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『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)⑭ ……最大の難所「大審問官」……




カラマーゾフの兄弟』読了計画の第14回は、(これまでの記事はコチラから)
第2部、第5編「プロとコントラ」の、


第5節「大審問官」を読みたいと思う。
この「大審問官」は、『カラマーゾフの兄弟』の中でも最も難解とされるもので、
登山でいえば、世界文学の最高峰『カラマーゾフの兄弟』という山の、
滑落の危険がある最大の難所である。
ここで挫折し、登頂(読破)を諦める人も多いと聞く。
今回は、第5節「大審問官」だけを採り上げ、
時間をかけてじっくり読みたいと思う。



第2部、第5編、第5節「大審問官」


【要約】
16世紀スペインのセヴィリア、異端審問のさなかに「彼」が現れる。その「彼」が自分の王国にやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。この物語詩で「彼」は一言も口をきかないが、その正体はすぐ気づかれる。子どもの頃から盲(めし)いだった老人の目が見えるようにし、亡くなった7歳の少女を生き返らせるなど、集まった群衆に奇跡を起こしたからだ。そのとき、90歳になる大審問官が通りかかり、「彼」が起こす奇跡を目の当たりにし、「その者を召し捕れ」と護衛たちに命じ、牢獄に閉じ込める。そして「彼」に問う。「で、おまえがあれなのか? あれなのか?」。しかし答えを得られないまま、こう言い添える。「なぜ、われわれの邪魔をしに来た? おまえが何者かなど知らないし、知りたくもない。おまえがあれなのか、それともたんにその似姿にすぎないかなど。だが、明日にはおまえを裁きにかけ、最悪の異端者として火炙りにしてやる」と。それでも「彼」は黙っている。大審問官は、「おまえはすべてを法皇にゆだねたのだから、来なくていいのだ。少なくとも、しかるべきときが来るまでわれわれの邪魔はするな」と言った。「天上のパン」と「地上のパン」のうち、人間にとってより本質的で大事なのは「地上のパン」なのだ。福音書のマタイ伝でキリストは「人はパンのみにて生くるにあらず」と言ったが、その言葉が人間を誤らせた。精神の自由より飢えの充足の方がより重要なのだ。飢えの充足のためには、一部の選ばれた者が、大多数の凡人たちにパンを与えればよいと話を展開し、「人間というこの不幸せな存在にとって、生まれながらに授かった自由という贈り物をだれにいち早く手渡すべきか、その相手を見つめるための心配ほど、苦しいものはない」「彼らは非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者なのだ」と、人間に与えられた自由という特権の無意味さを説く。さらにこう語る。「この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らの幸せのために永遠に打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ」。そして、こうつけ加える。「われわれはおまえとではなく、あれとともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ! われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。おまえが憤ってしりぞけたもの、そう、あれがおまえに地上のすべての王国を指さして勧めた最後の贈りものを、あれから受け取ってちょうど八世紀になる。われわれはあれからローマと皇帝の剣を受けとり、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した」。人々の良心を支配し、その手に人々のパンを携えているものでなければ、人々を支配することはできない。われわれは皇帝の剣を手にし、剣を手にすることで、むろんおまえをしりぞけ、あれのあとについて歩み出した。われわれからパンを受け取る際、かれらははっきりと目にする。われわれが彼らの手で収穫されたパンを取りあげるのは、どんな奇跡もなしに彼らに分配するためだということを。われわれは彼らを働かせはするが、労働から解き放たれた自由な時間には、彼らの生活を、子どもらしい歌や合唱や、無邪気な踊りにあふれる子どもの遊びのようなものに仕立ててやるのだ。そう、われわれは彼らが罪をおかすのを許してやるので、彼らはまるで子どものようにわれわれを愛するだろう。こうして万人が幸せになる。彼らを支配する十万をのぞいた、何十憶という人々が幸せになるのだ。なぜなら、われわれだけが、そう、秘密を守っているわれわれだけが、代わりに不幸せになるのだから。何十憶という幸せな子どもたちと、善悪の認識の呪いをわが身に引きうけた十万の受難者が生まれる。受難者は静かに死んでいく。人の話や預言によれば、おまえはこの世に戻ってきてふたたび勝利を収める。選ばれた仲間たち、誇り高い強者たちを引き連れてくるという。だが、われわれはこう言う。彼らが救ったのは自分たちだけだが、われわれは万人を救ったとな。わたしは立ち上がり、まだ罪を知らない何十億という幸せな赤ん坊たちをおまえに指し示してやろう。そして、彼らの幸せのために罪を引き受けたわれわれは、おまえの前に立ってこう言う。「できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい」と。知るがいい。わたしはおまえなど恐れてはいない。わたしがおまえに話していることはいずれ実現し、われわれの王国は建設される。明日にもおまえは、そのおとなしい羊の群れを見ることになるのだ。われわれの邪魔をしにきた罪で火炙りになる炎に、わたしの指ひとつでわれ先にと熾火をかきあげる人の群れをだ。われわれの火刑にだれよりもふさわしい者がいるとするなら、それこそおまえだからだ。明日、わたしはおまえを火炙りにする。Dixi(これで終わりだ)。


