぬ「自然の力」と戦ってやろうという気にさせられるのだった。それはまさに「なりゆきまかせ」としか呼び得ぬ態度であり、彼は絶えずこれに突き当たってきたのであった。
14章

最高に楽しい気分で家に差し掛かったとき、リョーヴィンは正面の車寄せのほうから馬の鈴の音がするのを聞きつけた。「おっ!」リョーヴィンは両手をかかげて嬉しそうに叫んだ。「これは嬉しいお客だ! ああ、よく来てくれたなあ!」オブロンスキーの顔を認めて彼はそう叫んだのだった。橇を降りながらオブロンスキーは言った。「きみに会いたかった、これが第一の理由。ヤマシギ猟をしたかった、これが第二の理由。エルグショーヴォの森を売らなくちゃならん、これが第三の理由だ」。リョーヴィンはオブロンスキーを客用の部屋に通した。オブロンスキーはたくさんの興味深いニュースを伝えたが、キティのこともシチェルバツキー家全体のことも、ひとこともしゃべらなかった。リョーヴィンはその気遣いに感謝した。「きみは幸せ者だよ。だって自分の好きなものは全部持っているんだから。馬が好きで馬を飼っている。犬が好きで犬もいる。猟も、農業も、好きなものは全部手元にあるんだ」オブロンスキーがこう言うと、「もしかするとそのわけは、ぼくが手元にあるもので満足していて、ないものを嘆いたりしないからじゃないかな」そう答えたリョーヴィンはキティのことを思い出していた。
15章

あまり遠くないところに小さなヤマナラシの茂みがあって、猟場はそこを流れる小川のほとりだった。完全なしじまの中に時々、去年の落ち葉がかさこそと音をたてる。解ける雪と伸びる草が落ち葉を動かしているのだ。「すごいな! 草が伸びるのが聞こえたり見えたりするんだ」つんと伸びた若草の脇でスレートのような色のヤマナラシの濡れ落ち葉がピクリと動いたのを目に留めて、リョーヴィンは胸の中でつぶやいた。猟は上出来だった。オブロンスキーは三羽を仕留め、リョーヴィンも二羽を仕留めた。あたりが暗くなってきて、ヤマシギの飛来はすでに止んでいた。「そろそろかな?」オブロンスキーが聞いた。「まだ待とう」リョーヴィンは答えた。「スティーヴァ!」いきなり、思いがけなくリョーヴィンはオブロンスキーに声を掛けた。「どうしてぼくに話してくれないんだ。きみの義妹さんはもう嫁にいったのか、それともいついく予定なのか?」リョーヴィンは、いまの自分はどんな答えを聞かされても動じないほど、しっかり落ち着いていると感じていた。だがオブロンスキーの返事は、さすがの彼にも思いもよらぬものだった。「義妹は嫁にいく気はなかったし、この先もないだろう。大変具合が悪くて、医者たちが外国へ療養に行かせたのさ。生き死にの心配までされるほど深刻なんだ」「なんだって!」リョーヴィンは叫んだ。「重病なのか? いったいどうしたんだ? 彼女は……」
16章

家に帰る道中、リョーヴィンはキティの病気とシチェルバツキー家の計画について事細かに聞きただした。そして認めるのは恥ずかしくはあったが、このとき知ったことは彼に快い印象をもたらした。なぜ快いかといえば、まだ望みがあるということがわかったからであり、さらにそれを上回る快さは、自分をあんなに苦しめた彼女が今苦しんでいるという事実がもたらすものであった。だがオブロンスキーがキティの病気の原因を話しはじめてヴロンスキーの名を出すと、リョーヴィンは相手をさえぎった。「ぼくにはよその家庭の事情を知る権利はまったくないし、正直な話、何も興味もないよ」。「あのリャビーニンとの森の取引は、すっかり話がついているのか?」リョーヴィンはたずねた。「うん、値も上々で、三万八千だ」「それじゃあ、きみはあの森をただでくれてやったようなものだね」リョーヴィンはぶすっと言った。「だって、あの森は少なく見積もってもヘクタールあたり五百ルーブリはするからさ」「じゃあなぜ誰もそんな値をつけなかったんだ?」「あの男が商人仲間と談合していたからさ。裏金で手を引かせたんだよ」。二人が家に着くと、リャビーニンが二人を玄関ホールで出迎えた。「金は持ってきたか?」とオブロンスキーが訊くと、リャビーニンは「金は持ってきているが値引きをしてほしい」と言う。この言葉を聞きつけたリョーヴィンは、「というと、きみたちの交渉はすんでいるのかね、それともまだなのかね? すんでいるなら値段の駆け引きなんかありようがないし、もしすんでいないのなら、ぼくがあの森を買おう」と言った。リャビーニンの顔から笑いがさっと消えた。かわりに現れたのは、鷹のような、獰猛で残忍な表情だった。大きな古い財布をすばやい手つきで取り出し、「どうぞ、これで森をいただきましょう」と言った。1時間後に商人は契約書をポケットに入れて、農用馬車に乗って家路についた。
17章

