
『カラマーゾフの兄弟』読了計画の第17回は、
第2部、第6編「ロシアの修道僧」の、

第3節「ゾシマ長老の談話と説教より」
(e)ロシアの修行僧とそのあるべき意義について
(f)主人と召使について。主人と召使は精神的にたがいに兄弟になれるか
(g)祈り、愛、異界との接触について
(h)人は同胞の裁き手になれるのか? 最後まで信じること
(i)地獄と地獄の火について、神秘的考察
を読みたいと思う。

第3節「ゾシマ長老の談話と説教より」
(e)ロシアの修行僧とそのあるべき意義について

【要約】
修行僧とはそもそも何か? 悲しいことだが、修行僧のなかにも寄食者、淫乱者、好色漢、厚かましい浮浪者などが少なからずいる。他方、同じ修行僧のなかにも、孤独を求め、静けさのなかでの燃えるような祈りを願う、謙虚で、穏やかな人々も数多くいる。これらの孤独な祈りを求める穏やかな修行僧のなかから、ロシアの大地の救済者が出てくる……修行僧についてわたしはこのように考えている。俗世は自由を宣言した。彼らの自由とは、隷従と自己喪失である。欲求を増大させる権利から生まれるものとは、富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。ものを貯めこめば貯めこむほど、喜びはいよいよ小さくなる。修行僧の歩むべき道は、服従や精進や祈りであり、そこにのみ、ほんもので真実の自由への道が開かれている。ロシアの救いは、民衆にかかっている。ロシアの修道院は、太古の昔から民衆とともにあった。民衆を大切にし、その心を守ってあげなさい。静けさのなかで民衆を教育しなさい。それこそが、あなたがた修道僧のはたすべき仕事だ。なぜなら、この民衆は神をになえる民だからだ。
ここでは、ゾシマ長老の談話と説教が断片的に語られている。
「ものを貯めこめば貯めこむほど、喜びはいよいよ小さくなる」
という言葉は、現代にも通じる言葉だと思った。
「食った後の方が食う前よりもなおひもじくなる」という表現と一致すると解釈する。
高級品や、美味しいものを求めて狂奔する現代人にも当てはまる言葉だと思った。
(f)主人と召使について。主人と召使は精神的にたがいに兄弟になれるか

【要約】
修道僧のみなさん、児童への虐待がなくなるように、一刻も早く立ち上がって、教えを説きなさい。一刻も早く。わたしたちロシアの人間は、貧しくなればなるほど、身分が低くなればなるほど、彼らのなかでますます立派な真理が明らかになるのだ。なぜなら、金持ちや搾取者たちというのは、その大半がすでに堕落しているからである。神は自分の僕(しもべ)である人間を救うだろう。なぜなら、ロシアはその謙虚さゆえに偉大だからだ。あるとき、巡礼の旅のさなか、わたしはK市で、かつて従卒だったアファナーシーに8年ぶりに出会った。アファナーシーは、市場で偶然わたしを見つけ、駆け寄ってきて、いきなりわたしに抱きついてきた。そして、わたしを自宅に案内した。彼はすでに除隊し、結婚して二児の父親になっていた。わたしが、「アファナーシーさん、あなたのことはいつも毎日欠かさず、神さまにお祈りしております。あの日からずっと。なにしろ、こうなったのはすべてあなたのおかげですから」と言うと、彼は、「あなたの財産は、いまどこにあるんです?」と訊いてきたので、「修道院に寄進しました。わたしたちはみな、寄宿舎住まいですから」と答えると、彼はわたしに修道院への寄進として50コペイカ銀貨を一枚取り出し、見ると別のもう一枚をわたしに握らせ、あわてた様子で言った。「これは、巡礼されているあなたにお渡しするものです、お坊さま、きっとお役に立つと思いますよ」。わたしはその銀貨を受けとり、彼と奥さんにお辞儀をすると、喜びをかみしめながら彼の家を辞した。あのとき以来、アファナーシーとはもう二度と会うことがなかった。わたしは彼の主人であり、彼はわたしの召使だったが、今わたしと彼がたがいに愛情をこめ、心からの深い感動のなかでキスを交わしたとき、わたしたちのあいだには、偉大な人間的一体感が生じたのだ。
「わたしたちロシアの人間は、貧しくなればなるほど、身分が低くなればなるほど、彼らのなかでますます立派な真理が明らかになる」
という考え方も、
「お金崇拝主義」の今の日本とは真逆の考え方のような気がする。
「いちばん素朴で貧しい人たちの中に神様は宿っている」という感覚は、
この時代のロシア人のいちばんの特徴なのかもしれない。
(g)祈り、愛、異界との接触について