イワンはそこで口をつぐんだ。アリョーシャは、「兄さんのその物語詩は、イエス賛美ですよ! 兄さんが願っているような非難なんかじゃない。苦悩する審問院の姿は幻想で、カトリックの運動はすべて権力欲にすぎない」と反論する。イワンは、自分流に人類を愛している老審問官のように、不幸で非力な人間の幸せを目指す秘密結社はすでにあると述べる。アリョーシャは兄がフリーメーソンではないかと疑う。「で、兄さんの物語詩は、どんな風にして終わるんです?」とアリョーシャが訊くと、イワンはこう答えた。審問官が口をつぐむと、「彼」は無言のままふいに老審問官のほうに近づき、血の気の失せた90歳の人間の唇に、静かにキスをするんだ。これが答えのすべてだった。そこで、老審問官は、ぎくりと身じろぎをし、ドアを開けてこう言う。「さあ、出ていけ、もう二度と来るなよ……ぜったいに来るな……ぜったいにだぞ、ぜったいに!」。「で、老人は?」とアリョーシャが訊くと、「キスの余韻が心に熱く燃えているが、今までの信念を変えることはない」とイワンは答えた。「そんな地獄を抱いてどうやって生きていけるのか」と問うアリョーシャに、イワンが出した答えは「カラマーゾフの下劣な力があるからどんなことにも耐えていける」だった。
どれだけ下劣に生きようとも「(神がいなければ)すべて許される」のだった。「おまえの心のなかにもおれの居場所がないことがわかった。かわいい隠遁坊や、『すべては許される』という公式、おれはこれを撤回しない。でも、だからといって、それがなんだという? この公式のせいで、おまえはこのおれを否定する気かい、どうなんだ?」とイワンが言うと、アリョーシャはとつぜん立ち上がり、彼に近づくと、何も言わず、彼の唇に静かにキスをした。「実地で盗作と来たか!」と、イワンは有頂天になって叫んだ。「これで話のたねはすべて尽きたし、何もかも話し尽くした。自分が三十近くになって死にたくなったらまた会いにくる」と告げ、イワンは家路についた。アリョーシャは、イワンの右肩が左肩よりもいくぶん下がっているのに気がついた。以前それに気づいたことはなかった。しかし、やがて彼もくるりと背を向け、ほとんど駆け足で修道院への道を急ぎだした。



一度読んだだけでは意味がよく解らず、
要約しながら(数冊の参考文献と照らし合わせながら)何度も読み返した。
私が若い頃に何度か『カラマーゾフの兄弟』の読破に挑戦したときも、
この「大審問官」あたりでつまずいた。
よく理解できない原因のひとつに、キリスト教への関心の無さがある。(笑)
関心もないし、知識もない。
若い頃は特に、他に興味あることがたくさんあったので、(コラコラ)
〈無理して読むことはない〉
と思ってしまったのだ。
70歳になって、『カラマーゾフの兄弟』に再挑戦している今、
「大審問官」までも面白かったし、「大審問官」そのものも大変面白かった。
全部が理解できたとは思わないが、70年の人生経験が助けになったように思う。
……ということで、この「大審問官」を読んで気づいたことをいくつか書き記しておきたい。

光文社文庫亀山郁夫訳では、

その彼が自分の王国にやってくる約束をして、もう十五世紀が経っている。(第2巻253頁)