森の取引は終わり、お金はきちんとオブロンスキーの懐に納まり、猟の成果は上々だったし、彼はこの上もなく上機嫌だった。一方、リョーヴィンは機嫌が悪かった。キティが嫁に行かなかったという知らせのもたらした酔いが、少しずつ全身に回りはじめていた。キティはまだ独り身でしかも病んでいる。愛した男に振られたために病んでいるのだ。リョーヴィンが「ところでヴロンスキーは今どこにいるんだ?」とたずねると、オブロンスキーは、「あの男はペテルブルグだよ。君が去った後じきに立ち去って、それっきり一度もモスクワには来ていない。いいかい、きみに本当のことを言おう」と言い、「きみ自身にだって責任はあるんだぜ。きみはライバルにたじろいでしまったんだろう。でもぼくから見れば、あの時も言ったけれど、どちらの側が有力だったのかわかりはしないんだ。なぜきみはがむしゃらに進めなかったんだい?」と続けた。「もしもあの時、義妹の側に何かこだわりがあったとすれば、それはあいつの外見にまいっていたということだろう。それにあの完全な貴族趣味と将来の社会的地位に魅了されたのは、義妹じゃなくて母親のほうだよ」と言い添えた。「待ってくれ」リョーヴィンはオブロンスキーを制して言った。「貴族趣味とはいったい何なんだ? それは、このぼくを蔑むことができるような、それほどの貴族趣味なのか? きみはヴロンスキーを貴族とみなしているが、ぼくは違う。ぼくが自分を含めて貴族だとみなすのは、最高度の教養を授かり、ちょうどぼくの父や祖父がそうだったように、けっして誰の前にもへつらうことなく、誰をも必要としないで生きてきた、そういう高潔なる先祖を過去の三世代か四世代にわたって明示することのできる者たちだけだよ」。
18章

ヴロンスキーの内面生活はすべて自分の恋愛のことで満たされていたが、外面的な生活は相変わらず社交界および連隊の人間関係や利害というなじみの軌道の上を、坦々と走っていた。彼は自分の恋愛について同僚の誰とも話さなかったし、どんなに乱れた宴会の席でも口をすべらすことはなく、また軽薄な仲間が彼の情事をほのめかそうとするような場合には、ぴしっと黙らせてやった。いずれにせよ彼の恋愛のことは町中に知れ渡っていて、みんなが多かれ少なかれ彼とカレーニン夫人の関係を見抜いていたのだが、多くの若者たちが彼をうらやむ点は、まさにこの恋愛のいちばん難しい部分にあった。すなわち相手の夫カレーニンが高い地位にいる人物であり、それゆえに二人の関係が社交界でも目立ちやすいという点が、羨望の的となっていたのである。ヴロンスキーの母親は、彼の情事を知って、当初は喜んだが、息子がせっかく出世のために重要な地位を提供されながら、カレーニン夫人と会うことのできる連隊にとどまるためにそれを断ったこと、そしてその件で上官たちの不興を買っていることを知り、意見を変えた。長男も弟に不満を持っていた。兄はこの恋愛が、当然気に入られなくてはならぬ人々の不興を買っていることを知り、それで弟の行状を責めていたのである。
19章

