
一人読書会『アンナ・カレーニナ』の2回目は、
第1部の13章~23章を読んでみたいと思う。
13章

夕食のあと夜会が始まるまで、キティは合戦の前の若武者のような気持ちを味わっていた。あの二人が初めて出会う今夜こそが、自分の運命にとって決定的な時となる̶̶そう彼女は感じていた。リョーヴィンとには、子供時代の思い出、亡き兄の友情の思い出などがあり、彼が自分を愛してくれていることを実感できた。ところがヴロンスキーとの思い出の中には、なにかしらきまりの悪いものが混じっており、嘘が介在しているかのように感じられた。しかしいったんヴロンスキーとの将来のことを思い浮かべると、目の前にすばらしく幸福な展望が立ち現れた。それに引き換え、リョーヴィンとの将来はあいまいな印象しかもたらさなかった。7時半にキティが客間に下りていくと、リョーヴィンが来たことを召使が告げた。リョーヴィンは彼女が一人でいるところをつかまえ、プロポーズするために早めに訪れたのだ。「ぼくの妻になっていただきたい!」彼はそう言った。キティは味わったのは喜びだった。その胸は幸福感に満ち溢れていた。しかし、それは一瞬しか続かなかった。彼女はヴロンスキーを思い出した。「それはできません……わたしを許してください……」。「それが当然でしょう」彼女を見ぬままにリョーヴィンは言った。彼は一礼して出て行こうとした。
14章

だがちょうどこのとき、公爵夫人が部屋に入ってきた。リョーヴィンは彼女に一礼したまま口をきかなかった。キティは眼を伏せたまま黙っている。「よかった、断ったんだわ」そう思うと夫人の顔にいつもの笑みが輝いた。5分後にキティの女友達のノルドストン伯爵夫人がやってきた。彼女はリョーヴィンを嫌っていたし、リョーヴィンも彼女を嫌っていた。リョーヴィンに会うたびに彼女は彼をからかった。それを適当にあしらい、帰ろうとしたときに、公爵夫人が話しかけてきて帰りそびれてしまった。そのとき、ヴロンスキーが入ってきた。輝きを増したキティの眼差しを見て、彼女がこの男を愛しているのをリョーヴィンは理解した。ヴロンスキーは小柄でがっしりとした体格のブリュネットで、善良そうで美しい、きわめて落ち着いて毅然とした顔立ちをしていた。公爵夫人が、ヴロンスキーをリョーヴィンに紹介した。「あなたはいつも田舎に? きっと冬は退屈でしょう?」彼はたずねた。「退屈ではありません、仕事があれば。それに一人きりでいるのも退屈ではありません」リョーヴィンはぶっきらぼうに答えた。皆の会話はこっくりさんや霊の話題に移った。それらを信じていないリョーヴィンは今度こそ帰ろうとするが、そこへこの家の主人である老公爵が入ってきてリョーヴィンに声をかけた。それでもリョーヴィンは老公爵が自分に背を向けた隙に目立たぬように部屋を出た。
15章

夜会が終わったときキティがリョーヴィンとの会話のことを母親に伝えた。キティは、自分が当然の振舞いをしたということに関しては、疑いはなかった。しかし、長いこと寝付けなかった。階下では、かわいい娘をめぐって両親の間で揉め事が起こっていた。夫人が、リョーヴィンのプロポーズとキティの拒絶のことを夫に話すつもりはなかったにもかかわらず、ついついヴロンスキーの件はどうやらもう本決まりで、相手の母親が到着し次第、決着がつきそうだとほのめかしてしまったからだった。「リョーヴィン君のほうが人間として千倍も優れている。そこへいくとあっちのほうは、ただのペテルブルグのしゃれ者に過ぎん。ああいう連中は機械でこしらえられるようなもので、みんな同じ規格、そろってガラクタばかりさ。なに、たとえあいつが皇室の血筋だったとしても、わが娘には無用の長物だ!」公爵は怒りを込めてこう叫んだ。「まったく、カーチェンカ(キティ)を不幸にすることになるぞ、もしあの子までが本気でそのつもりになってしまったらな……」「どうしてそう思われるの?」「思うんじゃない。わかるんだ。われわれ男にはそれを見抜く目がある。女にはない。本気で結婚の意志がある者は、わたしにはわかる。リョーヴィン君がそうだ。同じように、あのお調子者みたいに、ただ楽しむことだけ考えている見栄っ張りもすぐわかるのさ」「でも、それはあなたの思い込みでは……」「だが後になって思い当っても、もはや手遅れだぞ。ダーシェンカ(ドリー)のようにな」。
16章