というように「彼」という言葉がたくさん出てくるのだが、この「彼」とは誰なのか?
光文社文庫亀山郁夫以外の訳(例えば新潮文庫原卓也訳など)では、
「彼」は「キリスト」と表記されている。
ところがドストエフスキーの原文には、「キリスト」という言葉は一回も出てこないという。
イエス・キリストが登場するのは、この世が終わるとき、つまり最後の審判の前で、
イエス・キリストが登場してしまったら、
この世は終わらなければいけないというのがキリスト教における約束事なのだ。
ところがこの小説では、この世は終わっていない。
となると、「彼」がキリストなら、キリスト教のきまりでは違反になってしまう。
あるいは偽キリストということになってしまう。
しかし、キリストを想起させる「彼」は、
偽キリストかもしれないというニュアンスが醸し出されていることで、多義的に読める。
これは「キリスト」と書かないでキリストと誤解させる、ドストエフスキーの巧みな書き方なのだという。
こう指摘するのは、同志社大学大学院神学研究科終了の後、外務省、ロシア連邦日本大使館などを経て作家となった佐藤優だ。
新潮文庫の訳は原卓也さんです。原さんほどの学者が誤訳をした、と言ってしまうのはかわいそうなんです。日本におけるキリスト教理解の限界だったんですよ」(『生き抜くためのドストエフスキー入門 ̶「五大長編」集中講義̶』より)
と語る。
ロシア語に精通した翻訳家であっても、
キリスト教を完全に理解して、間違いなく訳すことは難しいのだ。
ましてや、何の知識もない読者はなおのことである。

「彼」にまつわる部分に限らず、「大審問官」にはいろいろな読み方があり、
「多くの人は正確に読めていない」と佐藤優は指摘する。
その理由は二つあって、
一つは、日本においてキリスト教の知識がまだ深く浸透していないから。
もう一つは、宗教の土着化という要素。
ドストエフスキーの小説は、ロシアの土着的な信仰を下敷きにしているため、
一般的なキリスト教の知識だけではわかりづらい部分が出てくるのだという。
一般的なキリスト教の知識すら持っていないのに、土着的な信仰の知識まで必要なんて、
凡人である読者の私は、もうお手上げである。(笑)
それでも読む。読み続ける。
全部を理解することは(『カラマーゾフの兄弟』に限らず)そもそも無理だが、
読み続けることで見えてくるものもある。
ほんの上澄みを掬い取ったようなものかもしれないが、
何かを感じ、心を動かされる。
それが文学というものなのかもしれない。

われわれはおまえとではなく、あれとともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ! われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。おまえが憤ってしりぞけたもの、そう、あれがおまえに地上のすべての王国を指さして勧めた最後の贈りものを、あれから受け取ってちょうど八世紀になる。われわれはあれからローマと皇帝の剣を受けとり、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。(第2巻281頁)

この場合の「あれ」とは何者か?
訳者の亀山郁夫は、「あれ」とは「悪魔」のことだと解釈する。
大審問官みずからが「悪魔」すなわちアンチ・キリストの側に立っていることを認める。
大審問官の話に、一言も発することなく耳を傾けていた「彼」は、
大審問官にキスをする。
キリストと思しき「彼」は、なぜ老審問官にキスをしたのか?
キスにどんな意味が込められていたのか?
亀山郁夫は、
「大審問官」が、あくまでもイワンの作品(物語詩)であると設定されているとした上で、イワンがめざすプロパガンダ、また革命への指向性を肯定するものでなければならなかったとし、イワンが狙いとしているのは、単に目の前のアリョーシャだけでなく、アリョーシャが精神的に屈服している背後の存在、すなわちゾシマ長老であり、キリスト教の原理ある……というような文脈で考えることで初めて、このキスの意味が明らかになるという。
「おっしゃる通り、たしかに人間には地上のパンが必要である。あなたに反論する資格はもはや私にはない、あなたの正しさを認めざるを得ない」というイエス・キリストの敗北宣言であったのだ。だが、イエス・キリストの敗北宣言とイワンの勝利宣言の間に、ひとかけらの神秘が残された。

「キスの余韻が心に熱く燃えているが、今までの信念を変えることはない」(第2巻296頁)

大審問官も、また「地上のパン」への固い信念のなかに一抹の迷いを感じ取っていたのだ。
それが「キスの余韻」だ。


イワンの無神論思想の根本を支える生命力は、「カラマーゾフの下劣な力」であり、
彼の無神論思想の根源に横たわるものは、「神がなければ、すべては許される」というアナーキズムだ。
イワンの思想はアリョーシャの心を絶望に陥れる。


「おまえの心のなかにもおれの居場所がないことがわかった。かわいい隠遁坊や、『すべては許される』という公式、おれはこれを撤回しない。でも、だからといって、それがなんだという? この公式のせいで、おまえはこのおれを否定する気かい、どうなんだ?」(第2巻299頁)

イワンがこう言うと、アリョーシャはとつぜん立ち上がり、
彼に近づくと、何も言わず、彼の唇に静かにキスをした。
このキスは、大審問官に敗北した「彼」と同様、アリョーシャがイワンに屈したということなのか?
様々な解釈が可能だが、
このアリョーシャのキスは、ドストエフスキーが彼に取らせた預言的な行動であると、
亀山郁夫は考える。
イワンが感じるであろう「キスの余韻」にすべての希望を託したのであろうか……
続きが楽しみだ。



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