クラスノエ・セローの競馬の日、ヴロンスキーは普段より早めに、連隊の将校クラブの食堂へビーフステーキを食べにやってきた。彼は注文したステーキを待つ間、皿の上においたフランスの小説を眺めていた。彼がその本を見ていたのは単に出入りする将校たちとの会話を避けるためで、実は考え事をしていたのだった。彼の頭を占めていたのは、アンナが今日の競馬の後で会おうと約束してくれたことだった。ただもう三日も会っていないうえに、夫も外国から戻ってきたというので、本当に今日アンナに会えるのかどうかの判断がつかなかったし、またどう確かめればいいのかもわからなかったのである。入り口のドアから二人の将校が入ってきて話しかけてきたが、読書を続けていると立ち去った。二人と入れ替わりに、長身ですらりとしたヤーシュヴィン騎兵大尉が部屋に入ってきた。ヤーシュヴィンは賭博好きの道楽者、あらゆる規範を無視するばかりか、不道徳な規範を信奉しているといった男で、連隊ではヴロンスキーの一番の親友であった。唯一この人物にだけは、自分の恋を打ち明けてもいいと思っていた。二人はヴロンスキーが泊っている家に向かった。
20章

ヴロンスキーは、広くてこぎれいなフィンランド風の田舎家を二つに仕切ったところに泊っていた。このキャンプ地でも、ペトリツキーが彼と同居していた。ヴロンスキーがヤーシュヴィンと帰宅したとき、ペトリツキーはまだ寝ていた。ペトリツキーを起こすと、「きみの兄さんが来たぜ」と言った。ヴロンスキーが召使が差し出すフロックコートを着ていると、「どこへ出かけるんだ?」と、ヤーシュヴィンがたずねた。「厩舎へ行くんだ。それからブリャンスキーのところへ回って、馬のかたをつけないと」ヴロンスキーは答えた。ヴロンスキーは実際に、ペテルブルグから十キロのところに住むブリャンスキーの家に馬の代金を届ける約束をしており、そこへも回りたいと思っていた。だが同僚たちはすぐに、彼の行く先はそこでけではないと悟った。出かけようとしているヴロンスキーをペトリツキーが呼び止め、「兄さんがきみに手紙とメモを置いていったぞ」と言って、マットレスの下から取り出し、ヴロンスキーに手渡した。
21章

臨時の厩舎になっている板張りのバラックは、競馬場のすぐ脇に建てられていた。そしてそこに昨日、彼の馬が届けられているはずだった。彼はまだ馬を見ていなかった。この数日、彼は自分で馬に乗ることもせず、調教師に任せきりだったので、自分の馬がどんな体調で運ばれてきて、いまどんな状態でいるのか、さっぱりわからなかったのだ。「フル・フルの調子はどうだい?」「万事順調ですよ」イギリス人の調教師は言った。自分の主な敵となるマホーティンの栗毛馬グラディアートルも、今日運ばれてきてここにいるはずだと知っていたし、自分の馬よりももっと見てみたいと思っていたが、競馬のマナーとして、ほかの馬を見てはいけないばかりか、その馬の様子をたずねるだけでもはしたないまねとされているので、目をそらすようにしてフル・フルの馬房に近寄っていった。フル・フルは中背の馬で、体格に問題がないではなかったが、この牝馬にはそうした欠点を忘れさせるような、とびきりの長所があった。それこそが血統̶̶イギリス人が血統は争えないと言い習わしている、あの血統であった。ヴロンスキーは、馬が良い状態でいることを知って喜びながら馬房を出た。馬車の中で彼は母の手紙と兄のメモを読んだ。何もかもまったく同じことのくり返しだった。母も兄も、彼の心の問題に介入する必要を認めているのだった。そうした介入は彼のうちに、めったに感じることのない憎しみの感情を呼び起こした。自分とアンナを結んでいる愛が、つかの間の恋情ではないことを彼は感じていた。「彼女もおれもすべてを放り捨てて、お互いの愛だけを持って二人きりでどこかへ身を隠すのだ」彼は自分にそう宣言した。
22章