ヴロンスキーは家庭生活というものを一度も経験していなかった。母親は若いころ社交界の花形で、結婚していたときにも、とりわけ結婚生活が終わった後でも、たくさんの恋愛をして、それが社交界中に知れ渡っていた。父親のことはほとんど記憶していないまま、彼はペテルブルグの士官学校で教育を受けたのであった。華やかな青年将校となって卒業すると、贅沢で放埓なペテルブルグ暮らしの後、モスクワに来てはじめて彼は、社交界の愛らしくも穢れなき乙女との接近の喜びを味わい、相手の愛を勝ち得たのだった。自分では知らなかったが、彼がキティを相手に行っている振舞いにはれっきとした名前があった。それは結婚の意志もないのに良家の娘をたぶらかす誘惑行為であり、彼のような輝かしい青年たちの間で頻繁に行われている、けしからぬ振舞いのひとつだった。ところが彼は自分がはじめてそうした楽しみを発見したような気になって、その発見を満喫していたのであった。彼は一度として、結婚を現実の可能性として考えたことはなかった。家庭生活を好まないばかりか、家族というもの、とりわけ夫という存在を、自分の属する独身社会に共通の見解に準じて、何か異質で、敵対的で、なにより滑稽な存在とみなしていた。だが、自分とキティの間に存在するひそかな心の結びつきが一晩でこれほど強まったからには、何かの対応をする必要があると感じたのであった。しかしどんな対応が可能であり、また必要であるのかは、彼には思いつかなかった。
17章

翌朝11時、ヴロンスキーが母親を出迎えにペテルブルグ線の駅に出向くと、真っ先に出くわしたのがオブロンスキーであった。同じ汽車で来る妹(アンナ・カレーニナ)を迎えに来たのである。「ところできみは昨日ぼくの友人のリョーヴィンと会ったかい」「もちろん。だがあの人はなぜかじきに引き上げてしまったよ」「あいつは善いやつだ。そう思うだろう?」「なんというか、どうしてか知らないが、モスクワの人間は誰も彼も、なんだかきついところがあるね」「いや、リョーヴィンについてのきみの評価は間違っているよ。あれはとても神経質な奴で、確かに時には不愉快なこともあるけれど、そのかわり時にはじつにいい奴になるんだよ。本当に誠実な、真っ正直な奴で、黄金の心の持ち主さ。ただ、昨日は特別な理由があったんだ。つまりめちゃくちゃ幸せになるか、それともめちゃくちゃ不幸になるかという瀬戸際だったのさ」「ひょっとして、昨日彼はきみの義妹さんにプロポーズでもしたのか?」「かもしれない。なんだかぼくは昨日そんな気がしたんだ。そこで、もしも彼が早く帰って、しかも不機嫌だったとしたら、つまりは……。彼はもう前から夢中になっていたから、ぼくはとても気の毒に思うんだ」「まあたしかに、つらい立場だな! これが商売女だったら金が足りなかったということでけりがつくが、この場合は自分の名誉がかかっているからな。でも、汽車が着いたね」
18章