【要約】
祈りを忘れてはならない。自分のために祈ってくれる人がいる、地上には自分を愛してくれる人間がいると感じられることほど、感動的なことはない。神が創られたすべてのものを愛しなさい。動物も、植物も、あらゆるものを愛すれば、それらのなかに、神の秘密を知ることができるだろう。人間よ、動物の上に立とうとしてはいけない。動物には罪がない。しかし人間は、偉大な力をもちながら、その出現によって大地を腐らせ、腐った足跡を後に残していく。悲しいことに、わたしたちの大半がそうなのだ! この地上では、多くのものがわたしたちの目から隠されているが、そのかわりに異界との、天上の至高の世界との生きたつながりという、神秘的で密やかな感覚を授かっているのだ。それに、わたしたちの思考と感情の根はここではなく、異界にあるのだ。神は、異界から種を運んで地上に蒔き、自分の庭を造られた。芽を出せたものはすべて芽を出したが、そうして育てあげられたものが現に生きつづけているのは、ひとえにそれが、神秘的な異界との接触の感覚を保っているからにほかならない。
(h)人は同胞の裁き手になれるのか? 最後まで信じること

【要約】
人はだれの裁き手にもなりえない。なぜなら、裁き手である自分も、目の前に立つ人間とまったく同じ罪人であり、目の前に立っている人間の罪に対し、ほかのだれよりも責任があるかもしれないということを自覚しないかぐり、この地上に罪人の裁き手など存在しえないからである。もし、自分の心によって裁かれる目の前の罪人の罪を、わが身に引き受けることができるなら、すみやかにその罪を引き受け、自分から彼のために苦しみ、なんら咎めだてすることなく、彼を解き放ってやりなさい。最後まで信じることだ。地上のすべての人々が邪道にはまり、おまえ一人だけが正しい道に残されることになっても、一人残されたおまえが犠牲を捧げ、神を讃えるのだ。人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。人類は預言者を受け入れようとせず、次から次へと彼らを殺してきたが、人々は自分たちの受難者を愛し、迫害された者たちをも敬う。聡明で、つねに強く美しくありなさい。節度を知りなさい。時宜を心得なさい。それを学びなさい。たとえ孤立のなかにあっても祈りなさい。大地にひれ伏し、大地に口づけすることを愛しなさい。大地に口づけをしなさい。倦まずたゆまず、愛しなさい。すべての人々を愛しなさい。すべてのものを愛しなさい。
(i)地獄と地獄の火について、神秘的考察

【要約】
わたしは《地獄とは何か》を考え、《これ以上はもはや愛せないという苦しみ》ととらえている。地上でみずからを滅ぼした者は哀れである。自殺者は哀れである! 彼ら以上に不幸せな人たちはいない。いるはずがない。とわたしは思う。その人たちについて神に祈ることは罪であると言われている。教会も、表向きは彼らをしりぞけているようだが、わたしは心の底では、それらの人たちのために祈ってもよいのではないかと考えている。愛ゆえの祈りに、キリストが腹を立てることはないからである。私は告白する。わたしは心のなかでそういした人たちのためにずっと祈ってきたし、現にいまも毎日祈りを捧げている。地獄にあって、なおも、傲慢で凶暴な態度をとりつづけるものがいる。悪魔や、その傲慢な精神に全面的に与している、恐ろしい連中もいる。彼らにとって地獄とは、自発的に求められた、つねに飽くことをしらないものだということだ。彼らはいわば、自発的な受難者なのだ。彼らは神と生命を呪うことによって、われとわが身を呪っているのだから。彼らはまた神を憎しみなしで見ることができず、彼らはまた生きた神がなくなることを、あるいは神がみずからを、さらにはみずからのすべての創造物を破壊することを、求めてやまない……そして彼らは、自分の怒りの火のなかで永遠に焼かれながら、死と虚無を渇望しつづける。だが、死は得られない……アレクセイ・カラマーゾフの手記は、ここで終わっているが、この手記は完全なものではなく、断片的である。長老の青春時代の初期にすぎない。彼の教えや見解についても、明らかに異なる時期に、異なる動機から語られたものがいっしょにまとめられ、ひとつの全体をなすようなかたちになっている。長老が人生最後の数時間に語った内容がどこにあたるのか正確に明示されていない。
自殺者に対するキリスト教の考えが知れて興味深い。
「その人たちについて神に祈ることは罪であると言われている。教会も、表向きは彼らをしりぞけているようだが、わたしは心の底では、それらの人たちのために祈ってもよいのではないかと考えている。愛ゆえの祈りに、キリストが腹を立てることはないからである。私は告白する。わたしは心のなかでそういした人たちのためにずっと祈ってきたし、現にいまも毎日祈りを捧げている」とは、ドストエフスキーの考えでもあるのか。
これで、第2巻(第2分)を読了した。
『カラマーゾフの兄弟』の中で、
第2部の「大審問官」と「ゾシマ長老の談話と説教より」が特に重要とされており、
読むのも、要約するのも大変だったが、
第3巻(第3部)では、物語はスピーディに展開するようなので、楽しみだ。