アンナが一人でいることを期待しながら、ヴロンスキーはいつものように人目をはばかって小さな橋を渡る手前で馬車を降り、その先は徒歩で進んだ。そして通りから玄関階段を上がらずに、そのまま庭に入っていった。「ご主人はいらしているか?」彼は庭師にたずねた。「いいえ、まだです。奥さまならご在宅です。どうか玄関からお入りください」「いや、庭から行かせてもらおう」アンナが一人でいるのを確かめた彼は、期待に胸を躍らせて、庭に面したテラスへと近づいて行った。アンナはまったく一人きりでテラスに坐り、散歩に行ったまま雨に降られた息子の帰りを待っているところだった。「来てしまってごめん。でも一日中会わないではいられなかったんだ」「何をあやまっていらっしゃるの? わたし本当に嬉しいわ」「何を考えていたの?」「いつもひとつのことばかり」「でもまだ、ぼくが入ってきたとき何を考えていたのか、教えてもらってないね。どうか話して!」アンナは返事をせぬまま、うつむき加減になると、上目づかいに問いかけるように相手を見つめた。「本当に何かあったんだね。ああ、きみが一人で悩みごとを抱えているのを知った以上、ぼくは一分だって平静ではいられない。お願いだ、話してほしい!」「言うの?」「うん、うん、うん……」「わたし赤ちゃんができたの」アンナは静かに、ゆっくり言った。「わかった。ぼくもきみも二人の関係を遊びだなんて思ってこなかったし、いまこそぼくたちの運命が定まったんだ。もう終わらせなくてはいけないね。ぼくたちを取り巻いているこの嘘を」「終わらせるって? いったいどうして終わらせるの、アレクセイ?」「ご主人と別れて、ぼくたちの人生をひとつにするんだ」
23章

今回のようにきっぱりと言い切ったのは初めてだが、すでに何度かヴロンスキーはアンナに自分のおかれた状況の検討を促そうとしたことがあって、そのたびに、いま彼女が彼の挑戦をあしらおうとしたのと同じ、上っ面で軽薄な理屈にぶつかってきたのだった。「ご主人にすべてを話して、別れるんだ」「なるほどね。では仮にわたしがそうしたとして、その結果どうなると思うの? あの人はきっとこう言うわ。『わたしは君に対して、これがいかなる結果をもたらすか、警告していたはずだ。きみはわたしの言うことを聞こうとしなかった。今さらわたしは自分の名を辱めるようなまねを許すわけにはいかない……』と。わたしを自由の身にすることはできないし、自分の力の及ぶ範囲でスキャンダルを防ぐ策を講じる、と言うでしょう。あの人は人間ではなく機械なの。しかも怒ると獰猛な機械になるのよ」「でもアンナ、やっぱりご主人に言わなくてはすまないよ。あの上で相手がどうするかを見て対応すればいいんだ」「というと、駆け落ちするの?」「駆け落ちしたっていいじゃないか」「そうね、駆け落ちして、わたしはあなたの情婦になればいいのね? あなたの情婦になって、何もかも失うのだわ……」彼女は「息子を失う」と言いたかったのだが、その言葉を発することができなかったのだ。彼女は戻ってきた息子の声を聞きつけると、唐突に立ち上がり、すばやい動作で美しい手をあげると、ヴロンスキーの頭をつかみ、まじまじと見つめてから、笑みに唇をほころばせたまま顔を近寄せ、すばやく口と両目にキスをしてから突き放した。そのまま去ろうとした彼女をヴロンスキーが呼び止めた。「いつ?」「今日、一時に」そうささやくとアンナは息子を迎えるために歩き出した。ヴロンスキーは時計を覗くと、急いで馬車を走らせた。
24章