客車に入っていったヴロンスキーは、客室の入り口で、出てきた婦人に道を譲るために立ち止まった。社交界の人間の身についた感覚で、彼はその婦人の外見を一目見ただけで、相手が最上流の階級に属する女性であると判断した。彼はひとこと挨拶をして婦人専用席に入ろうとしたが、しかしどうしてももう一度その女性に目をやりたくなった。相手が際立った美人だったからでもなければ、全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなく、相手が自分の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別に優しく暖かいものが感じられたからであった。彼が振り返ると、相手も同じくこちらを振り向いた。ヴロンスキーは婦人専用席に入ると、「表に兄がいたらこちらへよこしてね」という先程の婦人の声が聞こえた。しばらくすると、その婦人が再びコンパートメントに入ってきた。「いかが、お兄さまは見つかったの?」ヴロンスキーの母は女性に向かって言った。ヴロンスキーは今ようやく相手がカレーニン夫人だということに思い当った。「お兄さまは来ていらっしゃいますよ」ヴロンスキーは立ち上がって言った。オブロンスキーがやってくると、カレーニン夫人は(ヴロンスキーをハッとさせるほど大胆な、しかも優雅なしぐさで)兄の首を左手でつかみ、ぐいと手前に引き寄せると、強くキスしたのだった。カレーニン夫人は振り返り、老伯爵夫人にも礼を言いキスをした。そして、ヴロンスキーに片手を差し出した。彼が差し出された小さな手を握ると、彼女はこちらの手を力強く握り返し、強く大胆に振ってみせたので、彼にはそのことが何か格別嬉しかった。かなり豊満な体を不思議なほど軽やかに運ぶすばやい足取りで、彼女は出て行った。彼らが客車を出たとき、急にあわてた顔の人間が何人か脇を駆け抜けていった。駅長まで一緒に駆けていく。汽車を降りた人たちも駆け足で引き返してくる。オブロンスキーと妹アンナも戻ってきた。警備員が一人、後退する列車に轢かれてしまったのだ。「無残な死に方だなあ! 真っ二つだったという話だ」どこかの紳士が通りすがりに言った。カレーニン夫人は馬車に乗り込んだが、オブロンスキーが驚いたことに、妹は唇を震わせ、必死に涙を抑えている。「どうしたんだ、アンナ」彼が訊くと、「悪い前兆だわ」彼女は言った。
19章

アンナが入っていったとき、ドリーは今から父親そっくりの顔をした金髪の男の子と一緒に客間に坐って、子供がフランス語の朗読の練習をするのを聞いてやっていた。ドリーは悲しみに打ちひしがれ、すっかりまいっていた。アンナを見ると、ドリーは立ち上がり、義妹を抱いた。「もう着いたのね」「ドリーさん、会えてとっても嬉しいわ!」「わたしもよ」子供たちに会った後、彼女たちは二人きりになって客間に腰を下ろした。「ドリーさん、兄から聞いたわ」ドリーは冷ややかにアンナを見返した。わざとらしい同情の言葉が続くものと思ったのだ。しかしアンナはそんなことはひとことも言わなかった。「わたしはただ義姉さんがお気の毒に思えて、心からお気の毒に思えてたまらないの!」そう言って彼女は力強い小さな手で義姉の手を握った。「ドリーさん、兄からは聞いたけれど、わたし義姉さんからもちゃんと聞きたいの。全部話して」。アンナはドリーの話を聞いた後、「わたしがいちばん感じたのは、二つのことで兄が苦しんでいることよ。ひとつは子供たちの手前恥ずかしいことをしたという思い、もうひとつは、兄があなたを愛しているということよ……世界でいちばん愛していながら、そのあなたを傷つけ、取り返しのつかないことをしてしまったという思いに苦しんでいるの」と言った。「あの人と暮らすのはもうわたしには苦痛なの。なぜなら昔のあの人への愛を大事に思っているからよ」とドリーは答えた。アンナが、「義姉さんの心の中にまだいくらかでも兄への愛情が残っているなら、許してあげたら!」と言うと、ドリーは、「でももしこういう浮気がくりかえされたら? あなたなら許す?」と訊き返した。アンナが、「そうね、できる、できるわ、できるのよ。ええ、わたしなら許すでしょう。そういう立場にはなりたくはないけれど、でも自分だったら許すでしょう。しかも、まるで最初から何もなかったかのように、すっかり許してやるでしょうね」と言うと、ドリーは、「それはそうよね。そうでなかったら許すことにならないもの。許すなら完全に、すっかり許してやるのよ」と言って、アンナを抱きしめた。「優しい人、いらしてくれてありがとう。おかげで気持ちが楽に、うんと楽になったわ」。
20章

