
『カラマーゾフの兄弟』読了計画の第26回は、
第4部、第12編「誤審」の、

第1節「運命の日」
第2節「危険な証人たち」
第3節「医学鑑定とくるみ一袋」
第4節「幸運の女神がミーチャに微笑みかける」
を読みたいと思う。

第4部、第12編、第1節「運命の日」

【要約】
ドミートリー・カラマーゾフに対する公判が始まった。この事件はロシア全土に知れ渡っており、ロシア各地から、はたまたモスクワやペテルブルグからも大勢の客が続々と乗り込んできた。目立って多かったのがご婦人方で、大多数の貴婦人たちはミーチャの味方で、彼の無罪を信じていた。一方、男性陣はこぞって反ミーチャ・ムードに支配されていた。午前10時、裁判長、陪席判事、名誉治安判事が入廷し、検事たちもただちに入廷した。12人からなる陪審員の構成は、町の役人4人、商人2人、農民と町民が6人。裁判長が審理を開始することを宣言し、ミーチャが姿を現した。彼は恐ろしく洒落た身なりをし、新調したばかりの真新しいフロックコートを着込んで出廷した。著名な弁護士フェチュコーヴィチも入廷し、法廷での審理のために呼び出された人物たち(証人・鑑定人)のリストが読み上げられた。この証人の内、4人が出廷していなかった。パリに滞在中で、予審での証言を済ませていたミウーソフ、病気で欠席したホフラコーワ夫人と地主のマクシーモフ、急死したスメルジャコフの4人であるが、最後にスメルジャコフの名前が読み上げられると、警察による死亡証明書が提出された。スメルジャコフについて報告がなされると、ミーチャはいきなり立ち上がり、法廷全体に向かって「犬にふさわしい犬死だぜ!」と叫んだ。この後、書記によって起訴状が読み上げられ、裁判長が、「被告は、罪を認めますか?」と質問した。ミーチャはすかさず席から立ち上がり、「酒と女道楽の罪は認めます。怠惰と乱暴狼藉の罪も認めます。しかし、ぼくの憎き敵であり父である老人の死に、罪はありません。それに父の金を強奪したとされる点も、まったくの無実です。ドミートリー・カラマーゾフはたとえ卑怯者であっても、泥棒じゃありませんから!」と叫んだ。
第4部、第12編、第2節「危険な証人たち」

【要約】
裁判長が事件の審理にとりかかるように命令し、すべての証人が入廷させられた。最初に呼び出されたのは、検察側の証人だった。この事件の特徴は、裁判のごく初期の段階から、弁護側のもつ材料に比べ、有罪を主張する検察側の材料が持っていた異様な迫力であった。この事件が、なんら議論の余地のない、いささかも疑問もはさむ余地のない、被告は最終的に有罪に決まっているということを誰もが理解していた。奥さん連中もまた、被告の無実が証明されることを願っていながら、同時に、被告が完全に有罪であることを信じて疑わなかった。一方、男性陣が興味を持ったのは、「こんな一縷の望みもない負けいくさで、フェチュコーヴィチのような天才といえども、いったいどんな手が打てるのか」ということだった。ところがフェチュコーヴィチは検察側の証人のすべてを、要所要所でうまく「罠にかけ」、可能な限りまごつかせ、道徳的な評判を傷つけ、そうすることで彼らの証言そのものを貶(おとし)めたのである。グリゴーリー、ラキーチン、スネギリョフ、トリフォーン、二人のポーランド人の陳述も(フェチュコーヴィチの罠にかかり)不首尾に終わった。これら危険な証人たちのほぼ全員を、道義的にあばき、鼻を明かして引き下がらせたのだった。
第4部、第12編、第3節「医学鑑定とくるみ一袋」

【要約】
鑑定人として出廷したのは、モスクワからカテリーナが招いた著名な医学博士、この町にいるゲルツェンシトゥーベ博士、若いワルヴィンスキー医師の3人だった。最初に尋問を受けたのはゲルツェンシトゥーベ博士だった。70歳になるこの老医師をこの町の誰もが大事にし、尊敬していたが、モスクワからやってきた医学博士がこの町に滞在して2、3日経った頃、ゲルツェンシトゥーベ博士の才能について、いちじるしく侮辱的な言辞を吐いたことがあった。この町の何人かが、モスクワからやってきた著名な医学博士の(高額)診察を受けたのだが、「いったいだれです? こんな下手くそな治療、やらかしたのは、ゲルツェンシトゥーベですか? は、は!」と侮辱したというのだ。ゲルツェンシトゥーベ博士は、「被告の知的能力が正常でないことは、おのずと診断されることです」と述べた。次に尋問を受けたモスクワから来た医学博士も、被告の精神状態は異常であり、「非常に高いレベルで」そうとみられると主張した。この二人に対し、最後に呼び出されたワルヴィンスキー医師は、「被告は今も昔も完全に正常な状態にある」と、思いがけない結論を述べ、「自分の正面をまっすぐ見つめながら入廷した彼は、まさしくそれによってその瞬間、自分の頭がまったく正常な状態にあることを証明したのです」と締めくくった。すると、ミーチャは、「おみごと、やぶ医者!」と叫び、取り押さえられた。新たに証人として呼び出されたゲルツェンシトゥーベ博士は、まったく思いがけず、ミーチャに有利な役回りを演じることになった。カラマーゾフ一家を昔から知る古老の医師は、ミーチャがまだ小さい子どもの頃、父親に裏庭に放り出され、裸足のまま、地面を走り回っていたのを可哀想に思い、くるみを一袋持って行ってあげたことを語り、23年後、若者に育ったミーチャが、くるみ一袋のお礼を言うためだけにやってきた逸話を紹介した。この小さな逸話は、傍聴人にある好ましい印象をもたらしたのだった。
第4部、第12編、第4節「幸運の女神がミーチャに微笑みかける」