カレーニン家のバルコニーで時計を見たときのヴロンスキーは、ひどくどぎまぎして頭の中がいろんな考えで一杯だったので、文字盤の針を見ていながら何時になったのかということが理解できていなかった。彼は居眠りしている御者を起こし馬車に飛び乗り、ブリャンスキーのところへ行けと命じた。そして7キロほど進んだところで、はっとわれに返って時計を覗き、すでに5時半になっている、これは遅刻だと悟ったのだった。ブリャンスキーのところへ着いた彼は、わずか5分いただけでとんぼ返りした。自宅に立ち寄り、着替えを終えると、ヴロンスキーはバラックの厩舎へ行けと御者に命じた。ドアの開いた馬房を覗くとフル・フルはもう鞍をつけられていて、これから引き出そうというところだった。「遅刻じゃなかったか?」「オーライ、オーライ! 万事順調ですよ。心配しないでください」コード(調教師)は言った。観覧席の手前あたりにいる上流階級の一団を、ヴロンスキーはわざと避けた。そこにはアンナやベッツィ夫人などが見分けられたのだが、気を散らすまいとあえて近寄らなかった。それでも兄のアレクサンドルや親友のオブロンスキーが声をかけてきて、レースを前にしたヴロンスキーの心は乱された。騎手たちは馬番と発走枠を決めるくじ引きのために観覧席へと呼ばれた。ヴロンスキーは7番の札が当たった。「騎乗!」の声が聞こえ、ヴロンスキーはゆったりとした足取りで、自分の馬にむかって歩いていった。「あせってはだめです」調教師のコードが言った。「それから、ひとつだけ覚えておいてください。障害の手前では手綱を締めてもいけませんし緩めてもいけません。馬の好きなようにさせてやることです」「わかったよ」「もしうまくいったら、最初から先頭を走ってください。でも仮に二番手以下になっても、最後の瞬間まであきらめないことです」。
アンナとヴロンスキーのパートと、
リョーヴィンとキティのパートがあるとすれば、
アンナとヴロンスキーのパートが「表」で、
リョーヴィンとキティのパートが「裏」という印象をもたれやすい。
とりわけ、リョーヴィンの田舎暮らしを描いた箇所は、
地味だし、変化に乏しく、農業問題の話なども出てきて、
「面白くない」という意見も多いそうだ。
事実、この作品をロシア文学の白眉とみなしているウラジーミル・ナボコフでさえ、
リョーヴィンが農業経営をめぐって展開する議論は外国の読者や後世の読者には現実感がなく、この問題に多くの紙幅を割いたのは芸術的見地から見れば誤りだったと指摘している(『ロシア文学講義』)。
だが、私は、このリョーヴィンの田舎暮らしを描いた箇所は嫌いではない。
農業問題の話は少々退屈だが、
労働を通じた農民との共同生活や自然との交わりには深く感動する。
たとえば、今回読んだ12章の最後に描かれている自然描写は美しく、
「これぞトルストイ!」と思わせる。
12章から17章までは、リョーヴィンを中心とした展開だが、
18章からは、ヴロンスキーを中心とした展開となる。
ヴロンスキーの恋愛のことは町中に知れ渡っていて、
みんなが彼とアンナの関係を見抜いていたのだが、
アンナの夫カレーニンが高い地位にいる人物であり、
それゆえに二人の関係が社交界でも目立ちやすいという点が、
多くの若者たちの羨望の的となっていた。
ヴロンスキーの母親も、彼の情事を知って、当初は喜んだが、
息子がせっかく出世のために重要な地位を提供されながら、
アンナと会うことのできる連隊にとどまるためにそれを断ったこと、
そしてその件で上官たちの不興を買っていることを知り、意見を変える。
ヴロンスキーの兄も、この恋愛が不興を買っていることを知り、
それで弟の行状を責めるようになる。
そんな中、アンナの妊娠が発覚する。(22章)
「わたし赤ちゃんができたの」アンナは静かに、ゆっくり言った。(468頁)
この一行は、実に恐い。(笑)
ヴロンスキーは一瞬青ざめ、うなだれるが、
「ご主人と別れて、ぼくたちの人生をひとつにするんだ」
「駆け落ちしたっていいじゃないか」
とまで言い放つ。
そんな気持ちを抱いて、ヴロンスキーは騎手として競馬に挑もうとしている。
競馬の結果は?
妊娠したアンナとの関係は?
次回は、第2部25章~35章を読むが、(第1巻読了)
以降の展開が楽しみでならない。