この一日をアンナはオブロンスキー家で過ごし、客が来ても面会しなかった。アンナは午前中ずっとドリーと子供たちと一緒に過ごした。ただ兄には食事は必ず家でするようにと伝言を送っておいた。オブロンスキーは家で夕食をとった。妻は彼を「あなた」と呼び、夫婦の会話にも別れる切れるという話は出なかったので、オブロンスキーは話し合いと和解の可能性があるのを感じ取った。夕食の直後にキティが訪れた。アンナは一目で彼女が気に入り、キティのほうもそのことに気づいた。アンナは社交界の貴婦人にも、8歳の男の子を持つ母親にも見えなかった。しなやかな身のこなし、すがすがしい印象、そして彼女の顔に常にそなわっていて微笑にもまなざしにもあふれ出る活気からして、むしろ20歳の娘のように見えた。「次の舞踏会にはおいでになります?」キティはたずねた。「あなたがなぜわたしを舞踏会に誘いたがっているのかわかるわ。きっと次の舞踏会でご自分にとって何かとってもいいことがあると予想されて、みんなにその場にいてほしい、立ち会ってほしいと思っていらっしゃるのね」「どうしておわかりになるのですか? その通りですわ」「わたしだって少しは聞いていますよ。兄が話してくれましたから。おめでとう、とってもいいお相手だと思うわ」アンナは続けた。「わたし、駅でヴロンスキーさんにお目にかかりましたのよ」
21章

大人たちのお茶の時間に、ドリーは自分の部屋から出てきた。「あなた、お二階では寒いんじゃないかと思うの」ドリーがアンナに向かって言った。「いやもうどうか、わたしの心配はなさらないで。わたしはいつどんなところだって平気で眠れるのよ。モルモットみたいにね」アンナは返事をしながら、夫婦の仲直りができたかどうかを知ろうと、ドリーの顔を覗き込んだ。「何の話かな?」書斎から出てきたオブロンスキーが妻にたずねた。その口調からすぐにキティもアンナも和解が成立したことを理解した。9時半になるころ、この楽しく和やかなオブロンスキー家の夕べの団欒は、一見ごく単純な出来事によって破られた。アンナが皆に息子セリョージャの写真をみせようと、アルバムを取りに二階の部屋に行こうとしたとき、玄関のブザーが鳴ったのだ。「いったい誰かしら?」ドリーが言った。アンナが正面階段の脇を通り抜けようとすると、召使が来訪者を取次ぎに駆け上がって来るところで、客そのものはランプのもとに立っていた。下に目をやったアンナは直ちにそれがヴロンスキーだと気づいたが、そのとき突然胸の中に嬉しさや恐さの混じった不思議な感情がうごめくのを覚えたのだった。彼女が階段の真ん中に差し掛かった瞬間、彼はふと目を上げて彼女に気づいた。するとその表情には、何か恥じらいと当惑のようなものが浮かんだのだった。アンナがアルバムを持って戻ってくると、客はすでに姿を消していた。ヴロンスキーはモスクワを訪問中のある名士のために明日開かれることになっている晩餐会のことを確かめに来たのだという。そのことには何の異常も不思議もない。しかしそれが全員に奇妙な印象をもたらした。誰よりも奇妙で不吉な印象を覚えたのがアンナであった。
22章