【要約】
アリョーシャは、宣誓なしで呼び出された。アリョーシャの証言は、謙虚で控えめだった。兄の人となりについては、乱暴で、情熱にかられやすい性格かもしれないが、同時に高潔で、誇り高く、寛大で、求められれば自分を犠牲にすることができる人であると述べた。兄が金を奪う目的で父親を殺害したという仮説は、憤然として否定した。検事の「いったいどのようなデータにもとづいて、そういう考え方をするようになったのか?」という質問に、アリョーシャは、「ぼくが兄を信じているからです。それよりほかの証拠はありません」と答え、傍聴人をやや幻滅させた。しかし、フェチュコーヴィチの質問が始まったとき、アリョーシャは、突然、「自分でもすっかり忘れていたことですが、あることをひとつ思い出しました」と言って、あの夜、修道院へ帰る途中、一本の樹のそばでミーチャと最後に会ったときのことを熱心に話し始めた。ミーチャは自分の胸を、「胸の上のほうを」叩きながら、おれには自分の名誉を回復する方法がある。その方法はここに、自分の胸にあると繰り返して言った。「そのとき、兄が自分の胸を叩いたのは、自分の良心のことを言っていると思いました」アリョーシャは話を続けた。「しかし、兄はそのとき、自分の胸にある何かを指し示すような仕草をしていたのです。兄はもっと胸の上の部分、首のすぐ下を叩いて、しきりにその部分をさして見せたのです。もしかしたら兄は、そのとき、例の1500ルーブルを縫い込んだ、あの香袋をさしていたのかもしれません!」と言った。「そうなんだよ!」とつぜんミーチャが席から叫んだ。「そうなんだ。アリョーシャ、あのとき、おれはその香袋をこぶしで叩いていたんだ!」。その後、カテリーナとグルーシェニカが呼び出され、それぞれ新事実となる証言をして、傍聴人たちを驚かせた。引きつづき、イワンが証人として登場した。
こうして裁判の場面を読んでいると、
科学捜査も無かったこの時代の裁判は、
現在の裁判よりもかなり精度を欠いており、
心証主義に近い裁判のようにも思える。
だが、『カラマーゾフの兄弟』が書かれた1879年のことを考えると、
また違ったものが見えてくる。
1879年は、日本では明治12年に当たるのだが、
この年は、日本の裁判の歴史において画期的な出来事が起こった年で、
平安時代から実施されてきた「さらし首」(梟首刑)を廃止したのだ。
明治12年1月31日に高橋お伝が斬首刑になっており、高橋お伝は、「日本で最後に打ち首となった女囚」とされることが多いが、これは誤りで、明治15年(1882年)1月1日に新律綱領・改定律例に代わって旧刑法が施行されるまで、斬首刑に処された女性が、明治13年(1880年)は7人、明治14年(1881年)は7人いる。さらに、お伝が死刑執行された年は彼女を含めて13人の女性が斬首刑に処せられた。
明治初期の日本には、近代的な法体系はまだ根づいておらず、
平安時代からの因習を引き摺っていたと言える。
江戸時代の「大岡越前」や「遠山の金さん」は、
裁判官であり検察官でもあるのだが、
お白洲に弁護士はおらず、
重視されるのは物証ではなく自白であった。
「大岡越前」や「遠山の金さん」の心証によって判決が下されていたのだ。
こうして、法廷の場面を、当時のロシアと日本を比べると、
ロシアの方がはるかに近代的だったことが判る。

ちなみに、日本の近代文学は、
坪内逍遥の『小説神髄』(1885年/明治18年)によって実質的に出発した。
日本の近代小説の嚆矢とされる『浮雲』を書いたのが1887年(明治20年)。
この時代にすでにロシアでは『カラマーゾフの兄弟』が存在していたことに、
私は驚かされるのである。
『カラマーゾフの兄弟』の初版の扉頁↓
