
現在は、毎日、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を少しずつ読んでいる。
『カラマーゾフの兄弟』の場合、
第〇部、第〇編、第〇節というように章立てされていて、
第1節を読んだら、その第1節をもう一度読み返しながら要約し、次の節へ移る……というように、行きつ戻りつしながら尺取虫のようにゆっくり読み進めている。

たまに、気分転換や息抜きに、違う本も読むこともあり、
今は、『毎日読みます』(ファン・ボルム)という韓国の作家の本を読んでいる。
これがすこぶる面白い。

【ファン・ボルム】
小説家、エッセイスト。大学でコンピューター工学を専攻し、LG電子にソフトウェア開発者として勤務した。転職を繰り返しながらも、「毎日読み、書く人間」としてのアイデンティティーを保っている。著書として、エッセイは本書のほか、『生まれて初めてのキックボクシング』、『このくらいの距離がちょうどいい』(いずれも未邦訳)がある。また、初の長篇小説『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(牧野美加訳、集英社)が日本で2024年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞した。

この『毎日読みます』という本の中に、
「ゆっくり読む」という章があり、そこに次のように記されていた。
ゆっくり読んでこそ見えるものがある。一文一文、丁寧にたどっていく者だけに与えてくれる贈り物。ありとあらゆる感性や思考の束が、伸びをするようにグーッと腕を伸ばしながら出てきて、わたしに話しかける。その言葉に誠心誠意答えていると、世の中に冷めていたわたしはすっかり消え去り、自分の中で起こる動揺にワクワクしているわたしだけが残る。本を閉じた瞬間、自分に対する理解度が一センチほど高まった気分。せっかちな読書ではけっして味わえない気分だ。
いくら速く読みたくても、どうしても速く読めない本もある。自分でも知らなかった自分の影の部分がわずか数文で見事に描き出されている本。長らく絡まっていた感情の糸をほどいてくれる本。駆け足でページをめくろうとすると、ついさっき読んだフレーズが心に引っかかり、後戻りしたくなる本。
フレデリック・グロの『Marcher,une philosophie』は、歩きたいという衝動を一日に何度も感じる人にぴったりの本だ。なぜしきりにここではないどこかへ行こうとするのか、なぜ毎回その手段として歩くことを選ぶのか、なぜ歩いたあとは生きているという実感が湧くのか、と不思議に思っている人なら、彼の、歩くことに関する思索の前でしばらく立ち止まることになるだろう。わたしも、思索する彼の言葉をゆっくりとたどりながら、夕方になると決まって散歩の準備をする自分の行動の理由を、じっくり考えてみた。(117頁)
この後に、フレデリック・グロの『Marcher,une philosophie』の中の一節が紹介されている。
歩かねばならない。一人で行かねばならない。山に登り、森の中を行かねばならない。人はいない。ただ、丘や、青々とした木々の葉があるのみだ。歩く人は、もはや何らかの役割をする必要はなく、何らかの地位にもなく、何らかの人物ですらない。歩く人はただ、道の上に転がっている石ころの尖った角や、肌をかすめる背の高い草、ひんやりした風を感じる肉体に過ぎない。歩いているあいだ、世界にはもはや現在も未来もない。ただ、朝と夕が繰り返されるだけだ。ただ毎日同じことをすればいい。歩きさえすればいいのだ。
なんと素晴らしい文章であろうか……
調べてみると、『Marcher,une philosophie』は、日本でも、
『歩くという哲学』(山と渓谷社、2025年2月刊)というタイトルで、
翻訳出版されているようだ。

ゆっくり読むことと、ゆっくり歩くことは、
どこか似ているような気がする。
ゆっくり読むことで、
ゆっくり歩くことで、
見えてくる世界があり、得られる感動がある。
若い頃は、
一冊でも多く読もうと、速読術を身に付けようとしたり、
一座でも多く登頂しようと、急ぎ足で登ろうとしたりするが、
70代になった今は、そんなことをする必要はまったくないし、できない。
ゆっくり読み、ゆっくり登ればイイ。
読書も、登山も、
70代になったからこその楽しみがあり、歓びがある。
70代にこんな豊かな時間が待っていようとは思ってもみなかったことである。