キティと母が足を踏み入れたとき、舞踏会はちょうど始まったばかりだった。ピンクのアンダー・ドレスの上に凝ったチュール・レースの上ものをまとって会場に出たキティの姿に誰もが見とれていた。広間に入ると、ダンスの申し込みを待つ女性たちが群れているのが見えたが、まだそこへ行き着かないうちに、キティはワルツに誘われた。しかも相手は最高のパートナー、第一級の踊り手で有名な舞踏会のマスター役、エゴール・コルスンスキーであった。コルスンスキーと踊りながら、キティは相手の肩越しに広間を観察していた。広間の片隅に、上流社会の花形というべき人たちが集まっている場所があり、そこにオブロンスキーとアンナがいるのを見つけた。彼(ヴロンスキー)もまたそこにいた。「さて、もう一曲いかがですか?」というコルスンスキーの誘いを断り、コルスンスキーにエスコートされてアンナのいるところへ行ったキティは、黒いドレスをまとったアンナにすっかり魅了される。コルスンスキーがアンナに「ワルツをおひとつ」と誘ったとき、ヴロンスキーが近づいてきた。ヴロンスキーの会釈に答礼もせずに、アンナはコルスンスキーの肩に手をかけた。「なぜアンナさんは彼に不満なのかしら?」アンナがわざとヴロンスキーの挨拶に応えなかったのに気づいて、キティは考えた。キティはヴロンスキーがワルツに誘ってくれるのを期待していたのだが、彼が誘おうとしなかったので、びっくりした目で振り向いた。このときの自分が愛に満ちた目で相手を見つめていたこと、そして彼がその眼差しに応えなかったということが、この後何年たってからも狂おしいまでに恥ずかしい思いでとして、彼女の心を苛んだのだった。
23章

ヴロンスキーとキティはワルツを何曲か踊った。ワルツの後キティが母親のもとへやってきてノルドストン伯爵夫人と二言三言話したところで、すぐにヴロンスキーが現れ、彼女を最初のカドリールに誘った。カドリールの時には何も大事な話は出ず、会話は断片的なものだった。だが、そもそもキティはカドリールの時にはそれ以上のことは期待していなかった。彼女がドキドキしながら待っていたのはマズルカだった。マズルカのときにこそ、きっとすべてが決まるはずだ̶̶そう感じていたのである。どうしても断りきれなかった退屈な青年の一人と最後のカドリールを踊っているとき、彼女はたまたまヴロンスキーとアンナの組と向い合せになった。このとき図らずも意外なアンナを発見した。成功にときめいている表情を、アンナの顔に見出したのである。彼女はアンナが、みずからかき立てた賞賛という美酒に酔いしれているのを見て取った。「お目当ては誰かしら?」キティは自問した。「みんなかしら、それとも一人の方?」キティは次第に胸の詰まるような不安を覚えてきた。「いいえ、アンナさんを酔わせているのはみんなの視線じゃなくて、一人の方の賞賛だわ。そしてその一人とは? まさか、あの人?」その人物に話しかけられるたびに、アンナの目には楽しそうな輝きがともり、幸福の笑みが赤い唇をゆがめるのだった。「でも、あの人のほうは?」彼のほうに目をやったキティは思わず愕然とした。アンナの顔が鏡のようにはっきりと映しだしていた当のそのものを、キティは彼のうちに見出したのである。舞踏会も世界も、何もかもすべてがキティの胸の中ですっかり霧に包まれてしまった。いよいよマズルカの開始が迫って、キティは絶望と恐怖の時に直面することになった。ヴロンスキーが誘ってこなかったのだ。ヴロンスキーが誘ってくれると思って、5人ものパートナーを断った今となっては、彼女にマズルカを踊るすべがなくなっていた。キティが隠れるように小さいほうの広間の奥に入り込んでいると、ノルドストン伯爵夫人が声をかけてきた。「あなたマズルカ踊らないの?」「踊らない、踊らないわ」キティは涙で声を震わせて答えた。ノルドストン夫人は言った。「彼(ヴロンスキー)ったら、わたしの目の前で彼女(アンナ)をマズルカに誘ったのよ。彼女は答えたわ。『あら、あなたはシチェルバツキー公爵のお嬢さまと踊られるんじゃないの?』って」「ああ、わたしもうどうでもいい!」キティは答えた。ノルドストン伯爵夫人は一緒にマズルカを踊ることになっているコルスンスキーを見つけ出すと、彼にキティを誘ってくれと頼み込んだ。ダンス中にキティはヴロンスキーとアンナの組を観察していたが、見れば見るほど自分の不幸が決まったことを確信せずにはいられなかった。この満員の広間のただ中で、彼らはすっかり二人きりの気分に浸っているように見えた。アンナがにっこりと微笑むと、その笑みが彼にも伝わり、彼女が考え込むと、彼の表情も深刻になった。シンプルな黒のドレスをまとった彼女は魅力的だった。何から何まで魅力的だった。ただし彼女の魅力のうちには、なにかしら恐ろしく、残忍なものが含まれていた。
18章で、ついにアンナ・カレーニナが登場した。
登場したばかりでなく、運命の人ヴロンスキーとも出逢ってしまう。
車掌の後から客車に入っていったヴロンスキーは、客室の入り口で、出てきた婦人に道を譲るために立ち止まった。社交界の人間の身についた感覚で、彼はその婦人の外見を一目見ただけで、相手が最上流の階級に属する女性であると判断していた。彼はひとこと挨拶をして婦人専用席に入ろうとしたが、しかしどうしてももう一度その女性に目をやりたくなった。相手が際立った美人だったからでもなければ、全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなく、相手が自分の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別に優しく暖かいものが感じられたからであった。彼が振り返ると、相手も同じくこちらを振り向いた。(156~157頁)
この出逢いの場面の描写は本当に素晴らしい。
まつげが濃いせいで黒にも見えるきらきらしたグレイの目が、まるで彼が誰かを見定めようとしているかのように、親しげにまじまじと彼の顔にすえられたかと思うと、すぐさま、いかにも誰かを探しているかのように、近寄ってくる人群れのほうへ移っていった。そうしてつかの間目を交わしただけで、ヴロンスキーは、抑制された生気が彼女の顔に浮かび、きらきらしたその目と、赤い唇をゆがめるかすかな笑みとの間に漂うのを見て取った。あたかも何か過剰なるものが彼女の存在に満ち満ちて、ついにはその意志とはかかわりなく、月の光の中に、あるいは微笑みの中に現れ出たかのようであった。彼女は故意に目の光を消したが、しかし本人の意思に逆らって、その光はかすかな微笑みのうちに宿っていたのである。(157頁)
この直後、駅で人身事故が起きる。
警備員が一人、後退する列車に轢かれてしまったのだ。
「無残な死に方だなあ! 真っ二つだったという話だ」どこかの紳士が通りすがりに言う。
アンナは馬車に乗り込むが、彼女は唇を震わせ、必死に涙を抑えている。
「どうしたんだ、アンナ」兄が訊くと、
「悪い前兆だわ」と、彼女は答える。
この小説の、そして、この物語の結末を予感させるような展開に、
読者は否応なく引きずり込まれる。
実に巧い。
21章でも、アンナとヴロンスキーがすれ違う。
晩の九時半に、友人が計画されている晩餐会の打ち合わせに訪れたが、そのまま家に上がらずに帰った̶̶そのことには何の異常も不思議もない。しかしそれが全員に奇妙な印象をもたらした。誰よりも奇妙で不吉な印象を覚えたのがアンナであった。(194頁)
アンナは、
18章で「悪い前兆」の予感を抱き、
21章では「不吉な印象」を覚える。
アンナがヴロンスキーに近づけば近づくほど、
何か善からぬことが起きそうな予感に脅かされる。
それでも、二人は、どうしようもなく惹かれ合っていく。
その様子が、なんと、キティの目を通して描かれていく。
実に残酷だ。
続きが楽しみでならない。
